魂のゆくえ。その29。

25からの続きがあって貼るの忘れてたんで貼るわ。

 

でもなんかこれってサマーディに似てるよね。サマーディだったらネガティヴな思念は消さなきゃ!もなにもないそんな境地じゃないんだもんね。でもまぁサマーディに至ることにたけている人でも日常生活において大変な状態に置かれているからそれで精神の乱れに繋がるっつーことはあってまぁそりゃ人間だからしょうがないにしてもだよ、理想はサマーディだよね。俗っぽく言うとホリエモンが言ってるとにかく今楽しいことにハマれ!ハマってればそれはジョブズの点と点で繋がっていくから金なんて後からついてくる!って話だよね。

 


ここで難しいのがさ、これもまぁある特殊能力を持った人からの助言だったんだけどお金的なことで「そうはいっても金は必要だしついてくるかどうかなんて分からないよね」って誰に言われるわけではないんだけど(笑)仮に言われたところで「まぁそうだけど・・・」ってなっちゃったらもうそれはその時点でダメなんだそうで、言い切って誰かがそれを実行するというより自分が体現者にならないと言葉も成就しないし「まぁそうだけど・・・」って言う理詰めの概念を受け止めている時点で言霊的な意味でもキリスト的な意味でもロゴスに曇りがあるということがつまりは魂の曇りで濁りなんだそうだよ。スピリチュアル的過ぎてスマン(笑)

 


それがまぁ前に書いた俺が自己信用はあるけど自己信頼がないってことなんだよね。完全にないわけじゃないけど信頼してないということが「それはそうだけど・・・」という理詰めの意見を受け止めてしまうっていう、100パーセント受け止めているわけじゃないにしても痛いところを突かれている感じがある時点でアウトなんだそうだよ。

 


いや、これってマジで信仰と似てるよね。ホリエモンとかは実績があるから言葉に信用性があるってのもあるけどあの人が凄いっつーかオーラがあるのって自己信用は最初からあるとして自己信頼が半端じゃないっつーところなんだなっていうさ、スピリチュアルとは正反対どころか本人大嫌いだろうけど(笑)ああいう人ってある種のところはスピ的に超高いんだよね。

 


でも重要なのはホリエモンの資産があっての言葉の説得力なんではなくて文無しでもあの存在感でそれを言い切れるというところの言葉の強さなんだと思うんだよね。いわばそれは原理なんであってっつってもなんでも夢が叶う魔法の原理!とかじゃなくてね、まぁある意味そんな夢が叶うレベルではない原理なんだけど、そこを凡夫は「なら金をくれ」ってことになるんだけど、そういう抽象度じゃないんだよね。

 


だから今の俺のステイトで言うとまだまだ現実の古い概念や物質に精神の抽象性が引っ張られているっていう状態なんだよね。いや、元々ぶっ飛んでるっつーか古い概念とか大嫌いなのにも関わらず、こんな俺ですらもそれに引っ張られてるんだもんね。だからぶっ飛んでない人がイッちゃうってのは相当難しいことだなって思うと同時に「これなんだからしょうがない」という強固なbelief systemはその人の言葉や概念が形成するインド哲学で言うところのマーヤっつー幻なわけで、それを信じ切っていてその体系から抜け出せない人を抜け出させるというのは凄まじいことなんだって思うと同時にホリエモンみたいな人が人の心を動かすのはそのbelief systemをぶっ壊すような凄まじい自己信頼とカリスマ性があるからなんだと思うんだよね。

 


俺が最近のホリエモンを評価するのってビジネスパーソンとかそういうことではなくて、本人が言葉に目覚めてるっていうところがあるからなんだよね。すげー「バカやってないでとっとと目覚めろ!」ってことをアツく言うようになってる。で、それがすげー原理に近いことを言ってるんだよね。いや、原理って同じなのよ。文字通り原理なのでね。

 


だから本人は宗教とか大嫌いでスピリチュアルなんてもっと嫌い!っつっても、精神世界で至上のものとされることを、そういった宗教とか精神世界を経ずに至る人もいて当然なんだよね。それは原理に至るあらゆる道がある。でも既存の宗教とか特にキリスト教なんかは「聖書のみ」とか「キリストのみ」という限定をすることで逆に原理への道の多様性を否定してたり、万人に伝えるための統治としての顕教をあたかも普遍のものとして流布することになる結果、マインドの監獄とか宗教的な監獄というのを植え付けることになっちゃってるんだよね。

 


仏教的に言えばってほど仏教に詳しいわけじゃないけど人によって言葉を変えるってまぁ顕教と密教の差っていうかさ、大乗と小乗の差だよね。でも修行の順番としては小乗から始めるのが当然なわけで、大乗になるかどうかはその人の器量によるよね。キリストとか仏陀レベルだと密教レベルのことを顕教的に万人に伝えようとするでしょ。

 


仏教の場合、密教的な密度の高い抽象度の高いレベルの考えを顕教的なものに落とし込む術とかやり方が上手い人とかとにかく頭が良い坊さんが多いってイメージがある中でキリスト教はやっぱりバカが多いんだよね(笑)歴史的に見てもキリスト教の神髄みたいなのってやっぱり密教的に大衆にはシェアされることはなくて、実際は広く広まったものはキリストの権威を借りた権力の統治機構のイデオロギーに成り下がってて、しかもそれが時を経てというよりかなりの初期からもう相当な劣化が始まってたってのがあるよね。

 


まぁそうじゃないと布教のための侵略戦争とかしないでしょ(笑)仏教が布教のための侵略戦争をしたことがあるのか?ってまぁそこまで詳しいわけじゃないんで無い!とは言い切れないけどキリスト教に比べたらほぼ無いに等しいよね。

 


キリスト教を神のロゴスの宗教だと仮定した場合、その神のロゴスを伝えるのが言わば宣教なんであって侵略ではないよね。その侵略の不自然さは言霊信仰から古神道を信奉する人たちが神道の名の元に侵略戦争をするようなもんだよね。でもまぁキリスト教って神への道なわけで神道だよね。特にヨハネの福音書が言霊信仰的なキャラクターが凄く強くて、つまりは言霊信仰的なロゴス信仰ってユダヤ密教的なヘブライ的世界観なんだよね。

 


今まではギリシャ的世界観の神学にばかりフォーカスが行っていたし、何しろ西洋の神学と言えばプラトンやらアリストテレスからのギリシャ的世界観のものがデフォだからユダヤ密教的な、カバラ的なものとかって良く言えば秘教だけど悪く言えばオカルトチックなんだよね。

 


でもそれってキリスト教の神秘主義者達がカバラをサンプリングした結果、言霊信仰っぽい様相を形作ったんであって、やっぱり俺がキリスト教の神秘主義に惹かれるのもそこなんだよね。ユダヤ教はやっぱり世界観が独特すぎるのと律法を守るという面が強いから、そこで律法の破壊者キリストを通した福音というのが原理に近いものって俺は感じられるんだよね。

 


旧約聖書で言うところのメルキゼデクだよね。ルールを守るとかそれに従うとかっていうんじゃない存在自体が原理みたいなことなんだよね。それこそが普遍なんであって原理は象徴的に神とか人格伸みたいな形であらわされることはあっても、存在自体は原理という超越的な概念なんであって、それは言葉にし難いものだからこそ象徴的に神話とか人格神として語られることが多いっていうことだよね。まぁようはそれって二次元化なんだよね(笑)精神病の薬とかが擬人化されるじゃん?八百万の神々の国日本だけあって(笑)擬人化の発想はDNAレベルで刻まれていますな。

 


抽象度を落として擬人化して分かりやすくするってのはさっき書いた顕教と同じなわけで、擬人化されることで元の概念が変化するなんてことはないんだよね。ただ擬人化されることでそれ自体が別の神になって崇拝されて誤解されるということはあるけど、そこはまぁ抽象的なものを擬人化することのリスクですよね。でもそれでも擬人化したり神話化するのは分かりやすい形でより教えが広まったほうがいいからっつーことでしょう。だからそれはオントロジーじゃないんだよね。唯一神ということでもない。

 


それは現象なんであって、キリストが凄いのはその現象が擬人化ではなくリアル化したっつーところなんだよね。そこはなんかやっぱ他の宗教に無いところじゃん?で、福音書っていうイエス伝的なものが残っていると。まぁだからあれだよね、聖書のみっつーよりイエスのみだよね。でもそれは原理のみってことなんでイエスを介さないとダメということではなくて原理が原理というトートロジーなんであって原理に至る道は色々あるというそれだけのことだよね。

 

ってことで25からの続きがまだあったんでまた今度貼るわ。

 

んじゃまた。