魂のゆくえ。その35。

新しいの出たんでよろしく。

 

Dissimilation

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意識って拡張したもん勝ちみたいなところがあって、今みたいに精神世界オンリーみたいな生活をしていると(笑)いかに意識が肉体とか3次元空間にシェイプされているか?っていうのが分かるよね。

 

例えばパリでもニューヨークでも思い浮かべるのに物理的空間の距離ってのは全く問題にならないのに例えば今の俺みたいに日本に帰ってきてもう10年以上経つようになると「日本にいる」という自己意識が強くなって意識までもが日本にいるように思えるようになるんだけど実は意識の位置って関係ないんだよね。

 

ただ自分っつーアバターを通して世界を見るというのがデフォの設定になるから物理空間における情報のやり取り=意識みたいになりがちなんだけど、瞑想とかって目的がどうであれ物理空間による情報の制約はただの幻想なんだってのを意識自体が感じるようにするために言わば意識を正す行為だよね。

 

オワコンシリーズから何年経ったか分からんけどメタバースとか言われてボチボチ俺が言ってた世界観がテクノロジー的にインフラ化されるようになりそうだけど、そもそもメタバース的なものって本来の意識の在り方に戻す感じだよね。むしろ物理空間に制約されている意識というのが間違いなんだよね。

 

かといっても三次元空間を卑近なものとして低く見る必要はないんだけど、それが全てではないんだってことだよね。でもそれは本来当然なはずなんだけど肉体を自己だと思う錯覚ってのが長く続いてるおかげで意識と身体を同一のものとして捉えるっていう概念エラーが起こっているわけなんだよね。

 

かといっても身体観がいらないか?というとそんなわけはなくて、むしろ自分の場合、武道とか太極拳だけどああいうものから得られる身体観というのは日常的なダラけた鋭くないものとはかけ離れたものなわけで、日本の武術っつーかまぁ居合とか弓ぐらいしか知らないけど禅的境地みたいな感じで、特に居合とか弓って瞬間の無みたいなのがアニメとかゲームとかでも強調されるように日常的な身体観とはかけ離れたものなんだよね。

 

かけ離れているからこそ人間離れした身体運用が可能になるわけで、まぁそれが昔は死活問題だったから習得に必死だったわけだよね。でも今はそういうのが必要なくなってなおかつ意識がネットと同調しているみたいな攻殻機動隊的な感じではなくて肉の自分がネットを利用するっていう肉の自分が中心になっちゃってるわけだよね。

 

でも実際、マインドの所在ってのは自由なわけで、完全に自由な境地が悟りとか言われたりもするし運用が尋常じゃない人はサイキックとか言われたりするんだけど意識の運用の仕方だから天性のものもあるにしてもその天性って元々その特殊運用のチャンネルがデフォで開いているってだけで開いているか開いていないか?っていうところだと思うんだよね。

 

まぁある程度のレベルまではってことなんだけど、例えばまぁ生まれつきフィジカルが強いやつが鍛えればまぁそりゃ身体は強くなるけどフィジカルが弱いやつにも強制的にフィジカルを鍛える訓練をさせればフィジカルは強くなっちゃうよね。ガリガリのやつでもたんぱく質取りまくって筋トレしまくれば元々筋肉が付きやすいやつほどではないにしても尋常じゃないぐらいそれを日課としてやればある程度のマッチョになっちゃうよね。

 

意識も同じなんだよね。でもそれはまさに見えない世界なんでフィジカルみたいに鍛えるという概念が介在しづらいのと意識を変える!っつってもありがちなマインドセットを変える!っていうOSのインストール的なパッケージ的なものしかなかったりするからそれをやったところで別のOSになるだけだから前よりかはマシかもしれないけどっつってもまぁあれか、意識が変わるだけでこんなに変わるのか?という実感を得れば意識を鍛えるみたいな感覚は出てくるのかな。

 

で、まぁ最近思うのがさ、人間が考えつくようなこととか言語に立脚したものってのはある程度のバリエーションが限られていて言いつくされたり出尽くすだろうっていうところなんだけどこれってまぁ特にこの精神世界に傾倒するようになってから俺が批判するロゴセントリックな感覚よね。

 

ロゴセントリックな感覚ってさっき書いた意識と肉体を同一化するような錯覚と同じで、何かを言葉で表現してそれが言語によって表現されたと勘違いしちゃうんだけど、そこは伝達の精度もさることながら喋った人間とその話を聞く人間との知識の差とか言語感の違いとか差異を上げればキリがないぐらいのものがあるわけで、簡単なことは伝わるけどっていうか例えば「塩を取って」とか「そこにある携帯取ってくれる?」とかってのは言葉というより指示という感じで言わば機械的というかAI的なプログラミング的な感じのものなわけで、そういったものが伝わりづらいということはないんだけど、高度なものとか抽象度が高いものになると言語化した時点で概念がダビングしたテープみたいに劣化する可能性があるしさらにそれを伝達させることでさらに劣化するか全く別の意味として捉えられることもあるわけで、言葉って所詮そんなものなんだよね。

 

でもそれは言語って意味での言葉なわけで、ロゴス的な意味での言葉は真なんだよね。前に書いたヘブライ的とか神道的な言語感ね。むしろそれはプログラミング的言語ではなくて重層的な意味がある比喩であったり比喩の中にもまた構造があるみたいな多重構造になっているようになっている結果、モンテカルロ法みたいな感じで真の概念へのarticulationとか近似が近くなるんだよね。

 

ユダヤ教ではトーラーは口伝だとかって言われるのも武術的な奥義と似てて、マニュアル的に書いてもそれは律法的だったり真の意味が伝わらないものになったりしちゃうんだけど同じ物理空間を共有して近い距離で特には身体を使ってそれを伝えるっていうことで伝わるっていうことがあるわけだよね。

 

精神世界系の本で特にガチっぽいやつは逆になんというか分からない人には永遠と分からないだろうなってことが書かれてて逆に分かりかけている人が分かるきっかけになるだけでその辺の意識の開き具合が狭いとそれこそトンデモ扱いしたり「スピ的な世界観だねー」みたいに考えちゃったりだとか、でもそれってそう解釈することで凄まじい劣化されたものとして判断しているっていう自分の霊性の低さとか認識の低さの投影でしかないってことに自分が永遠と気が付かないんだよね。

 

だから悟りについて語れても永遠に人を救えないみたいなパラドックスが出てくるわけだよね。特に近代の科学万能主義みたいな科学への盲信とそれ以外のものを否定しないとなんかダサいみたいな風潮って精神の可能性をガンガン閉じちゃってるんだよね。言葉然り。ロゴスではない言語としての言葉に比重を置きすぎるってのは全て数理的に考えるみたいな世界観と同じで言葉の定義と論理の世界ってのはめちゃめちゃ狭いんだよね。

 

それが全てだ!というのはすんげー洗脳なんだけど気が付かないんだよね。でもこれもやっかいで「本当にそうなんですよねー分かります」って同調してくるような人間がいたとして、そいつがトンデモ系の可能性があるってことなんだよね(笑)ようは科学とか論理なんて当たり前の世界で、ただそれ以外にも未知なものはあるし精神は開かれているべきだろうっていう考えと科学ガン無視論理ガン無視のスピリチュアル系っているじゃん?

 

言わば俺ってスウェーデンボルグ的なんだよね。まぁあそこまでの知性の持主じゃないにしても当たり前の科学とか論理ってのはあって、ただそれだけではない体験をしたんだけどでもあくまで記述は科学者的で一気に科学を否定したりスピリチュアルオンリーみたいな世界観になるわけじゃないんだよね。

 

むしろリアルなスピリチュアルってのは当たり前の科学と論理が無いとめちゃめちゃの世界になっちゃうんだよね。いわば諸学を修めてからの精神世界みたいなもんだよね。全く学がないやつが精神世界にハマると危ないのは当たり前の論理とか科学的知識を欠いてるからだよね。

 

例えばこんな感じでスピリチュアルなメッセージを発信してますとか活動してますってのはいいとしてさ、そこに明らかな程度の低いマネタイズとかあるともうそれだけでうさん臭いよね。いつも書くけど金の匂いがするかしないか?ってすげー重要なんだよね。かといっても無償だから真実とは限らないけどビジネス臭いのは大体疑ったほうがいいよね。

 

それがスキーム的なのか特殊能力を使うような施術による対価なのか?っていうところとかだよね。ただまぁ理想を言えばキリストが人々を無償で癒したように真のヒーラーって無償でやるはずなんだよね。もしくはヒーラー本人の機会費用としての人件費のみでパワー自体に法外な値段はつけないはずなんだよね。

 

まぁでもなんかのチャンネルを開いてあげますけど50万払ってください的なものはあるかもしれないよね。まぁそれは言わば意識のハウツーなんであってゲームで言うところの経験値を貯めてアンロックしなきゃいけないところを課金で一気にゲットしちゃうみたいなところだけど特殊能力全般が何より経験による習得を重視するのはそれが自分の霊的成長によってもたらされるっていうような流れじゃないと自然ではないっていうところにあるからなんだよね。

 

でも誰かが習得しててそれをセミナーとかで教えられるような内容なんだったらそれは絶対独学で習得可能なんだよ。絶対的なパワーを人間が持つはずないからね。そこが前に書いた人間は神の分霊という意味で平等というところなんだけど、凄いパワーを持ってる人たちにとってそれは誰にでも開発可能なことだってバレるのって都合が悪いじゃん?いわば自分たちはちょっと特殊な能力が使えるということで特権的な社会的地位を得ていてそれで食えてるのにみんなそれができるようになっちゃうと食えなくなるから「凄い!」ってことにしておいてハウツー的なものを教えないとかね、でもそれはエゴだよね。

 

仮に人類の救済ということを考えたときにより多くの人が他人に対して有用な精神エネルギーの使い方が分かるようになってたほうが世界が良くなるに決まってるじゃん?でもそれを独占し続けてるってのは相当アウトだよね。だからそういうのに群がっちゃダメなんだよね。あとまぁ霊的成長が伴ってないと大体危ないから絶対やめたほうがいいんだよね。

 

恐らくそういう能力全般ってあまりに「凄い!」と思われ過ぎてるんだけど以外にもっと近いことなんだよね。でもそれを阻む要素が多すぎるから結果的に開眼してるような人たちが「凄い!」ってことになっちゃうんだよね。まぁ阻む要素ってのが今回書いた科学とか論理とか言語みたいな常識的なものが全てだと思うような意識とか身体と意識を同一視してしまうようなデフォの感性だとかってことなんだけど、でもまぁ俺みたいに元々イッちゃってるやつは「ああそうなんだ」って思うと離脱が容易なんだよね(笑)

 

で、なんだこんなことだったのか・・・というのが全てではないにしても意識にリミットをかけているが故にできなかったことというのがかなり多いことに気が付くんだよね。あとまぁ再現性が100パーセントじゃないからそれは能力とは言えないとかさ、でもまぁそんなもん再現性があるようなものですら100パーセントなんて滅多にないわけだよね。まぁ完全に仕上がったネタをする漫才師とか完全な振り付けそのままのものを再現するアイドルユニットだとかまぁ再現性が重要になってくる業種とかは別にしてもよ、例えば格ゲーとかでウメハラとかのミラクルプレイとかがウメハラ自身に再現性があるのか?っていうと二度とできない類のものもあるわけでしょ?

 

でもミラクルを起こしたのはウメハラ本人なわけで、それは本人に帰属しますよね。かといっても全てのガードをジャスガしてくる人になるわけじゃないじゃん?(笑)機械ならそれは可能だけど人間だからね。

 

なんかだから再現性の低さとかに落胆する必要もないんだよね。むしろ10回に一回ぐらいできたらもうそれはできてるってことであとは精度を伸ばせばいいだけなんだよね。あとまぁそれをやろうと思っている時点で向いてるわけよ。めっちゃやろう!と思うのが才能だからね。

 

ただまぁそこであらゆる意味でドリームキラーは多いですよね。だからあんまそれは人に言わないほうがいいんだよね(笑)親切のつもりで言ってくれる人もいるのかもしれないけど本当に余計なお世話なのと、大体の人は論理と言葉の世界に生きてるからそれ以外のことをあたかも当たり前のことのように持ち出すってのは日常的な会話における齟齬を生み出すから、だからまぁこれもとある先生から言われたことなんだけどって前にも書いたかもしれないけど語彙を増やすってことだったりするんだよね。

 

齟齬が起こらないように上手い言い方をするとかバリエーションを何本も用意しておくとかそもそもそういう力の否定みたいなことにならないように話をするとかっていうことが必要になってくるんだけど、まぁ沈黙は金なりだよね。何しろ言うことで得することなんてほとんどないからね。だから言うやつほどうさん臭いしガチの人ほど言わないと思うんだよね。

 

まぁもちろんじゃあ俺は何を何に向けてやっているのか?ってのはそれは齟齬とか全く生まれないぐらい出来上がったらそれは逆に言わなくても分かるようになるしそうなってると思うんだよね。ただまぁプロセスの段階なので。

 

って感じで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。