躁鬱奇想天外さんへの返信。その2。

躁鬱、奇想天外!

 

ありがとうございます。耳セミさんから言われて気づいたのですが、私は現実を悲観的に捉えすぎていたのかもしれません。そういえばアドラーが言ってたのですが、人は嫌な目にあわないと生きている心地がしないそうです。私もそういう「嫌な目にあう」ためにこういう見方をしていたのかもなと思いました。

 

日本はわりと格差ないほうですよね。東アジアだけ見ても中国、韓国は受験戦争日本よりも激しそうですし。こないだハリケーンがあったケンタッキー州は8ドルで働いてる人いましたし。

 

斉藤さんについてはもう書かれていたのですね。それで思い出したのが彼がRADIO SAKAMOTOにイケメン哲学者こと國分功一郎さんと出てた時に國分さんが「イギリスの出版社と仕事したときに金曜にメールを送っても彼らは金土日も休みだから返信来なくて驚いた」と言っててそれで斉藤さんが「日本人は働きすぎているし〜」と言ってましたね。

 

彼は今でいう宮台さんみたいな存在になっていくのでしょうか?でも宮台さんみたいな性の問題も話せる人は世相を見るとこの先出て来そうにない気がします。斉藤さんはサブカルとゆうより学者よりの方なので木村草太さんみたいな感じになるのかなあと。

 

私は一時期生聖書を教会からもらって読んでてあんまり記憶に残らなかったのですが唯一おぼえてるのがあって「コヘレトの言葉」てやつなんですけど「04:02 既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ」てやつですね。

 

これはずっとおぼえてました。最近流行りの反出生主義みたいなものの源流なのかなあと。「ん?でもキリスト教て自殺は禁止されてるのにこんなこと書いてあるのは大丈夫なのかな?」とは思いましたが。耳セミさんの言うように至るところに聖書から影響されてるものがあると思います。

 

耳セミさんのような強度で信じることはどうやったらできるんでしょうか・・・私の周りにも池田大先生がやってるでおなじみの某学会の人とか真光?てゆう手かざし系の人ががいるんですがまあ活き活きとされてて羨ましいです。やっぱ人間なにか信じれるものがあると強いと思います。私もなにか信じれるものがほしいです。

 

あと耳セミさんは瞑想はやられてますか?素人がやると魔境?てのに入って危険だと聞いたんですが実際どうなんでしょうかね?なにか関連書籍で参考になったものはありますか?

 

あっあと追加です。

 

最近Yeという名前に改名したり宗教的なアルバムを出したりしてるキリスト教を信仰してるカニエウエストがいますけど彼についてはどう思いますか?

 


お返事ありがとうございます。

 

現実の見方もそうなんですが、現実がクソ過ぎるということを考えたり言っていてもしょうがないので建設的な方向で考えるとかこんなクソみたいな現実の中でより良い人生を送れないものだろうか?って考えることが大事だと思います。なんかこれって人に期待しないのと同じですよね。現実に期待しないし、仮に現実で良いことがあったら期待していない分、ちょっと嬉しくなるみたいな感じですね。

 

ところで宮台さんの話が出ていますが、いろんな意味で宮台さんのようになる人はいないと思います。僕がまぁ宮台世代でもあるので評価をし過ぎるところはあると思いますが、やはり僕らの世代で言うところのみんな宮台さんのようになりたかった!みたいなお笑いで言うところのダウンタウンみたいな存在ですよね。ダウンタウンに憧れて芸人になる人はいますがダウンタウンのようになれるか?というと恐らくなれないですよね。

 

そういった意味で特別な人間だと思います。宮台さんのように学問の世界に限らず様々な人間とのコネクションやコミュニケーションをしてきたということとか、あとフィールドワークで様々な人間に出会っているとか、それでなおかつあの知識量で音楽や映画や芸術などに造詣が深いってまぁなんかほぼ完ぺきな人ですよね。まぁめちゃめちゃ頭が良いのは間違いないんですが、あそこまで包括的に様々なことを語れてなおかつ様々な識者と意見を交わすことができる人間というのはいないと思いますね。

 

でもそれは國分さんや斎藤さんが宮台さんに劣るという意味ではなく役割が違うだけという感じがします。やっぱり宮台さんは社会学者ということもあってサブカルの研究や映画の批評や様々な人間と交流するということが社会学というプロパーの分野に直結するので、宮台さんが社会学者であるということは大きいと思うんですね。かといっても他の社会学者があそこまでの見識を持っているのか?っていうと違うので、やはり人間的な優秀さがずば抜けていますよね。

 

僕は若手のアカデミシャンは嫌いな人間のほうが多いのですが(笑)國分さんや斎藤さんは良識がある人間で彼らがやっている学問を良い社会の還元の仕方をしていると思うし、分かりやすい本を書いて一般的な啓蒙もされているので良い知識人だなと本当に思いますね。

 

あと例のコへレトの言葉なのですが、僕は主に新約聖書を研究しているので旧約に関してはあまり詳しくないのですが、おっしゃられるようにコヘレトの言葉全般が厭世主義っぽい感じはしますよね。旧約聖書は色々なものの寄せ集めなので一貫性がないんですよね。

 

それに比べると新約聖書はキリストの福音という一貫したテーマがあると思うのですが、旧約聖書はユダヤ教以外の古代の宗教や歴史に名を残していない古代に存在していたであろう宗教などからの箴言みたいなものを集めたりしているものなので、「なんかこれっておかしくない?」って思うことは多いですよね(笑)ましてや新約聖書との関連性を無理やりこじつけるのは相当厳しいなっていうところもあって、だからまぁなんか心に響くところをだけを読めばいいんじゃないかな?って思っていますね。

 


僕のような強度で何かを信じるということなんですが、まぁ創価学会とか手かざし系の人が活き活きしているのと、僕の活き活きした見た目は確かに変わらないのかもしれませんが(笑)僕はそういった教団や特定の宗派に帰依しているわけではなく、善としてのキリストに帰依しているので、それは信じるというより人間なら当然だろうという感じがしているんですね。これは何も今に始まったことではなくて、昔から僕は悪の問題や善くあることとかプラトン的な意味での善について考えてきたというのもあって、今はプラトン的な善の解釈でキリストに帰依しているわけではありませんが、結局はレオシュトラウスなどの影響が大きいんですよね。簡単に言ってしまえば何もかもを相対化したら何が善なのか分からなくなってしまいますよね。

 

そこでレオシュトラウスは古代の思想に絶対的な善を求めて現代的な相対主義に対抗しようとしたという感じなんですが、カール・バルトなどもローマ書の中でそもそもの神や善への弁護などありえないって言っているんですよね。そんなもん人間以前に神によって規定されているから弁護など入る余地がないんだと。よく時代によって何が良いか悪いかなんて変わるなんて言いますけど、聖書の時代やそれ以前から何が善いことなのか?って色々と述べられていて普遍的なものってあるわけですよね。モーゼの十戒なんかも典型的でまぁそりゃやったらダメだよねっていう当たり前のことが書いてあるわけですが、極端な相対主義だとそれすらも分からないし相対的だって言うわけですけど、でも理由なき殺人が悪ということは明白ですよね。

 

理由がないといっても殺人者の経歴をたどっていけばその殺人をトリガーした過去の家庭環境などの不全があるといっても殺人を犯したということに変わりはないわけで、そこに弁護の余地があるかどうかはケースバイケースとしても殺人は良くないことですよね。

 

まぁそういった当たり前の悪を憎んで善に帰依するというのが僕のキリストへの帰依なので、躁鬱さんがおっしゃられているような新興宗教への帰依とか信仰とは全然違います。最近はキリスト教に帰依したと言わなくなっているのもキリスト教というと教団に帰依しているようになってしまうからですよね。でも僕はキリスト個人に帰依しているのであってカトリックもプロテスタントもどうでもいいと思っています。ただまぁ教会とかは好きですけどね(笑)

 

善を信じるって楽だと思うんですよね。どっかの教団の教義を勉強してその教義に反さないように戒律のようなものを守るとかってことに比べたら善への帰依なんて凄く簡単だと思います。ただこれは現実がクソ過ぎるので善への帰依なんて理想論だってことになりかねないんですが、だからこその善への帰依でもあるんですよね。相対主義が跋扈しているからこそ絶対的な善の重要さが必要というのと似ていますよね。

 

ただでもそれだったら別に仏教でもいいしイスラムでもいいし何かしらの善を象徴するものであればいいと思うんですが、僕がキリストに帰依したのは本当に個人的な体験です。あとここまでの強度で信仰するようになったのも体験とか信仰するようになってからの自分の人生の流れの変化とか心の変化ということが多いです。まぁあとこれは書くとあまりにもうさん臭くなってしまうので書きたくないんですが(笑)スピリチュアル的なことも大きいです。で、これは学問的にキリスト教に帰依しつつやっていこう!って思っていた3年前ぐらいと全然信仰の形態が異なります。そういった意味では宗教ですらないですね。

 

何しろ既存のキリスト教については良い印象はないし意味の分からないつじつま合わせの教義とかバカバカしいと思うし、そこは一般的な日本人が「なんであんな異様なキリスト教なんかに帰依しているの?」って思う感覚とほぼ変わりないと思います。

 

それは教義学やキリスト教的なものを勉強したからこそ違和感を感じてそのキリストじゃないんだよなってことが分かったというのも大きいです。だから自分の中ではこれは勝手に真のキリストへの帰依だと思っていて教会とか既存の教義とか関係ないわけですね。ただまぁ宗教を勉強するようになってから宗教全般に寛容になったというのはありますね。創価学会なんかにしても昔は頭ごなしに批判してましたが、良からぬ噂はあっても信者さんの中には本当に池田大作が言うような世界平和を実現したいと思って信仰している人がいれば、それも善への帰依の一つの形なので全然いいと思うんですね。明らかに金儲けな教団とかはどうかと思いますが(笑)

 

でもまぁそれ言い出すとキリスト教系の教団だってうさん臭いところ多いわけですよ。あとまぁ頭ごなしに神智学とかを否定したりしますからね。ようは正統な教義に乗っ取らない形でのキリスト信仰を認めないわけですよね。だから教会側はあんなものはニューエイジだなんつって批判するわけですが、ニューエイジにも有用な思想はあるので、僕はそういった既存の宗教の不寛容さが凄く嫌いなんですね。ぶっちゃけどんなものも読んで自分で考えればいいのに教会の言うことだけ信じてなさいなんて洗脳と同じですしカルトとあまり変わりないですよね。


最後に瞑想なんですが、最近は瞑想しよう!と思ってやっているよりなんか自然とやっちゃうときにやっているという感じなので、瞑想しているという感覚はないんですがニューエイジからスピリチュアルから仏教から密教まで瞑想に関する本は結構読んだと思いますが一番いいのはヴィッパサナー瞑想と呼ばれるものです。これは僕が説明するより調べていただいたほうがいいと思うので興味があったら調べてみてください。本も色々と出版されていて魔境に入ってしまうような激しいことは書いてないものが大半なので、興味があればやってみてください。

 

あとカニエウェストなんですが典型的なキリストが言う「気をつけよ!」って言っていた偽預言者ですね(笑)セレブ向けの高額なキリスト教関係の会合というかライブをやっているみたいなのを読んだことがあるんですが、まぁそれはいいとして問題は本人がキリストの生まれ変わりとかって思っていることですよね。統一教会とかと同じですね。統一教会は武装したり強引な勧誘に従わないものに危害を加えたりするカルトなので問題外なんですが、自分がキリストの生まれ変わりだという風に言って教祖になっているものは例外なく邪教といって過言ではないです。

 

そもそもキリストに帰依することに宗教団体は必要ありません。日本ではキリストというと宗教臭さとうさん臭さが凄まじかったり、エホバとかとごっちゃにされているのもあると思いますが(笑)キリストへの帰依は言わば仏門に入らずに個人的にブッダが大好きでブッダの思想を研究して実践しながら生活しているみたいなことと同じことですね。もしくは禅なら道元とか、禅ってあんまり宗教臭さないですよね。僕の信仰の形態は禅や仏門に入らないタイプの個人的にブッダに帰依している人間の信仰と似ていると思います。ただまぁキリストに絡めて何かを言うとすさまじく宗教臭くなってしまうんですけどね(笑)

 

ただ真に善なるものを求めるみたいなことが宗教的で気持ち悪いみたいな風潮があったとしたらそれはヤバいですよね。この間、とある駅のホームで急に倒れた人がいまして、気絶しているようで顔から倒れてしまって顔から血が出てたんですよね。当然、僕は駆け寄って「大丈夫ですか!」って声をかけていたんです。その時は必死だったので考えもしなかったのですが、倒れたのを見たのに素通りしたり「何あれ?」みたいな感じで横目で見ながら無視する人たちが多かったんですよね。

 

まぁ有名な社会学の研究で60年代だかにニューヨークで暴漢に襲われていた女性が助けを求めていたのに明らかにみんな気づいていたのに「他の人間が警察に連絡しているだろう」という気になって結局、誰も警察に電話かけなかったみたいなのがあるんですけど、今の僕の話の場合、怖そうな暴漢もいなければ現場にいるリスクとかもないわけですよね。

 

それなのに素通りしたり見て見ぬふりをするってどういう神経なんだろう?って次の日とかに思ったんですよね。最初に熱心に倒れた人に声をかけていたのは僕とやんちゃそうな半グレまでいかないですけど、若干チンピラっぽいけどそこまで悪そうじゃない兄ちゃん達でした。「おとうさーん!大丈夫ー!」なんてその兄ちゃんたちは声をかけていましたが、中には通りがかるおっさんの中には半笑いで「救急車呼んだら?」とかって言ってた人もいたんですよね。

 

僕の善への帰依ってこういう色んな体験が重なっている結果だと理解していただけるとありがたいです。人が関わるものもあれば内的世界体験や善の気づきが与えてくれたものとかがここ数年色々とあるんですね。凄く意識をそちらに向けているので善の不在や悪などに凄まじく敏感になってしまうんですよね。でもまぁこれは自分は良いことだと思ってるんですね。あとまぁそうなってしまうのでがら空きにならないようなバリア的なものを張る方法とか色々あるんですが、いろんなマインドワークをやったりなんかして、まぁ結局行きつくのがキリストとか最近書いているキリスト意識だったりするんですね。

 

実際、体験が無いとここまで強く信仰を持つことって難しいと思うんですよね。本を読んで感動したからっていうのが入り口だったりしても、信仰が深まるのは何らかの外的要素によるフィードバックなんだと思うんですよね。まぁそれは僕が善や神を強く意識するようになったからこそフィードバックとして現象としてそれが現れたりすることがあるってことですね。最初は不思議だなーとかって思ってたんですが、色々と整合性が分かってきたりするとそういうものはあるんだなっていう帰結に至るわけなんですよね。

 

でもそれは無い人には全く理解できないことなので、だからあまり会話とかに出すべきではないとかって最近よく書くんですけどね。言語だと伝わらないし齟齬があるしあとそういった体験を親の仇のように否定してくる人とかがいるんで無駄な衝突を生んだりもするんですよね。まぁ僕はそういう衝突があったわけじゃないんですが、その予兆みたいなのは感じたりするんで、あんま言わないほうがいいトピックなんだなって思うんですね。いや、別にホームで倒れた人の話をするとかではなくて、精神性全般みたいな話になったときに神的な概念が介在しそうになったときに伝わらなさそうな人に伝えても良いことがあまりないのでそこは上手くスルーするとか別な言葉で言うとか会話を切り上げるとかまぁ色々とスキルが必要なんですよね。

 

まぁ別に話したくてしょうがないわけではないので(笑)ぶっちゃけそんなに困ることはないんですけどね。ただまぁ宗教ともスピリチュアルとも違うっていうニュアンスはやはり伝わりづらいかなと思います。ただ僕はニュートン力学的ではない物理世界の話だって思ってますけどね。ようはまぁ当たり前にある世界ですね。

 

そんな感じで今日はこの辺で失礼します。