文学三昧な日々。その17。

ff10のワッカがミームになってるらしいんだけど話題の動画があって

 

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で、なんか背景あんま分からないんだけどEbon Juというワッカをモチーフにした動画を4年前からひたすら投稿している愛すべき狂人がいるんだけど、頭をガツン!と殴られる感じってのはこういうことを言うんだよね。いやーEbon Ju凄すぎる。真の芸術家だね。ネタが幅広くて表層を掬う感じじゃなくてサブカル全般を網羅してる教養の高さが半端ないんだよね。多分、あと俺世代がドストライクなんだろうな。あるあるネタが若い人には分からんだろうなってのがあってまたそれがいいんだよね。変に媚びてないところが最高過ぎる。↓チャンネル凄いから見てみて。

 

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ってことで以下は三昧シリーズの続きです。

 

師匠のところに行ってきたんだけど、相変わらず情報筒抜けで(笑)言ってないんだけど今の俺は一日一万字!って決めててさ、まぁあんまネタが無くても最悪4000字は書く!って決めてたんだけど、こういう話をしたわけじゃないんだけど、まぁアドバイスって抽象的な感じでそれを解釈すると思い当たるってことなんだけど、作家ごっこ始めてからというもの昼夜逆転の生活がデフォになっちゃって、最近戻って来たけど、あと書くのと読むのとでそれ以外何もやってなくてさ、んでまぁ俺ってあれじゃん?書いてない自分は生きる価値がない!とかって思うじゃん?すぐ。

 

「それが俺なんだよねーアハハ」っていうよりもそれって結構危ないらしくて、ようは俺みたいに対象を虫メガネで焼き尽くすほどにハマる人間の場合、それをやって他のことをやらなさすぎると熱が身体に籠り過ぎてそれを発散しないと籠った熱が自分を攻撃し始めるらしいんだわ。

 

スピ的な話はしないけど、一般論で言うとあれですよね、春樹先生じゃないけど書いて走って書いて走ってってあれって実はすんげー合理的なんだってことがよく分かったのね。本人は走るなんて文学者っぽいくないかと思われるかもしれないけど的なことを言ってるんだけど、何かに没頭する人ほど走るとか運動するとか歩くでもいいんだよね、別に直射日光を浴びなくても身体を動かして汗を流す。

 

身体を動かすのもしんどかったらお風呂に発汗作用がある塩を入れて汗を出すとか、汗を出すってすんげー大事なんだよねってことがよく分かったんすよ。太極拳はコロナ以降ずーっと休んでてそっから昼夜逆転だからずーっと休み続けてるんだけど、書きたかったらむしろ太極拳やったり運動しろってことなんだよね。

 

運動するとIQが上がるみたいな話があるけど単純に全身に気が回って頭が回りやすくなるって話なんだよね。だから運動しないで没頭してるってのが身体的にもメンタル的にも良くないっていう。

 

あと面白いのさが、なんかね、あんま先生に言われたこと全部書くっつーのはアレだから部分的に言うんだけど、あれなんだよね、俺ってカットアンドペーストっつーかまぁ実際は写経みたいな感じで色んな小説写して自分でも書いてまぁリミックスって勝手に思ってるんだけど当初の思い込みがさ「前衛的な純文学だ!」っつーところから始めってんのよね。

 

でも先生が具体的に文学の話をしていたわけじゃないんだけど、今の俺ってのは当初決めたものに生真面目過ぎるからそこから外れるということをしたくないから、仮に官能小説とかラノベもコピーしてきたところで落としどころは純文学だ!って思いこんでるが良くないっていう解釈ができたんだよね。

 

ようは結果、ラノベになったりBL小説になったり娯楽小説になってもいいわけで、書いてればどんどん変わっていってやってみたいことが増えるはずなのに純文学的じゃないものをやろうとしなかったりあくまで素材として使うとしても行先が純文学って決めつけてるのが良くないってことなんだよね。結果はもうやりたいこととか書きたいことを書いてたらそうなりましたっつーんでよくて体裁とかどうでもいいってことなんだよね。

 

ただ占いではないからさ(笑)書いてるってことが何かに結実するんですかね?みたいなそんなことは直接的には聞けないんだけど、今って全く分からないじゃん?でもまぁ書きたいから書くってことなんだけど、なんかもっと柔軟にならないとダメなんだよね。いや、めっちゃ柔軟なつもりなんだけど生真面目さが命取りになってるんだよね。自分の世界に没入して書きまくれるときはいいんだけど逆にそうじゃないときは変な話、映画みたりゲームやったりボケーっとすることも重要なんだけど、俺って根はニートの癖になんか「生産性命!」みたいなところがあって(笑)すべての時間が文学に向いてないと納得いかない!みたいな感じになっちゃってて、言わば過熱し過ぎなんだよね。

 

まぁほかにもうやりたいことないし欲しいものもなくなっちゃったし、まぁ文学書はそりゃあるけどそれ以外って意味だとホントに無くなっちゃったから大好きな買い物をする日!みたいなのもなくなっちゃってんのよね。だからマジで外出ないわけよ。行ってもつまらんし。

 

でもまぁそういうのもあれなんだと、物とかね、飯を食うのは好きだけど、そういうので精神を満たすっていうフェーズじゃなくなってるらしいんだよね。あと本っていう段階でもなくてね、本っていう簡単にアクセス可能なものな場合、俺みたいな熱狂する人間って見つけるともう自己投資だ!ってのもあって金なんて考えないで買うじゃん?

 

その結果、今支払いがだいぶキツイんだけど(笑)ただエッセンシャルなものを何百冊買って、あとまぁ数か月前に買った日本文学全集とか世界文学全集があると古典って大体カバーできてるからさ、そっから先に進むというよりまず手元のを読むのだけでもまぁそりゃ大変なんだよね。モノが手元にあるっていうその揃えるのが早いのね。でも書店で買うのって楽しいじゃん?でも今ぐらいのペースでバカみたいに読んでると「あ、これはあれ系ね」とか「何々系か」とかすぐ分かっちゃってあえて買おうと思うものがそんなに無くなるんだよね。いや、それは「これいいな」って思ってるのはもうとっくに何百冊買ってるから他になんかないかなーって探した時に発見できる確率がどんどん少なくなってるってことなんだよね。

 

そうすると書店に行く楽しみが無くなっちゃうんだよね。大型書店の文芸のコーナーを隅から隅まで全部チェックして・・・ってことをやってると店内に3時間ぐらいいることになるけど、それを色んな書店でやってると今、書店で並んでる本がどういうものか?ってのが分かるわけじゃん?で、気に行ったり少しでも迷うのがあったら即買いじゃないですか?

 

そういうのを続けていくとまぁ本来の俺が読みそうじゃないものも結構な量買っててさ、んであと前に書いたBL小説とかももう何十冊も買ったし、あと最近は携帯小説とかラノベをディグってるんだよね。転生系とかなろう系っつーの?電撃文庫とかね、際限なく買ってますわ。

 

だからなんかそのアウトプットの自由度で言うと結果ラノベになってもいいんだよね。ラノベを書こう!じゃなくてなんか書こう!でもうよくて形式にこだわる必要はないわけだよね。特に俺みたいに書き始めのやつなんかは狙って色々やれるわけじゃないから思いついたらもうそれやっちゃっていいし変に芸術家ぶらなくていいんだよね。

 

でもまぁあれだよね、本質的に哲学気質だからやっぱポストモダンも含めた文芸理論とかジュネットとかは読むよねっていうかそういうのが楽しくてしょうがないんだよね。分析好きだから理論的な道具とかになるものが面白いのと結局、フィクションの見方が変わるっていうことでそれって認識が変わるってことじゃん?そうなるとより読むのが楽しくなるっつーのがあるよね。

 

で、結局、その気質でやっぱり言語表現とは?とか小説とは?とかフィクションとは?っていうラディカルなことばかりに目が行くっていうまぁそれはもういいんじゃねーかなって思ってるわ。もうようはそれが好きだからってことでしょ。小説と言う体裁を維持するために書きたくもないことを書くぐらいだったら客観的に支離滅裂でも俺が「これは小説なのだ!」と言えば小説というようなものを書き続けたいわ。結構ペースは良くて今は65万文字になったんだよね。130万文字が目標だったけど余裕っぽいから最近は文字数どうのじゃなくて書いてて死ぬほど楽しい!みたいなのを軸にしてるね。まぁただある程度は論理的な作業だから作業的なことはあるんだけどね。

 

 なんかでも書き始めの頃って毎日書くためには?みたいなのを必死で調べたり読んだりしてたけどさすが俺ですな。「これだ!」と思ったらやるやらない関係なくやってるのね。だから文字数なんて気にしなくても締め切りがあるわけでもないんで好きでやってれば勝手に話が増えていくってことだけなんだよね。これほど楽なことはないわ。

 

基本何で俺がここまで熱を発散しなきゃいけないぐらい熱狂的になるのか?っていうとやっぱり退屈から来てるんだよね。色んなものが俺の経験と言う意味からオワコンになってるからようは昔はモノとか娯楽で満たせていた心がそういうもので満たせなくなってきてる。で、今は何で満たせているのか?っていうと精神性であったり知識だったりするんだけど、知識とかもようは俺のことだから勝手にフリーにしてれば「読んじゃダメ!」とか言われても読んじゃうんだよね。

 

もっと買う本を分散させて一気に請求が来ると支払いキツイからまとめて買うのやめなさい!っつわれても買っちゃうし読んじゃう。だからそこに「やるぞ!」みたいなのがないんだよね。楽しいことをやるってのは当たり前だわな。で、書くということもそのぐらい自然にできるようになったらなぁと思っていたんだけど全然そうなったんだよね。書くっつってもウォール伝は二十年ぐらい書いてるから書くということが習慣化している中で、ただまぁそこで小説っつーフィクションはさすがにウォール伝みたいな一筆書きのペースじゃ書けないんですよ。そのうち書けるようになると思うんだけどね。

 

だからそういうもどかしさが壁になるのかな?と思ったら書かずにはいられないっていうのがもう習慣になっててさ、まさに曲作りだなと同じだなと思ってね。あとまぁ書いてるときが楽しいし思いついたことを稚拙でもいいから形にするという作業が楽しくてしょうがないから、やっぱりその楽しいことに向かう動機づけがそれなしでは退屈過ぎて生きていけないっていうのがあるんだよね。だから熱量が凄くなっちゃう。ほどほどに・・・たまには映画を見たりゲームをやったりとかってのが無くなっちゃうのね。もうすんげーフォーカスしちゃう。

 

それはそれでいいんだけどね、ただまぁそこで最初に書いた運動とかさ、そればっかじゃなくてたまにはなんか他のことをやってみるっつってもそれがないから困ってるんだけどっつーかエルデンリング終わってからタイニー・ティナのやつとかも買って結構やってたけど書くようになってからもう全くゲームやらなくなっちゃったね。多分もう潮時なんだろうな。

 

あとやっぱ小説が読めるようになったことでさ、ある意味他のフィクションが低く見えるんだよね。緻密な小説の話をビジュアライズした時の凄さってやっぱ映画とか比じゃないわけですよ。もう小説が凄まじい強度を持っているし小説じゃないと表現できない強度がある。もちろんそういう優れた小説に限った話なんだけどね。

 

まぁでもんで合間合間にBL読んだりあと理屈っぽいからBL論みたいなのを読んだりさ、ラノベもすんげー今楽しいんだよね。いや、ホントあれだよ、書くようになってから本当に小説が読めるようになったんだよね。もう情景が浮かぶどころの話じゃない。その場に自分がいないような感じになるんだよね。どっか行っちゃってるから退屈さを全く感じない。小説が仮に退屈でも日常の退屈の中にいるわけじゃないから退屈な小説でも読んでいた方がまだ日常よりかはマシってことがあるんだよね。

 

それはなんか色々と道楽をやり尽くしてきたやつの強みじゃないかなと思ってね。飲み歩きとか食べ歩きとか買い物とか旅行が楽しかったら晴れててさ、旅行日和!とかショッピング日和!とか彼女がいたらデート日和!みたいな日に家に籠って小説読んでるってすんげー陰気な感じがするけど違うんだよね(笑)そんな日和よりも小説日和なんですよ。毎日。読んでると楽しいんだ。で、それはもうジャンル関係ないのね。もういろんなの読んでるからね。SF・ミステリ・恋愛・ラノベ・官能・携帯小説・ファンタジー・転生もの・アニメ系・純文学・前衛文学・思弁小説・古典・・・まぁあれだな、読んでないのはガチで興味がない経済とか戦争とかが出てくるやつかな。

 

なんかね、才能無くても文学の神に愛されたいんですよ(笑)こんなに楽しいんだからなんとかしてこれでやってけねーかな?って食っていくってことじゃなくて読むのも楽しい書くのも楽しい!ってのを数年ぐらいで終わっちゃう楽しみじゃなくて、もっと長いタームでやれないかな?って思うんだよね。音楽なんてそういう意味で俺の中核だったからね。それこそ中二ぐらいからシンセでしょうもない曲を作り始めていたってころから音楽制作スタートだったらもう結構な年数ですよね。で、今はもうあんま音楽でやりたいことなくなったけど、俺のかつての音楽ぐらいの位置に文学がならないかなって思うのね。そうなると何十年ってスパンでもうそればっか!みたいな生活できるじゃん?

 

それで食っていくっていうよりも重要なのはそれがあるから生きていけるっていうことなんだよね。それはなんでもいいわけだ。釣りが死ぬほど好きで釣りのために生きていけるとか競馬とか競艇が大好きでそのために生きているようなものだとか、現世に自分を繋ぎとめる現世にしかない好きでしょうがないものと一緒に生きていくってことだよね。

 

なんかやっぱそういうのあると強いんだよね。鬱っぽくなったときとかもさ、まぁとりあえずダルいから何もしないで、んでまぁだんだんマシになってくると戻って来てやっぱまぁ文学やなってことになるしさ、それ以外というのを考えたときにマジで何にもねーなって思うけど文学があるからいいじゃん!っていう強みだよね。結構宗教っぽいかもね。神があるから生きていける的な。

 

もちろんそのうちさっきリストみたいに書いたジャンルを読みつくしちゃうみたいな時期はそりゃ来ますよね。でもその頃には経験値が溜まっててなんかまた別の角度からアプローチしたり読むのが変わったり読み方が変わってたりするわけでさ、まぁ俺で言うとあれか、哲学とかも割と息が長かったからな。アメリカ行ってからシリアスに読み始めて帰国ちょい前ぐらいに数学に鞍替えしたけど哲学って普通に読んじゃうからさ、まぁ今も結局、言語ってことになると言語学とかを文学っていう観点から考えるみたいなそういうアプローチでも読んでたりするわけで、んまぁでも哲学にしても15年ぐらいは熱中してたわけよね。まぁその時って全力で哲学読んでたからそれでも15年かかってんだよね。やっぱこの何十年単位でやれるやつって相当強いよね。

 

あとまぁ学問っつー観点から見ても色々やってきたけど文学も学問なわけで、完全にやってない分野を学問的にも研究してるから学問の延長上とも言えるわな。それと音楽でやってた大げさな言い方になるけど表現的なものも文学でできるからそこがクロスしてる感じね。やっぱり自分が文学を勉強するという以前に書き手であるから勉強するし読むっていうとやっぱ面白さが違うよね。

 

音楽の作り手が聞く音楽みたいなもんだわ。楽しいじゃん?「あ、ここサンプリングできそうだな」とか「このジャンル聞かないけどベースラインヤバいね」とかさ、作り手の聞き方ってそうだからね。まぁ俺は最初からそうだったわけなんだけど文学に関しても書くことが最初でそっから勉強し始めたから余計に円滑なんだと思うわ。文学勉強してなかったからやろうじゃなくて書くということが先行してるからね。

 

神学もそうだからね。偶然だけどキリストに帰依するきっかけがあってそっからの神学欲っつったらなかったわけで。ただ神学に関しては理屈じゃなくて精神的なものだというのが凄く分かったから学問的な興味は前ほどはないんだけどね。

 

まぁでも人生って分からないですよね。なんか一般的によく言われるのが20代とか30代で芽が出なかったら諦めて労働者になれみたいなイデオロギーがあるけど、きっかけなんて分からないわけですよ。50過ぎてから例えば子供が自立したりとかしてさ、すげー余裕ができてからなんか仕事終わっちゃったなっつって迷い始めてさ、んで「そういえば・・・」みたいな心当たりがあってそれやり始めたらそれがガッチリハマったとかね、60過ぎてからって人もいるからね。だから世間的な20代でダメだったら・・・とか30代でダメだったら・・・とかって本当に俗説もいいところなんだよな。

 

あとスピ系で言うとそういう能力を持ってるかもしれないけど40までは娑婆で普通に生きて経験積めっていうね、でもなんか若手のヒーラー!とか占い師!とかで活躍したいじゃん?若い時って金ないから。でも違うんだよね。別にやりたかったらやればいいんだけど目が出るのに娑婆での経験が必要だったりするものはあるし、開眼してないものって何かしらあるんだよね。娑婆で修行っつっても修行するわけじゃなくて普通に生きるってことなんだよね。そこで嫌なこともあれば楽しいなーとか思うこともあったりっつーそりゃ普通に生活してたら経験色々としますよね。そういうことの積み重ねなんだよね。

 

まぁ若手が開眼したい!ってのは分かるんだけどさ、お笑いで言うと錦鯉とかさ、俳優だって遅咲きの人いるでしょう?でも遅咲きってことじゃないんだよねあれって。咲く時期が人によって違うってことで、それはあくまで相対的に咲くということがなぜか10代とかさ、神童だっただの学生時代から才能を発揮して・・・みたいなのが基準になっちゃってるから50代ってのが遅く感じられるだけで咲くことに遅いも早いもないんだよね。急ぎすぎて早く開眼したはいいけどネタが尽きて後半なんか全然ダメになっちゃったとかさ、その辺は変な話、遅咲きのメリットってあるわけよね。豊富な人生経験とか色々とまぁやってきてるだろうからそういう経験に裏付けされていることとかね。

 

若さって過大評価され過ぎてるんだよね。なんかの作品で言えば音楽でも映画でも文学でもいいんだけどなんかすげー!ってのがあってさ、それがまぁ超気に入ってるトラックだったりそのアーティストは何百曲も出してるけどそのうちの一曲だったりとかさ、でもそれがそのアーティストがいつ作ったのか?とかって年齢とか関係ないじゃん?それが良いから気に入ったわけでさ、もちろんバイオグラフィー的なことでそのアーティストのマニアレベルになれば年表レベルで聞くみたいなことになるけどSpotifyとかで色々と流して聞いてて「いいなぁー」と思ったアーティストの曲チェックしたらその人は最初はヒップホップやっててそっからハウスやるようになって・・・とかってやっぱそのアーティストなりの歴史ってのがあるわけじゃん?で、初期やってたやつよりも聞いて気に入ったディープハウス路線のやつがいいなとかね、それってそれがその人が何歳の時に作ったものとかって意識しないもんね。

 

なんかそういう意味で諦めるのって勿体ないんだよね。作家にしても25までで売れなかったらやめる!とかさ、なんか逆にそんぐらいの動機づけなんですか?って話だもんね。書く人は会社勤めしながら書くわけだしさ、年齢で見切り着けるもんじゃないと思うんだよねっつってもスポーツ選手とかEスポーツ選手とかっていうフィジカルが圧倒的に若い時のものに依存するようなものは別なんだけどね。50過ぎてプロ野球選手目指しますってのは相当無理があるだろう。あとまぁ60過ぎて総合格闘家目指しますっつってシニア大会とかじゃなくて世界レベルのを目指しますっつってもそれはちょっと・・・ってなるけど、表現とか何かの能力を使ってやる仕事とかって年齢に左右されないもののほうが多いはずだよね。

 

だからなんか20とか30で開眼しなかったから諦めるとかって早すぎるだろってマジで思うんだよね。本当に悪いイデオロギーだわ。モノによっては40過ぎぐらいから始めるのが適性のものもあるわけだしさ、ただ歳取ってるだけの人間はともかく、なんらかの向上心を持って色々とやってきてる人って絶対年の功があるはずなんだよね。だからこそ開けるものがあるわけだ。文学にしてもおっさんの哀愁とかさ、熟年夫婦の絶妙なぎくしゃくした関係性とかってやっぱり年齢近い人のほうがリアルに感じられると思うんだよね。こんなのを16歳ぐらいで読んでも話は分かるけどコアの部分を掴めるだろうか?っていうと恐らく違うわけでさ、掴めないとはいわないけどね、ただ歳を取ったり経験を積まないと分からないものってあるよね。それはもう映画とか音楽とかなんでもそうでしょ。

 

哲学にしたって青年の哲学病の頃にハマる実存主義と中年クライシスでリアルに実存危機に瀕した人間が感じる実存のリアルさってやっぱ違うよね。もっと言っちゃえば階級とかによっても違うよね。プロレタリアの生活をしてないと絶対真髄は分からないってのもあればさ、逆にブルジョワじゃないと分からないってのもあるわけよね。恵まれすぎているから分からない苦悩とかもあるからね。別にまぁ苦労すればいいって話でもないんだけどさ(笑)

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。