文学の自由さ加減が半端ない話。

またアップしたんで。

 

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なんかさ、あんま興味ないんだけど、文学とは何か?的なことってあるじゃないですか?なんでこれって権威があるのかね?もう完全に書いてる人間になった自称作家の俺としては文芸も他の芸術と同じなわけでさ、まぁ絵画とか音楽とかと一緒でただ媒体が文字っていうだけなんだよね。

 

そこで表象の方法とかさ、語りえないものを語るとかさ、表現がナイーヴ過ぎるだのなんだのって細かい話が色々あるんだけど、はっきり言って文学ってのはその人間の文学観によって規定される超個人的なものなんであって議論するネタじゃないってことなんだよね。

 

例えばなんだろう、まぁ文学一年生だから多めに見て欲しいんだけど(笑)ベケットとかをなんじゃこれ?って思う人がいて当然だよね。文学とはストーリーがあって人を感動させたり驚かせるものだ!みたいなのも一つの文学観よね。で、これってまぁ大衆娯楽的な文学観なんだけど「そうじゃない!」なんて言える根拠はないんだよね。

 

耳障りの良いポピュラー音楽で良いものはいっぱいあるから、例えば音で何が表現可能なのか?とかっていう哲学的にまで音に肉薄してなんかをほじり出そうとしているような行為も音楽でさ、で、まぁ結果的に無音とかね(笑)たまに弦楽器が鳴るだけとかまぁ現代音楽とかでよくそういうのがあるけど、それも音楽よね。

 

でさ、なんか文学って視野が狭いっつーかさ、純粋芸術みたいに思ってる人間が結構いるけどっていうかそれも一つの形態でさ、そういう純粋芸術的な文学もそりゃ文学だしさ、映画化されたりドラマ化されるのだって文学でしょ。

 

まぁあれだわ、難解な現代音楽もポップスも音楽ってことと同じってことなんだけどね。音楽だとそれが分かりやすいのに文学になると「べき論」みたいなのが強烈にあるんだよね。んであいつのはリアリティに欠けているだのさ、あんなの誰でも書けるだとかなんだとか、それってあんたの超絶的な主観なんですけど!ってのに気づいてないんだよね。むしろまぁ文学なんてオワコンだろうって思ってるあんまり縁が無い人たちのほうがよっぽどリテラシーレベルが高くて、文学の内部にいるって自負してる人間ほど視野が狭い感じがあるよね。

 

これはやっぱなんか文学ってのが崇高なものっていう思い込みがあるからなのかな?いや、ぶっちゃけ例えば実験小説っつって膨大な便所の落書きをベースに小説に仕立てましたって面白かったらそれでオッケーよね。面白くなくても実験的でいいじゃんそういうのって。っつーか俺的に音楽とかよりも文学のほうがよっぽど自由だと思うんだよね。もうホント、何やってもいい。っていうかなんでもアリ的なぶっ飛んだことをしてきた人たちが新しい表現形態を開拓してきたっていう感じがあって、ただ日本ってなるとなんでこんなに視野が狭いのかな?って思うんだけど、多分、あれなんだよな、日本文学っていうところだけで文学を定義しようとしてるからなんじゃね?とか思ったのね。

 

正直、現代海外文学とかのほうが面白いから日本文学全集とか買った割に全然読んでないんだけど(笑)日本の古い文学観みたいなのがそのままデフォのスタンダードになってる気がするんだよね。あとまぁ前にぼろ糞書いたけど、美人作家が美人じゃなかったら書けないようなものを書いて評価されてるってのも言わば音楽で歌手が美人でさ、超絶不細工の豚みたいなやつが歌ってたら全く見向きもされないようなものが美人ってだけで評価されるってのは音楽じゃありふれた話で、それが文学であっても当たり前だろうなって思うんだよね。

 

そこをなんつーかさ、美人か不細工かイケメンがぶさめんかで小説を評価されたくないっつって顔を隠すとかあんまりメディアに出ないとかってのもその人の文学観だし、ガンガン出て売り出してむしろキャラ的なものを作って自分の作品をもっと売り出そうみたいなのも別にそれは一つのやり方だしさ、「こうじゃなきゃいけない」なんてのは主観的なもの以外ありえないんだよね。

 

だって実際さ、俺はここ数か月で何百冊本を読んでるか分からないってぐらい浴びるように読んでるけどホント、自由ですよ。話が急に終わってもいいし伏線が回収されてなくてもいいし文章の体をなしてなくてもいいどころか小説の体をなしてなくてもいいし新聞記事のコラージュとかでもいいし、佐藤友哉がどの小説だったか忘れたけど、まぁ本人の意見かどうかはともかく「書いてる人間が小説と言えば小説になる」っつーことを言っててさ、主人公がね、いや、そうなんだよね。

 

だから色々考えるわけよ。映像を解析してそれを文字起こしできるようになったら文学の表現の幅が広がるよなーとかさ、何も自分で書く必要ないんだよね。色んなアイデアがあってそれがAIだろうがテクノロジーだろうが最終的な表現形態がある程度成功してればそれでいいんだよね。

 

なんか思うに文学がオワコン化してるのって古い文学観を持ちすぎている人間が書き手になるから硬直化するんであってさ、あと前にも書いたかもしれんけど、こんだけマルチメディアなITなインターネッツな環境がある中でさ、なんで古臭い文学という形式を死守しようとするのか?っていうところだよね。

 

フィクションの世界にハマりだしてから戯曲とかも読むようになったんだけど、舞台の台本とかも小説ですよね。そんなの小説じゃないって誰かが言っても俺は小説だと思うからそれは小説なんだよね(笑)それこそICレコーダーを録音状態にして一日中外を歩き回ってランダムに録音された音声を文字起こしソフトで文字起こししただけでももう小説だよね。逆にそれはそのまんまのほうが面白いんだけど、その文字起こしをベースに古典的な小説の形式の小説を書いても別にいいわけで。

 

ガラパゴス化してる日本の文学がつまらないから海外のばっか読むようになったんだけど、海外ってまぁおおざっぱに海外って言うしかないんだけど(笑)海外だと文芸って俺がさっき書いたような芸術の1ジャンルっていう位置づけが明確な感じがするんだよね。だから「そんなのが小説になったのか!」みたいなのがあったりする。でも日本のガラパゴス化してるやつって日本の文壇とか出版社とかっつー本をリリースできそうな形式っつーところに目が行っててさ、だから結果的に似たようなのが量産されるんだよね。

 

で、何か知らんけどやたら日本の文学に価値を置いてるんだよね。だから形式が太宰とか芥川とかあんま知らんけど(笑)昔の日本文学のアプデバージョンっつーかさ、そういうのが多いのね。なんかむしろ若い人こそ円城塔みたいな実験的なものを書いたりするべきなのにすんげー保守的なんだよね。あとまぁ前にも円城塔を理解できない選考委員の困った先生方の古い文学観ってのを散々ディスったけど、はっきりいってさ、例えばなんつーのかな、自分が持ってる「これだ!」っていう文学観を絶対的なものにして他の物はそんなの文学じゃないとかくだらないとかっていうのってめっちゃ頭悪いからね(笑)

 

もはや古いけどさ、例えばさ、ラノベって形式があるのか!とかさ、携帯小説なんてものがあるのか!とかさ、民主化された小説ってのがネットにいっぱいあるのか!とかさ、それも表現じゃん?文学っつーわけのわからん看板を背負った気になってる先生方って自分が信じる文学が絶対で他絶対差別してんのよね。結果的に全く中身がアプデされないから円城塔みたいにっつっても円城塔もさ、好きでも嫌いでもないけど、こういうのがあって当たり前なのにすんげー少ないのにびっくりするんだよね。

 

海外なんて意味不明な売れないから翻訳されないわけ分からない小説いっぱいあるじゃん(笑)そういうのに比べたら円城塔って実験的ながらもあくまでエンタメ的だしさ、分かりやすいよね。でも頭が古い先生方にあんまり評価されないとかなんなのか分からんけど、基本的に文壇の老人を喜ばせるっていう一番気持ちの悪いベクトルで書かれた小説が多いんだよね。これが所謂、内向きになってるベクトルなんだよね。

 

いや、ヒップホップとかパンクで考えてみましょうよ。レコード会社に気に入られるためにやってるパンクバンドとかヒップホップクソでしょ(笑)もうAttitudeがアウトだよね。そういうのセルアウトとかっていうんだけど、基本表現って反体制なもんだと思うんだよね。あとは常にそういう性質を持っているからエスタブリッシュされたものと絶対ぶつかるはずなのに、ぶつかるとようは本が出せなかったりデビューできないから、結果的に体制側にすり寄ったクソみたいなものばっか書くんだよね。

 

日本の文学が保守的なのはそういうところなんだなーって思ったんだよね。みんなデビューしたいからなんだーって(笑)いやいや、クソダサいからそれ(笑)DIY精神でしょ。表現の基本な気がするんだよな。パンク的Attitudeってのは。だってさ、今の俺の乏しい文学の知識ですらもさ、古臭いオナニー的なポエムみたいなさ、なんたらの青空の中で僕らは何かを謳歌していて、その中にいた彼女は何かのようで儚くてどうのこうのっつーのがとにかく寒いわけでしょ。村上春樹はある意味では好きなんだけど当然あんなもん「こんなこと言わねーよ」みたいなさ、千鳥がネトフリでやってた即興のドラマの番組あったじゃん?ああいう臭さだよね。あれを村上春樹とかヘタするとそういうのを受けついだ若いやつがありえねーぐらい臭いセリフを小説の中でぶちまけまくってるんだよね。

 

そこまで臭くなくてもさ、なんかもういい加減森がどうのとか道路がどうのとかさ、部屋の描写とかで半ページとかダルいからやめましょうやってのがベケットとかなわけじゃん?すんげー安易な解釈だけどね(笑)ただまぁ保坂さんも似たようなことを言ってたんだよね。まぁようは我々はそういう既存の小説っていう形式に飽き切っているからそんなもん誰も読まないし、だからそういう既存の物ではないものを書く必要があるって当たり前のことを言ってるんだけどさ、だからまぁ保坂さんってカフカとかベケットとか小島信夫を崇拝してると思うんだけど、実際のこの三者って神がかってるぐらい面白いからね。小説は飽き飽きするようなくだらない描写が永遠に続く気持ち悪いポエムの集合体だって思ってたような俺からしたら「これだ!」って感があるわけですよ。

 

そうそう!ストーリーとか筋書きとかダサいよね!そうそうそれそれ!っていう。前に書いたけどドラマティックな曲の展開がある曲とかダンスミュージックとかダサいって思うっていう俺の好みもあるけどさ、だからミニマルテクノとかディープハウスでも基本音色が少なくて音色的にミニマリスティックに作られてるのが好きでさ、いや、小説だってそれでいいじゃん!って思うんだよね。まぁ実際、今そういうのばっか読んでるんだけどね。なんでラスト30ページのどんでん返しのためにつまらない300ページの前振り読まなきゃいけないんだっていうさ(笑)一回読んだら終わりみたいなのってつまんないよね。毎回変なところから読んでも面白いのがやっぱ面白いと思うんだよね。

 

まぁそれもさ、ようは俺の文学観なんだよね。好みよね。だから「文学とは・・・」なんて囲い込みなんて一番反抗しなきゃいけないものなわけ。それは俺が元々アナーキスト的な気質を持ってるってところもあるんだけど実際はさ、文学自体がアナーキズム的性質を持ってるんだよね。だから俺のアナーキーな感じとかを表現するのにあれほど適したもんはないっていうね、何やってもいいんだから(笑)

 

さっき言ったことと違うことを言っているとか、登場人物の口調が変わってるとかさ(笑)そういうものの整合性が保たれてるなんてつまんないじゃん?「あれ?これなんなの?あ、こうなっちゃったのね。今は」っていうなんか常にそこで物事が起こってるってのがフィクションだと思うんだよね。だからそれは俺らが生きてるこの虚構よりよっぽどリアルなんだよね。そこで起こってるからね。前に書いたけどそういう意味で俺が書いてるのってそこで起こってるドキュメントだからノンフィクションなんだよね。むしろ俺がフィクションなぐらいだわ。

 

まぁ別にプロットをがちがちに決めて書くっていうシナリオタイプの小説があってもいいしそういうのがダメ!ってわけじゃないんだけどさ、ただまぁ圧倒的にそういうのって書いててつまらないからね。頭で書いたり手癖で書くようなものほどつまらないものはないし読み返すと反吐が出るぐらいつまらないんだよね。だからもうガンガン消すわけよ。粛清対象ですよ。「うわーなんか起こってんな!これ」っていうところだけ残すわけ。だからそれってなんか俺が書いたっつーよりそこで起こったっつーことがそこにあるっていうだけっていう状態なんだよね。それを変にいじったりしないでRawなまま残しておくのが一番面白いんだよね。

 

なんつーのかな、同じ文字が存在する上になんかを張り付けたりなんかを起こしてみたりして化学反応を待つんだよね。そうすると上手く行く場合、テキストの上で勝手に物事が進むからそれを書くという補助をするだけでよくて書いてるのは俺じゃないんだよね。テキスト上のそれが勝手に進んだりしているっていうのをただ補助するだけなんだよね。まぁ俺のノイズ論とかとも似てるけどやっぱ自我が出てるのってすんげー寒いしつまんないわけよ。意味わかんないけど何か起こってるってやつが絶対的に面白い。

 

なんかね、もっとだから自由に書いていいんだよね。こういうウォール伝みたいなのを書くやつこそ小説を書くべきだと思うね。俺は昔の固定概念で小説なんていう構成がrigidなものなんて書けるわけない!って思ってたけど全然違うんだよね。あとまぁよくこれは色んな本にも書いてあることだけど現実に飽き飽きしてるってのも重要な条件だよね。つまんねーから面白いのを書くってことになるわけよ。もうそれに尽きるよね。作家になりたい!とか小説家になりたい!とかそんなんじゃなくてつまんない日常をどうにかしたい!っつーところから来るわけよね。本の名前忘れたけど退屈に関する本でさ、退屈ってのはそれを感じることである種、ヤバいって感じて何かをしなきゃいけなくなるから体の良い反応なんだみたいなことが書いてあったんだけどマジでそれだよね。

 

ゲームも楽しい日常生活も楽しい映画も楽しい買い物楽しいじゃわざわざフィクション書かないだろうってことになるよね。まぁそれでも書かずにはいられない人は書くんだろうけど俺の表現欲って圧倒的に人生に飽きてるってところから来てるんだよね。もうそれは音楽でもなんでもそう。日常ほどつまらないものはないでしょ。よく俺が言うこの日常って何なんだ?っていうWhat is itのitの部分だよね。何をもって生きているのか?itって何なの?っていうね(笑)

 

だからそこでフィクションに走る場合、itの問題が棚上げされるか解決されるというか、書くということでitが無くなるんだよね。itを感じてる暇があればなんか考えるとかネタになりそうなのをコピペはダメです!なんて先生に言われてもコピペしまくって色々やりまくればいいんだよね。結果面白ければいいわけだからね。

 

でもまぁ海外文学があまり読まれないってのもそもそも文芸関係の出版が売れないっつーのとさらに海外文学ってのが読まれないってのがあって値段が高くなるんだよね。古典とかベストセラーみたいなのしか文庫にならないから大体2000円アップになっちゃうから高く感じちゃうんだよね。そういう言語の問題は大きいよね。だからサイクルが最悪なんだよね。文壇ウケとかリリースできそうなものを書くようになるっつー最悪のサイクルが色んな要素で促されてるんだよね。

 

あと芥川賞だのなんだのってのがニュースでピックアップされたりドキュメントされたりすることで作家ってのはこういうものだ!っていう固定概念がイデオロギー的に植え付けられるんだよね。これが作家として成功するということなのか!ってインプットされちゃう。でもあれは数ある色んな表現形態の中での一つなんであってさ、それが全てではないし当然ゴールでもないからね。まぁ自己承認欲求で小説書いてるやつはそれはそれでいいと思うんだけど、書いてて思うのは書き続けることができるってことがいかに楽しいことか?っていうことなんだよね。で、最初の読者は俺じゃん?

 

あとよくさ、今は自己プロデュースの時代だとかいうけどさ、そこもパンク基準で考えると超尖ったパンクバンドがバリバリSNSやってたり凝ったオフィシャルサイト持ってたらなんか嫌じゃない?(笑)まぁ俺がロマン主義者ってのもあるんだけど、まぁ所説あるにしてもさ、なんか表現者ってピンチョンとかブランショみたいに人前に出ないとかね、ラリーズみたいにCD出さなくてたまにライブやるだけとかさ、ああいうのが理想なんだよね。あと阿部薫とかか。

 

ネット時代にそれは古いって言われてもなんか自分で宣伝するとかさ、結局、それってセールスポイントみたいな商業的なものを表現物に入れることになるわけじゃん?もうその時点で純粋じゃないよね。読者層がどうでこういう読者を想定してるとかさ、まぁエンタメでやっていくならそれはそれでいいんだけど、小説を書く=それ、になるとダメよね。いやいや、パンク以上にパンクなもんですから文学はって言いたいんだよね。ホント、気が狂ってるとしか思えないような表現やってる連中っているからね。

 

佐々木敦が円城塔を評価してる点として円城塔が作為的に前衛的なものを書いているというよりかは本人がそういう風に世界を見ているという本人の世界観が投影された結果、ああいう前衛的だったり実験的に見える作風になるっていう、やっぱそこが大事なんだよね。技巧とかそういうんじゃなくて「こう思うんです」とか「こう見えます」とか「こういうのを書きたかったんです」っていう凄くプリミティヴなものが表象されるってのがいいんだよね。

 

でも「デビューしたいです」が動機だとどういう作品が売れていてどういうところで人々がそれを面白いと思って買うのか?っていうただのマーケティングになるんだよね。それってもう表現じゃないんですよ。デビューするための方法論の模索なんであってそんな動機で書かれた小説なんて本当は誰も読みたくないはずだし、そういうのが多いから文学はオワコンになってるんじゃねーの?ってのはあるよね。

 

あとまぁベクトルが内向き過ぎるっていうところだと一部の文学愛好家に読まれればいいやっつー意識で書いてるのとかも「なんだかなぁー」って思うところがあって、前も書いたかもしれないけど可処分時間って限られてるじゃん?で、今ってなんでもあるからネットとかネトフリとかアマプラとかTVerだとかアメーバ的なネット番組とかゲーム配信とかコンテンツが腐るほどある中で自分が書いたやつが読まれないといけないわけでさ、そういう意味での面白さの追求ってマーケティングって意味ではなくて、単純に自分が読み手として考えたときに他の数あるエンタメを飛ばしてそれを読むか?ってことになるんだよね。まぁ結果的にそういうものが書けなくてもそういう意識が重要なんだよね。だからもう最悪なんだよね。デビューが目的になってるやつらが書いてるのがつまらないのってつまらない要件満たし過ぎなんだよね。ありとあらゆる方法を使ってつまらないものを書くように自分で仕向けてるんだよね。

 

だからって書くとあれだけど佐々木敦が筒井康隆を評価するのはすげー分かるんだよね。筒井先生も言ってるように自分のいくつかの実験的なやつは自分が無名だったら全く相手にされないような、自分のネームバリューがあるから出せたものがあるとかって言ってるけど、そこなんだよね。言い方悪いけど筒井先生ってお歳ですよ。

 

でも筒井先生の実験的だったり前衛的な作品ってのが今でも強烈な存在感を持っているってのはちょっとヤバいんじゃない?って思うんだよね。若い世代だったらもっと狂ったことができるだろうにっつーところでまぁ出版不況とか筒井先生のさっきの言葉じゃないけどネームバリューが無いと出せないようなぐらい実験的過ぎる作品を書いても誰にも読まれないから書いてもしょうがないって問題になっちゃうっつっちゃーなっちゃうんだけどね。

 

続きまた今度書くわ。最近すげー長いよね。タイピングが速くなってるからだな。多分。

 

んじゃまた。