行方不明の象を探して。その33。

食料品だっていつも成城石井オンリーというのも能がないってものだ。お魚はもちろん前にも書いたように築地。でもにおいや水が地下鉄の中で漏れないように大きな袋を持っていく。こういう色々なことのこだわりというよりもスノビズムによる時間の浪費というのは、オナニーよりもひどいものがある。

 

そもそも女性が生理の時にタンポンを詰めるのは、魚臭さが地下鉄の中で漏れないようにするわけではないからだ。アメリカ製のマヨネーズやアスパラガスの缶詰、フランス製のヌガーなんて、もういらない。

 

服を選ぶのにもお店の人とゆっくり相談しながら買う方がいい。ブラウスを入れてもらう袋にしても、そのブランド独自の紙袋のほうが気分よくなれる。反吐が出るけどね。デパートの袋に入れてもらうよりかは、サンローランの袋に入れてもらったほうが、いかにも買ってしまったいう気分になる。頭が悪い証拠である。

 

数日間、彼女は誰かに相談するべきだと思う。しかし、このようなことは、あなたが経験したことであり、それがあなたの懸念であることを人々に伝えると、誤解されるだろう。その体験よりも、あなたが狂っているんじゃないか?という心配をより深刻に受けてしまうだろう。

 

もし、それが単に事実であり、解釈されないとしたら、何を意味するのでしょう。あの人たちは車で出かけ、あの小さなキャップは脳をひっくり返し、彼らの想像力はかなり可能性のあることすらもうまくいかず、でも彼らは何かによって変わって帰ってくる。つい最近まで彼らの体験が僕たちにとって究極の権威で、彼らの体験の報告が僕たちのすべてだったのに、彼らを信じること、信じることをやめてしまったのである。

 

言い換えれば  自分の経験の権威を信じるという形で、最も助けを必要としている瞬間に、 その体験の程度、他の人と比べてどうなのかが力なのだ。その体験が、自分がしたかもしれないものなのか、それとも夢で見ただけのものなのか、そして本当に違う種類の健康が必要なのかを測る方法そのものなのです。

 

僕はほぼ肯定的です。でも、それなら何か変わるのでしょうか?それが誰であれ、同じことをしたけれど、何か?僕は彼が3歩先の兆候を知らないように見えたが、僕は認識の兆候を見たと言った。 認識じゃない、承認だ。

 

まあいいや、忘れてくれ。ようはね、彼女の人生においてこのようなことがたくさんあり、彼女の人生の変化が直感的でない限り、彼女は僕に許可していることにようやく気がついたのです。

 

この経験は、彼女にとってもっと重要で、この経験の前には気づかれることもなく放置され、探求されることもなかった他の種類の事柄に影を落とすことになる。彼女は、「今、あたしたちが何人いるのか、どんな質問があるのか」と、つまづくたびに自分に言い聞かせている。

 

千代紙を買うのだって千代田線に乗って千駄木の店まで行くというこの行動が大切な気がする。虚しさを虚しさで上塗りするほうが気分が紛れるからね。平八・ミッキー・マウスの絵葉書を買うなら週末しか開いていないという青山のカードショップで買うのもいい。でも江戸千代紙には文京区や台東区のイメージがついてくる。

 

渋谷でチリ紙を買っても多分買わないだろう。むしろ紙をもらうのは駅前で妙にエロい恰好をしたバイトの女の子が配っているティッシュを受け取って、そのティッシュをくれた女の子をオカズにしてフィニッシュ・ムーヴの後にそのティッシュで処理をするというのでは、チリ紙というより、ボール紙でも買ったという雰囲気しか出てこない気がする。

 

「僕にとって書くこと、書くと言う事実はある水準においてチャネリングと同義なのです。言い換えれば書くことと霊感の間には非常に緊密な連関があるということです。霊感は我々を取り巻く現実との不一致から生まれるものです。それは現実自体との現実の不一致であり、社会と社会自体との不一致だとも言えます」

 

せんずりを処理するティッシュをもらいに千駄木まで行くというその気力を大切したい。朝から瓦版を読む山田マンの心意気である。表面ではなく鼓膜に響くような生活をしたい。そのスノッバリーを大切にしたかった。ディスコ・イベントがある日には朝から瓦版を読んでしまう。

 

普段は朝といったらネットのエロサイトしか見ないものでも、パーティーにはグレースなアメイジングを遊びとして大切にしたかった。高輪へ行ったら東禅寺を訪れてみる。芝浦ゴールドに行くときには、そのディスコというよりかは屋根のついた長い橋のように見える建物も含んでいるようにする。ディスコに行くときはそのディスコの一部である。

 

ディスコから目が覚めると、ここはどこだ?と考える。考えるだけではなく実際に口に出して自分自身にそう問いかけたほうが脳にいいということで、必ず目覚めたときは、ここはどこだ?と言うようにしている。

 

それはディスコに限ったことではないが、芝浦ゴールドに行った後に目覚めた後は、特に大きな声で、ここはどこだ?と言うことにしている。問いかけるまでもなく、答えは始めからわかっている。ここは自身の人生なのだ。ほら。また「なのだ」を使うとバカボンっぽくなるって言ったでしょう?ファインマンさん?

 

なんかこういう語尾とか「であるが」「なのだが」「なのであるが」というようなものを変えたいと思うのに、その言葉は敵意を持った無関心さで襲ってくる。レイプと和姦の合間ぐらいの強さで。グリンチは現実存在の付属物である。グリコのおまけのようなものだ。

 

特に認めた覚えもないのにいつの間に属性として存在するようになったいくつかの事柄・事物・状況。隣に例の象さんが寝ていることもある。でもこの象さん、起こっても「グララアガァ」という変な擬音は立てないし、象さん的にも「グララアガァ」ってなんやねんって言ってたし、でもキリンさんとはやっぱりまだ一触即発の状態らしい。

 

いつも書くけど雨が降っているときはベッドから出ないことが多い。というかほとんど出ないので、雨が続いた時は餓死寸前までいったことがある。グラスにウィスキーが残っていればそれを飲む。そして屋根から落ちる雨垂れを眺めながら、芝浦ゴールドの長い橋のような姿を考える。手足をゆっくりと伸ばしてみる。そして自分がただの自分であり、どこにも含まれていないことを確かめる。

 

でもどうやって?英語で言うとBut how?使われ過ぎていて手垢がついたどころの話ではない言語的な表現である。象さんと一緒に寝たときの感触をまだ覚えている。そこでは手を伸ばそうとすれば、それに呼応して口に含んだ全体像が動く。キリンさんのささやかな善意を利用した細かい仕掛けのからくりのように、ひとつひとつゆっくりと注意深く、段落ごとにほんの密かな文字を書きながら、それは順番に対応するので少々お待ちくださいと言っている。そこには何か大きな理由があったはずだ。

 

こんなことを言うと、諸君、何か諸君に向かって悔悟している、いや、ビールでも買うているように思われるかもしれない、いや、きっと、そう取られているだろう。もっとも、はっきり断言しておくが、たとえそう取られたにしても、どうでもいいことなのだから。