行方不明の象を探して。その87。

シューゲイザーディスクガイドどっかにやっちゃったから買いなおすか。え?新エディション出てるって?でもあれだな、シューゲは結局、メジャーなポップスみたいなロックが多くて残念率が相当高いんだよな。ディスク時代じゃなくて本当に良かったよ。ストリーミングだったらへっちゃらさ。

 

そういやアメリカにいたときにKTLのCD買ってDoom Metalってのを知ってから一時期ハマってたよな。完全に聞き方が音響だったけどね。BorisとSunnのAlterのTシャツを着ていたな。ハマるとそれを生活のテーマにするからな。俺。

 

今年はマジでやることないし早速、親父との墓参りのブッキングが決まったから今年も多分、また何も起こらないまま終わりそうだからギターやりまくって何か起こるようにしよう。自分の中でロックンロール・ムーヴメントを起こそう。

 

5年前と違ってやりたいことがないから基礎練習を永遠とやっていられるなって前にも書いたっけ?これやってれば退屈から逃げられるしロック弾けるようになったらもっと楽しくなる!って思うと続けられるな。でも多分、俺みたいなやつ多いんじゃないかな。多くはないか。意外といそうだなって思うのがあれだ、ロックを聴く分には全く反応しないけど弾いてみたらギター好きになって結果的にロック好きになったみたいなパターンはあるんじゃねーかって思う。

 

シンセとかDAWと違って弾いてる感が凄いからな。ギターって。あと精神の叫びみたいなのを叫ばなくてもギターに込めることができるような気がする。武士道で言うところの日本刀だな。霊器としてのギター。武士における刀がギター。ギターやり直し始めてから一気に武術の練習しなくなったな。他がどうでも良くなっちゃうんだよな、というか過集中か。フォーカスし過ぎるんだよな。

 

でも武術は使う場所がないし使い場所がない時代に生まれたことに感謝しなきゃいけないんだけどギターは生活に根差すことができるし人前で演奏することもできるからな。いやー懐かしいな。ライブハウス。狂ったノイズバンドのサポートで何回か出てたんだよな。俺。ラップトップでノイズを出しながら暴れるというのをやってたけどあの頃にギターに目覚めてたら間違いなくバンドやってただろうな。

 

でもあの頃もこの頃も関係ないんだよな。人はよく「あの頃に戻れたら・・・」というけどあの頃じゃなきゃやれなかったことなんて実際は相当少ないはずだ。バンドはともかくギターなんて爺さんになってから始めてもいいわけだし美容に気を使ってればいつでも人前に出れるだろう。目指せ二代目ラリーズだ。でもまぁあれだ、落語と一緒だ。二代目ラリーズっつっても自称じゃダメだ。ラリーズフリークから「あいつは二代目ラリーズだ」って言われなければ。

 

でもあれだな、ノイズってハードコアと近いからノイズっつーカテゴリでグラインドコアとかデスメタル聞いてた時期あったからロックとは無縁じゃないんだよな。ギターウルフなんかもグラインドコアみたいなもんじゃんか。一曲2分ぐらいでノイジーというね。でもノイジーなんじゃないんだよな。本来のロックがこれで一般に流通しているロックが商業化されたロックだから本当に逆なんだよな。

 

リビングで流していられる音楽なんてロックじゃないだろ。ママが

 

「おーまいが!なんていう音楽を聴いてるの!すぐ止めなさい!」

 

とかって言われないとロックじゃないだろう。ママがロック好きだったら?商業ロック好きのママだったらギターウルフは相当うるさく聞こえるに違いない。ワオーン!とか言ってるし。口内炎が痛むな。それにしても。何かにハマると飲み食いしなくなるから栄養がダメになるんだろうな。でもハマってるときが一番楽しいというか時間があっという間に過ぎていくから退屈とか実存とかを考えなくて済むからいいんだよな。

 

生涯このぐらいのスピード感で駆け抜けたいもんだ。常に何かにハマっている。それが最高だ。それにしてもギターってのは物凄い発明だよな。アコースティックな時は大したことないものだったのにアンプに繋いだことで化けたわけだ。しかも爆音にするとギターにしか出せないギャーン!っていう歪が出る。ギターがギャーン!って鳴った時点でもうロックンロールだ。だからギターは歪んでいなきゃいけないしハウリングを起こしてないといけない。

 

商業ロックなんてクソ食らえさ。ただですらロックなんて既存の音楽をなぞるだけのものなのにロックの魂である爆音や歪を捨てたらもうそんなもの存在価値がないだろう。そうか、そういうのがポップスっていうんだよな。借り物のロック形態のポップスね。元はロックだったバンドもメジャーデビューってことになるとギャンギャンしてるとCMで流せなかったり何より売れなかったりするからポップ化させるしかない。それで出来上がるのが凡庸なロック形態のポップスだ。

 

ゴミみたいなエンジニアがポップス然としたマスタリングにしてカート・コバーンのような魂を持ったロッケンローラーは自分の音がレイプされたように感じられて自殺する。文学とロックは驚くほど似ている。マジであればあるほど商業との相性が悪くなる。そもそも文学は大衆のものではない。文学を大衆向けにしたのが大衆文学だ。それはもう何百年前からそうだ。で、ロックも同じになったってことなだけだ。何も変わっちゃいないさ。

 

そう、文学がロックなんだ。ロックは文学の後にできたものだからロックのルーツは文学だ。若々しいビート文学なんてまさにロックな感じだろう?前衛的でもカフカとかベケットはロックだろう。決して大衆向けではないが知名度によって一応メジャーなものとされているけどドゥルーズはマイナー文学って言ってたな。いや、マイナー文学じゃないんだよな。文学がそもそもそういうもんなんだ。大衆文学が多すぎるからカフカやベケットがマイナー文学になってしまう。

 

カフカやベケットは大衆文学から見ればノイズみたいなもんだろう。でもマジなもんは大体ノイズだ。それに没入すると爆音が故に全ての音をかき消してしまう。ながら読みは絶対できない。速読は絶対できない。

 

そんなわけでそれは野原の松の林の影の小さな萱葺きの小屋に似たもので、東に録音したい音があれば、行って録音をして、西に疲れた人がいたら、行って陽気な音で人を励まして、南に死にそうな人あれば、「モンハンの狩猟笛を思い出しなさい」と言って怖がらなくても良いと示唆し、北に喧嘩や訴訟があれば、スーパー・エレファント・バイオ・フィードバックで吹き飛ばし、日照りのときは外出せずに、寒さの夏はバイトを休みがちになり、皆に録音と再生ができるだけのカセットレコーダーのような象と呼ばれ、誉められもせず苦にもされず、そういう象に僕はなりたいと思っていた。

 

それは象の存在における一種の理想像の究極の形であり、それが可能になったら、涅槃の境地に至れると象は確信していた。ガネーシャ先輩もそういう風なプロセスを経て神様になったのだと象は思っていた。