行方不明の象を探して。その106。

ノイズを出したかったのにノイズを出せない状況になってしまったなんてノイズ好きにとっては拷問以上のものだろう。俺はカートコバーンのその無念を晴らさなければいけない。ロッカーの使命の一つはそうやって失意の中で死んでいったリアルロッカー達の精神性を継承してノイズを出しまくって魂を供養することだ。それは祈りに近いものだ。自己陶酔ではないノイズに全てを捧げるという気持ちでギターを弾くこと。それは神楽のようなものだ。失意の中で死んでいったロッカー達の鎮魂をするということ。

 

そして増幅されきった爆音で穢れを浄化すること。そして最終的には神懸かり状態になって永遠とインプロヴィゼーションを奏でつづけること。つまりはロックとは宗教的行為そのものなのだ。音楽で浄化というとYoutubeとかに大量にあるニューエイジ系のリラクゼーションミュージックのようなものを想像してしまうかもしれないが、本当に浄化ができるものがあんなヘナヘナのシンセサイザーミュージックなわけがない。穢れや悪霊を全て払ってしまうような圧倒的な音の振動が空間を浄化させるのだ。

 

後期コルトレーンやアイラーや阿部薫のようなミュージシャンが神がかっていたのは実際に神が降りてきていたからなんだろう。でも神に近すぎる人間は早死にする傾向にある。コルトレーンは文字通り魂ごとアセンションしてしまった。

 

どうせだったらアイラーとかをヴァイノーで聴きたい。ジャズは大量に持っていたけど一気に興味を失った時に売ってしまった。でもフリージャズをヴァイノーで買うということはなかったな。何よりあれだ、ヴァイノーの良さはだな、チリノイズが酷い盤をナガオカのクリーナーで徹底的に綺麗にしてチリノイズを極限まで無くしたりすることってのがあるよね。

 

ヴァイノーが高騰しているって書いたっけ?だから俺は雑に保管されていたコレクションのまともな盤を引っ張り出してきて全部クリーニングした。クリーニングした後に聞いていたから膨大な時間ヴァイノーを聞いていたことになる。それに新しく買ってきた盤もある。長く再生されていない盤はクリーナーでクリーニングしても針に俺が恥垢と呼んでいる再生すると溝の埃が針に溜まってきてだんだん音がディストーションをかけたようになったあとに死にかけのテープのような音がした後に「ブルルブヨーン」とか言って針が内側にワープする現象。が、起こる。

 

再生することも掃除みたいなもんだ。一時期よりかは持っていないとは言えこれだけのヴァイノーがあると例えば「こんなのも持ってたな」と思って聞いても全く記憶にないのが8割ぐらいある。残りの2割は10代の頃に頑張ってバイトした金で大切に聞いていたレコードで当時高円寺にあったマニュエラで買ったモンドだとか、他に何があったっけ?もっと少ないかも。とりあえずエキゾ系とかモンド系は何回も聴いていたから今聞いても「懐かしいなー」という感じすらしない。そのぐらい何回も聴いていたからね。

 

レコードコレクターの話によるとレコードの内容を大体理解できる限界が2000枚ぐらいでそれ以上になるとわけがわからなくなるんだという。そりゃそうだろと思うね。何しろヴァイノーはなぜかマスターテープを入手したような、音のソースを所有したような所有欲が満たせるから必要以上に買ってしまう。でも数回ぐらいしか聞かないのが大半だ。といっても内容が悪いからではない。

 

例えばファンクとかソウルのコンピ。90年代にDJ用に作られたレアグルーヴ系のコンピなんかも大量に持っているとそもそもソウルとかファンクとかって音楽の形態がシンプルだからどれもこれも同じに聞こえてくる。いや、ファンクとかソウルは好きだからそんな言い方はしたくないな。ただエキゾを聞いた後にイタリアのライブラリー音楽を聴くぐらいの差は感じない。

 

ディスコブギーみたいなのも手を出し始めるとキリがない。サルソウルとかね。だから名曲揃いのコンピが一番いい。オリジナル盤を集めてたんじゃ金も場所も足りなさすぎる。そうそう!ヴァイノーは場所を取る。いや、モノってのはそんなもんだ。でもストリーミングで音楽を聴けるようになってから音楽そのものが物理的なスペースを占拠するなんてことはなくなっただろ。何にもない部屋でもストリーミングで何万曲の音楽が聴けるんだから。でも何万枚のヴァイノーを持っていたら部屋が何個あっても足りない。

 

ヴァイノーをまた買い始めても前みたいに月100枚買うとかっていう無茶なことはしていない。大半が聞かなくなるものだと分かっているからすさまじく厳選して買っている。それでもまぁ溜まるよね。でもたまに全く期待していなかったものが大正解だった時が今でもあったりして、ああいう時の感動がたまらないからヴァイノーを買い続けてしまうのだろう。

 

嫌なことがあるとすさまじいストレスになるだろう?それだけで鬱になったりだとか。感受性が強すぎる人間は大体そんなもんだ。俺なんか社会でやっていけるわけないしやっていこうとも思わない。何回もぶっ壊れたからね。でもそんな研ぎ澄まされた感受性があるからヴァイノーの特に盤が良かったりマスタリングが良かったりするものに人一倍の感動を覚えるんだと思う。

 

豆腐メンタルの代償に音楽だとか芸術だとかデザインだとかそういうものに人一倍感動する感受性を持っていると思えばね、豆腐メンタルも悪くないんだよ。代償だと思えばね。じゃあすげー鈍感なメンタルの持ち主で全くほとんど傷つかないっていってもヴァイノーに対して感動もしないんだったらそのメンタルは俺には必要ないな。

 

ある人からこんなことを言われたね。強くなる必要はないんだと。それは持って生まれた特性だし、そういうメンタルだからこそ良いこともいっぱいあるってまさにそれだよな。大して弾けないギターにしても音色に異様なこだわりを持てるのは病的でもあるし楽しくもあるよね。こないだは中古で買ったアンプが焦げ臭くなって音が出なくなったりお気に入りの買ったばっかのギターのシールドジャックがグラグラになってノイズしか出なくなったり、なんなんだろうな。

 

武器の練習をしているときもそうだったじゃないか。凄くね、「やろう!」と思って調子が良い時に凄く邪魔が入る。それが数回だったらまだしもオカルト的に誰かが止めているのでは?というぐらい邪魔が入るとなんだか妙な胸騒ぎを覚えるのだよね。ギター然り。すげーノリに乗っているときに機材がぶっ壊れたり音が出なくなったりすると「また邪魔が入った・・・」とかってなって豆腐メンタルがぐちゃぐちゃになる。

 

それでスピリチュアル的な解釈をしようと思ってGoogleで調べると邪魔が入るというのは良い前触れだとか電化製品が壊れるのは波動が高まっているサインだとかって出てくるんだけど、こういうときにスピリチュアルは凄く役に立つ。「そうなんだ」って思えばそうなるからね。何も科学的見地というディーセントな立場一本を貫く必要は無くて都合の良いときに都合の良い解釈をして・・・ってやってかないとメンタル持たないだろう。

 

あとは試されているとかね。「めっちゃ邪魔が入っておるだろう?それでも君は続けられるのかね?」とかね、「いや、続けるさ!」って続けたもん勝ち。というより物事は続けたもん勝ちなんだよね。当たり前だ。才能云々以前に人がある程度努力しなければいけないことを遊びのように続けられる人間が有利に決まってる。全然エネルギー使わないからな。ようは疲れる類のエネルギーを使わんだろう。まぁ使っていても楽しい使い方だから嫌な疲れ方はしないだろう。

 

だからアンプは新品の値段が二倍ぐらいするやつを買ってやった。ざまーみやがれ。邪魔しているやつ。ギターもどれだけ邪魔が入ろうが続けてやる。それにしても全然上手くなっていないのに弾いてはいるから左手首が腱鞘炎なりかけみたいになっている。フォームが悪いんだろう。やっぱ最初はスクールとかに行った方がいいんだろうか?でも痛みにはハンマーの練習で慣れてしまっている。ハンマーが弁慶に当たった時の痛みに比べたら他の物なんてかすり傷程度にしか思えない。でも筋が炎症を起こしている系ってまた違う痛みで嫌だよね。