行方不明の象を探して。その142。

彼らのアパートが片付いていることはまずないが、その片付かなさが最大の魅力である。乱雑さこそが最大の魅力である。しかし彼らの関心は別のところにある。開く本、下書きする文章、聴く音楽、毎日新たに取り組む対話など。彼らは仕事をしてばかりいる。そして、食事をしたり、外食したり、旧友に会ったり、一緒に散歩をしたりする。

 

「えっへっへっ……先生」

 

文学青年の顔からしたたかな編集者の顔へ戻っている。それは感覚を欠いた大海原を渡れずに、深淵の底から木原に語りかけるよりも困難なことであった。ましてや、この編集者が存在するという考えも、少なからず悩みの種であった。しかも、自分の心が存在しないという考えも、全くなかった。存在の不在、つまり「世界中」の不在があるだけであった。

 

まるで心が鋭い感覚を取り戻したかのように、その感覚は喫茶店の中の香りに気を取られ、その空間を占領されるほどであった。道は高い壁となり、縮んでいき、ようやく光が見える場所となる。動き続ける心臓は、存在に同意する心臓である。

 

「こちらはそんなに急ぎませんよ。良いものだけを書いてください」

 

来るんではなかったと思った。同時にきっとそういうことだろうとも思った。所詮、創作とは象との関係性なのだ。

 

仕事部屋に戻った。冷蔵庫を開けた。冷えた缶ビールがあった。それをグラスに注いだ。すべからくビールはグラスで飲んでこそのビールだ。缶ビールだからといって缶ごと飲むやり方は神経をよほど鈍化させていてもできない芸当だ。ソファーに寝転び空になったグラスを弄ぶ。そしてVRでヴァーチャルセックスを堪能した後、VRプラネタリウムで賢者タイムを過ごした後に極限までグラフィックを強化したMODを入れたスカイリムVRをやる。

 

霊的ワークはどうなったんだ?でもあれはやり過ぎるとよくない。あちら側のものを召喚するなんてのはタブーだ。あちらはあちら、こちらはこちら。ただ己があっちに行き来できればいいだけのことなのだ。霊的ワークの秘教には実益に繋がる高額セミナーでボロ儲けできそうなテクニックがいっぱいある。でもそこまでの秘教を知っているものはセミナーで儲けるなんてことはしない。そもそもそんなものに興味がないし、自分の霊的成長とあちらとの世界のコネクションにしか興味がないのだ。

 

それなら、あなたの言うことはすべて嘘です。でも、事実を見ると、ほとんどデタラメとしか思えない発言ばかりだ。そうなんですか?不思議ですね。どうしてそんなことが可能なんですか?えーと、実はその点については僕もよくわからないのですが、読んでいただければわかると思います。いや、読まなくてもいいけど、内容はおもしろいよ。

 

僕はこんなことを書いた、しかし、僕の芸術とはいったい何なのだろう。それを実践することによって、僕は何を達成したいのだろう。書くこと、そして他人が読んでくれていることを知ることだろうか? 本もなく、仕事もない作家であっても、芸術の世界に身を置いているのだ。僕はここにいる、凡庸なものから切り離された芸術の純粋な空間にいる。作品に似ることなく、芸術に似なければならない。

 

また来た。粘着性の毒糸を吐き身体よりも精神をがんじがらめにして深い意識の底へ引きずり込んでいく。闇ではなく今度はゆらめく深い光の世界だった。あのクスクス笑いは何だ。あのカサカサという紙の音は何だ。

 

イメージの終焉。誰かがパソコンを使い始めた。誰だ。この誰もいないはずの部屋ですべての内側から鍵をかけたはずの部屋で。象か。だったらいい。象じゃなかった場合が問題だ。そして深い眠りに落ちた。

 

雨の音がする。すべてを洗い流すような気持ちいほどの集中豪雨だ。それぞれが勝手に思うままの音を鳴らしている。そんなことはもうどうでもいいと思えた。我々は忘れた。ただそれだけだ。それで問題はなかった。そんなわけで我々はしきりに忘れるという言葉を使った。また風が吹いた。風はそもそも自分がどこからきたのかすっかり忘れていた。目を覚ましたようだった。そっと机の上を見た。やはり誰かの原稿が乗っている。その真新しい原稿の束を手に取ってみた。

 

それを引き裂いて捨てた。そしてシャワーを浴びた。中和状態。彼は預言を唱え仕草をする。無頓着。階段でひゅーっと口笛の音。至極無感動。これがいつまで続くのか。象に近づいているようで近づいていないかと思えば気絶したように深い眠りに落ちて原稿が机の上にあるというパターン。

 

無限はあなたがたが否定した偶然から生ずる。言葉のありがたさに安堵する。眠ったかは定かではないが、原稿によく分からない話が書いてあるパターン。書いた覚えがないダイアログのようなものが書いてあるパターン。数学者たるあなたがたはこと切れた。我は絶対を投影されて。色んなパターンがあってキリがないのだが、思考迷路のようなものだろう。

 

全てを洗い流すように水を浴びたがどうしてもある観念が頭を去らない。ついで不死を否定する絶対にもとづいて彼が語るとき、絶対は外部に、宇宙に存在するであろう、時間の彼方に。宇宙だと遠すぎると言われた。宇宙へ広げながら目の前にも収束するようなダイナミズムが必要だ。いや、今ではもうそれは観念ではない。それは人格だ。非人称的人格。矛盾しているがそういう存在だ。

 

今、この身体には二つの人格がある。深夜を告げる時計の音。彼は階段を降り人間精神から事物への深淵へとすなわち彼がまさにかくある絶対へと赴く。二重人格の話。そうだとは思わないし、象が乗り移るようなことはありえないし、しかし象には物理性が無いということははっきりしているので、やはり非人称的人格があるとしか思えない。

 

そのことに気づき始めている。ついには彼自身、物音が消え去るとき、炎に息を吹きかけることによって光を現出させ得るという単純な事実から、何もかもの偉大なものの表現を生み出すであろう。それは最初から気づいていたような気がする。なんとなく。でもいつから気づいていたかどうかなんてどうでもいいことだ。その中にいるということ。象と無関係に書くのではなく書くということを前提とすること。

 

シャワーの水量を最大にして身体中を洗い流す。身体の中に何かがいる気がするのは勘違いだ。非人称的なのだからそれは存在であって存在ではない。また勝手に出来上がる原稿の中で明らかになっていくことなのだろう。文字達の息が蝋燭を吹き消すことを望む時、彼は書こうとする。でも書かなければいけない。誰が書いているのか分からない。もう考えるのをやめよう。

 

鏡の中にひきつった顔があった。誰だ。長い時間が過ぎた気がする。鏡の中の男は動かずにいる。これがお前か。象なのか。いや、こういう物理性はないはずだ。気がつくとまたアードベックを飲んでいる。一言も発しない風はただ吹くだけだった。阿部薫のサックスが聞こえた。

 

アルコールで酩酊しても何も気持ち良くない。何もない。それが砂漠だ。次の日にこの世の終わりのような気分で起き上がって、また原稿を書き始める。何も食べていないので不思議に思っていたのだが、どうやら最近では空気を食べるともっぱらの評判になっている。だったら食う心配をしなくていい。書くことの心配もしなくていい。いや、そういうことではないだろう。そもそも寝ていようがいまいが関係ない。睡眠が一区切りのような気がするのは気のせいだろう。

 

寝て消滅したらまた書けばいいんだ。で、ご神託受け取ってそれを参考にしてまた書けばいいだろう。全く問題ない。アードベッグ-10年。大好きなウィスキー。淡いゴールド色。爽やかで海を思わせるヨード香、燻製魚、炭焼コーヒーの香りに、柑橘系の果実の香り。チョコレートとタフィーの甘さ、シナモンスパイス、薬品のようなフェノールの香りが魅力的に入り混じっている。口当たりは、最初少しぴりっとした刺激があり、その後重厚感が現れ甘美な味わい。フィニッシュはドライ。タバコの煙とエスプレッソコーヒーのフレーバーとともに、深みのあるピート香が口一杯に広がる。余韻は長く豊かでスモーキー。砕いたピートや麦芽の甘みが残る。