行方不明の象を探して。その141。

僕の人生には、これまで3つのことだけがあった。書くことの不可能性、書くことの可能性、そして肉体的な孤独の三つだ。収録から帰ってきた僕は原稿を拾い上げて見る。それは原稿ではなかった。どれもこれも白紙だった。誰かが渇いた声で笑った。なぜ気づかなかったのだろう。傑作をプリントアウトしていたと思っていたのに、プリントアウトしていなかった。傑作など存在しなかった。苦笑しながらスリープ状態にあったパソコンの電源をONにしシステムを立ち上げた。Pinを入れてロックを解除する。

 

本が書けなくなるようなものを発見してしまった。これは僕が探し求めていたもの、つまりすべての書くことの源は、書くことのできる空間であり、その光である。書くことのできる空間、空間に包含されるべき光が、僕が探していたもの、すべての書くことの源である。一旦その境地に達すれば、書物を書くことから解放されるのである。

 

とにかく書き上げたばかりの原稿は消滅した。書いていたのか書いていなかったのか定かではない。いつものことだと言い聞かせてもやはり嫌な思いが無いわけではない。愕然と立ち尽くした。誰かが原稿を消した。象か。いや、書いたかどうかが定かではない。

 

サイコパスは論理的な文章を書く傾向があると聞いたことがあるが、この作品はちょっと特殊なようだ。なんて言ったらいいのかわからないけど、まるでまとまった学術論文のようであり、同時に今までにない形式と内容の怪奇小説のような読後感がある。実に奇妙な文章でありながら、事実の内容も、科学趣味、奇想趣味、エロ趣味、怪奇趣味、ナンセンス趣味、ミステリー趣味と、非常に珍しいものである。よく読むと、狂気の人にしか書けない怪しげな雰囲気が本全体に充満していることが分かる。

 

レストランはだいぶ混みあってきた。人のざわめきに、互いの声が聞きづらくなる。象はいつものように、僕が食事をする様子をじっとみつめていた。残さず食べているか。量が足りているか。食べ物を咀嚼する僕の口元を、黙って、粘っこい視線で舐なめまわしていた。となりのテーブルから、どっと笑い声が上がった。

 

彼らは驚きはしない。それらは僕が手に入れた証拠であり、そこにはその痕跡が並んでいるのだ。巨大な象の字が最初は粋な柔らかさで、何かしら曲がった、わざといやしげで不貞腐れた様子で書き始められ、次に硬くて真っすぐで大きな縦の棒がもの凄く挑戦的な恰好で下に下ろされ、宛名を切り、まるで耐えがたい挑戦のようにほぼ原稿全体を横切り、僕に攻撃を仕掛け、僕の気分を悪くさせる。

 

夢のことを思い出した。夢だったかも定かではないが、机に突っ伏して眠っている間、周りで動き回っていた何か。マンハッタンの夢で動き回っていた何かと気配が凄く似ている。しかしアメリカにいたころはまだ何かを書こうとはしていなかった。徴候とでも言うのだろうか。あれがもし夢でなかったとしたら。そしてやっと思い出した。

 

そういえば最近、VRを買ったのだった。VRを使い出したら最後、この世に戻って来れなくなると思っていて解禁をしていなかったのだが、最近は瞑想やら霊的ワークやらをやっているから瞑想用のソフトなんかを使って家でぶっ飛べればいいかな、なんて思っていたのだった。

 

VR元年が2016年だからもう七年ぐらい経つのか。それにしても予想以上にソフトが貧弱だ。ゴーグル単体のソフトのグラフィックはPS2並だ。ディズニーランドのキャプテンEOとか小学校の修学旅行で行ったプラネタリウムを思い出す。最初はPS2並のグラフィックでもなかなか興奮したものだった。でも慣れるとどうってことない、というより瞑想が上手く行っている時とか相当ぶっ飛んだ明晰夢を見ているときのほうが気持ちいいし感覚もぶっ飛んだ感じがある。

 

PCに繋ぐとPCのグラフィックでゲームがやれるのでいいだろう、と思っていたのだが、iLinkだかが不安定で強制終了したり画面がグニャグニャになったりして、テスト機を試しているような気分になる。Half-Lifeぐらいのものを期待していたのにもうHalf-Lifeから3年も経っているのにあれほどのソフトは出ていない。Skyrim VRには驚いた。Oblivion並のグラフィックだ。

 

お決まりのジェットコースターやらバイオハザードやらもやってみたもののあまり感動はない。というよりバイオハザードとかヒットマンとかはやり過ぎているのでVR感覚に慣れてしまうとすでにやり尽くしたゲームをまたやっている感じがして、暗殺も攻略もただの作業になってしまう。

 

PS5のVRがあるんだっけ?そう思って調べたらやはりソフトが圧倒的に少なくてグランツーリスモとかバイオをやるためだけに買うようなもんになってしまうらしい。ただ救いなのは自分で精神世界を追求している時とか変性意識になったときのほうがどんなVR体験よりもヤバいということだ。ということは俺の瞑想とか変性意識は相当いいレベルなんだろう。

 

結局、最終的に霊性が下がりそうなVRのAVをやってみた。結局、これが一番だった。原理は簡単だ。ウィザードリーとか初期のドラクエみたいに

 

「もよもとはメラを唱えた!」

 

という文字からイメージを連想して楽しむように、AVはイメージ力が無くても人間の本能で勝手に体がヴァーチャルセックスモードになる。

 

「俺は目の前の女の子とキスした!」

 

というものの臨場感を上げているのは種の保存という本能だ。普通のゲームにそれは働かないので飽きるとすぐに飽きる。まさかVRを三日ぐらいで飽きるとは思わなかった。あと基本的にパズルを解くことに興味が無いしゾンビを撃つのにも飽きているから同じようなゲームばかりで全くやろうと思うゲームが無い。あとは動画だろうか。

 

TrippというモロにスピリチュアルでLSDな瞑想ソフトが良い感じだが、あれは葉っぱとかLSDをキメてやらなくてはあまり意味が無いような気がする。それに比べてAVは何もキメなくてもキメてTrippをやったぐらいの感じに臨場感が移行するから物凄い。

 

VRの最強コンテンツがAVだなんてさすが変態大国日本だ。オナニーが捗るしPCに繋がなくてもいいから数万のオナニー機を買うと思えば相当安い買い物だろう。あとはやはりバッテリーの持ちの悪さだろう。一時間ぐらいでバッテリーが切れるんじゃ没入も糞もないだろう。

 

俺の環境が悪いんだろうがwi-fi経由の接続はグリッチ天国になるのでどうしようもない。直で繋いでも安定しないんだから驚きだ。一応、Linkケーブルで繋ぎながら充電できるものを買ったのだが、だからといって別にやりたいゲームがそんなにあるわけでもないし、せいぜいHalf-Lifeぐらいだが、あれもしょっちゅう落ちるのでやる気がなくなる。

 

ただHalf-Lifeぐらいがグラフィックのスタンダードだろう。でもあのレベルのものを作るのは製作費がとんでもない額になるんだろうか、同じようなグラフィックと質のVRゲームがほとんどないのには驚きだ。ゼロではない。しかし数は限られている。

 

でも分かったことがある。VR空間の臨場感がどんどん高くなっても基本的な空虚さが埋まるわけではない。だから霊的ワークが必要なのだ。自分というハードウェアを進化させることで、言わば認識を再プログラムし直すことで世界を変えるしかない。自分が真実だと思ったものが真実なのだから頭のリミッターをガンガン外していく以外に今後、生きていく方法はない。

 

VRの進化を待っているのでは受動的過ぎる。だったらもう元には戻れないぐらい激しい再プログラムをやり続けて認識を変えるしかない。VRは期待外れだったが学べることはいっぱいあった。結果的に良かった。そういえば書いていた原稿はどこにやった?プリントアウトしていたやつ。夢で見たのだっけ?VR内で書いていた?VR内で原稿をプリントアウトするようなイメージが浮かんだだろうか?いや、VR内ではない。VR内では相当素面だったから。

 

でも確かに傑作を途中までだがプリントアウトしていたのだ。やはりそれは覚えているし夢ではない。落ちている白紙に飛びついて調べなおしたが、やはりそれは白紙だった。途中までのプリントまでが消えていた。部屋中をくまなく探した。クローゼット、バス、トイレ、冷蔵庫の中からベッドの下、テレビの後ろまで……。ワンルームの室内にもう探すところはなかった。扉が開くとエロ雑誌とエロ専用VRゴーグルをバッグにしまって、病室にむかった。エレベーターホールの横はソファがならんだ休息所で、ぽつぽつと元気のなさそうな人が離れ小島みたいに座っている。

 

しばらく座り込んで考えた。窓を開けて風を入れた。そうすることに意味はなかったが、そうするよりほかにすることがなかった。考えるのをやめて街を歩いている。編集者に電話をして会うことに決めた。わざと遠回りして喫茶店に向かう。公園通りをパルコのところで曲がると南欧を表面だけ似せたスペイン坂に入る。ガキが多い。

 

自分があのくらいのガキの頃、見知らぬ人が両親から僕をかばってくれ、僕が不当に叱られたといって慰めてくれた時、僕は怖かった、ものすごく怖かったものだが、そのとき僕はどんな正義に反しても、どんなに明白な事実に反しても、僕のほうが悪いと言われた方がどれほどいいか知れないと思った。

 

それは万事を平常通り、きちんとしておきたいと考えたからであり、僕が他の子どもたちと同じように服従することができ、信頼することができる本当の両親をを持ちたいと考えたからだったが、それと同じように今、僕は、万事を平常通りきちんとしておきたいから、彼らが僕のほうが悪いと言ってくれることを、僕よりも他の人たちのほうが僕のことを分かってくれない人たち、僕のことを嫌がってくれる人たちの方が正しいとしてくれることを、彼らがそういう人たちから僕をかばってくれるようなことはしないで、僕をそれらの人たちのほうへ押し返し、僕がいつも希望しているように、それらの人たちに僕が服従し、信頼できるように望んでいるのだ。

 

このあたりもすっかりつまらなくなってしまった。DJをやっていた頃にレコード屋に通っていた頃はまだガラが悪い連中が歩いていたし、バタフライナイフをクルクル回しながら歩いている若い男がいた。今はここもどこにでもある普通の街になってしまった。ナイフを回しながら歩いている男がいるよりかはマシなのかもしれない。

 

編集者の木原は約束の時間より早く来ていた。電話するとホテルの下の喫茶店まで伺いますといったのだが、仕事場から離れたかった。外の空気を吸いたかったし街に接したかった。

 

「先生一体どうしたんですか?」

 

「面白いと思ったのはあなたが今あつかっている作家が自分であるように一緒になって語りたくなったと言っていることです。かと思うとあなた自身がその作家と同じように生きていたように対話をしたりしたくなったりと言っています。それは横着のように見えるけれども本当は一番正直なのだ、とあなたは言っていました。誰が見てもすぐこれはあなたが実に横着にやっている、ということがすぐ分かるからです。それはフィクションであるということがすぐ分かるからです。そう、あなたは別のところで言っています」

 

それを聞いて木原は気弱に笑った。

 

「それはそうと先生の方から電話なんて……それに誰にも内緒で来てくれだなんて」

 

「キッスしないでくれよ」

 

瞳がチラチラと警戒の色を発している。

 

「うん」

 

コーヒーが運ばれてくるのを待って一口啜った。

 

「実は素晴らしい原稿ができたんだ。僕の最高傑作だった」

 

えっホントですか、とは木原は言わない。あそこに見える隣の建物の階段を上っているのはその不動産屋の女社長ではなくて助手だ。営業上の問題や客との交渉ではなしに、もっぱら技術的問題に携わっている。不動産の観点からすると今回の出物は健全なもので、地区も優良、正面壁は切り石造りだし、エレベーターは入れ替えたばかりで、階段もしっかりしていた。

 

それで女は今、一層念入りに現場の状態を査定し、例えば壁と仕切りを気別するのにはもっと太い線で、扉がどっち向きに開くかを示すのには矢印つきの半円で、その区画のより詳細な図面を作成し、工事の予測をし、価格入りの初めての回想見積もりを用意しに来ているのだった。

 

「ええ……それで?」

 

そこはベテランの小賢しさとしたたかさだ。作家がこういう言い方をしたときは必ずよくないオチがあることを長年の経験から知り尽くしている。

 

「先生、いったい何があったんです?」

 

腹を決めてありのままを話すことにした。

 

「信じてはくれないだろうが、手違いで全部消してしまったんだ」

 

木原の煙草が手の先でどんどん灰になっていく。

 

「本当に最高傑作だった、多分代表作になるはずの作品だった。徹夜で書き上げたんだ。それを」

 

木原の煙草の灰はひたすらのびていく。それは宇宙にまたがる重苦しさとともに再び生じるようで、その強さと共に、その印象の中で、重い、ありふれた音を聞いた。それは柱時計であった。一歩一歩、この音の中に入っていく。彼女は甘く暖かい物質に迷い込み、その物質は彼女の体を包み込み、一種の憂鬱を見せた。その中で身をかがめると、震えている存在が見えた。そして、彼女は姿を消した。静寂に包まれ、それまでの灰色の輝きは消えた。聞こえるのは、深い音だけだった。この音は一歩ずつ生まれ、そして消えていくようで、そして全体が消えていった。

 

「手違いだったんだ」

 

饒舌は多分無意味だろう。多くを語らないことにした。木原は灰ののびた煙草を手から放そうとせず言った。3ブロック先のアパート。彼らは郵便物を開けメールを開く。タバコに火をつける。外出する。午前中の数時間だけ彼らは仕事をする。昼食はその日の気分でサンドイッチやステーキを食べ、街のカフェでコーヒーを飲み、ゆっくり歩いて帰る。