行方不明の象を探して。その146。

今生まれた人間は最初からここまでつまらない世界の中に産み落とされたので、最初から世界はつまらないものだと思っている。最終的に誰もがつまらないと思うことで帰結は一致している。集団的無意識が人格化した人間が「つまらない」と言い続けている。そりゃそうだろう。面白いわけがない。

 

喫茶店ジルドレ。あの女とジルドレの話をしたのを思い出した。ジャンヌダルクがどうだとかいつ頃だったっけ?この世みたいにつまらないなんの変哲もない外観の雑居ビルにもかかわらずその名は消えることなく頭の片隅にあった。そもそもジルドレなんて名前をつける喫茶店がないからだろう。

 

マルキドサドという喫茶店は逆にありそうな気がする。SMショップにならそういう店名がありそうだ。階段はどこだっけ?我々は喫茶店の扉を開けようとしていた。それは思い出の場所。この間、編集者にあったら「意外とちゃんと書けてるじゃないですか」と言われた。「森の中で何をしていたんですか?」とも言われたのだが、なんのことだか分からなかった。あれは夢ではなかったのだろう。いや、編集者がなぜそのことを知っているのか。

 

小説を書けというのか?書けるものならとっくに書いている。でも、無理なんだ。あいにく仕事が忙しく、ペンを取る暇がないのだ。特に就いてる仕事はない。いや、っていうかうちは長い小説は出さないんだ。いや、象に関する小説で長くはないですよ。そこまで。なんでダメなんですか?長すぎるから。もうちょっとわかりやすく要点をさ、ポイントポイントで押さえてくれないかな?

 

短くするのは無理ですね。ページ数がかさばるのがダメなんだったら文字を小さくすればいいんじゃないですか?短くはっきり書くことだよ。必要なのは。別にモノをね、ネタを引き延ばしてるわけじゃないんですよ。全部エッセンシャルです。活字離れとか知ったこっちゃないですよ。池田大作の本みたいに巨大なフォントの本ばっか出しますか?分かった分かった。もう今日はいいよ。帰ろう。帰ろうっていうかそういうことじゃないでしょ。

 

もういいよ。だったら。活字読まないなんてイカれてるよ。そんなイカれたやつらに合わせるなんて世の中を破壊する気だね?もう酒だ。酒。酒だ。

 

ワインを注文する。安ワインだと蕁麻疹が出る。ここの店のワインなら大丈夫。あの頃もいつもこうしてデートは始まったものだった。

 

「何か食べたい?」

 

「別に。ただ凄く喉が渇くだけ」

 

「いい時間ね。そろそろ」

 

「そう」

 

「ソーセージは残っている?」

 

「と思うよ」

 

「見せて?」

 

「え?このソーセージがほしいの?」

 

冴子は髪をとかしている。

 

「飲み物はある?」

 

「ワインなら」

 

もう決めた。この記憶の変形と歪みに立ち向かうことにしようではないか!いざ。どうせ他にやることねーしクソつまんねーしよ、なんなんだよ、もうちょっとなんか無いの?あと金。金があるに越したことはないんだけどさ、あるならあるであったなりにもうちょっと楽しみがあるのかと思ったら意外とないじゃん!人って金があったらなぁーとかって思うわけじゃん?でも全然つまんねーよっていうかすぐ飽きる。

 

冴子は窓際に行き、窓を開け、頭を外に出して頭を振り乱した。俺は読みかけのを手に取り、ドアまで歩き、顔を上げ、何もしなかった。インテンショナルな空白。冴子には一種の空虚さがあった。一瞬、世界が衝撃とともに消え去り、僕らは不快な空白の中に取り残されたようだった。

 

冴子は一瞬、僕を少し奇妙な目で見たが、何も言わなかった。

 

「手相を見てあげる」

 

「手相見れるんだ?」

 

「見れないけど」

 

「なんで手の皺で人の運命が分かるんだ?」

 

「分からない」

 

占いは適当なやつだと大体10代20代30代40代にありそうなことを言う。で、それを統計だのと言う。それはでも統計の言葉の意味を間違えてるだろう。アナルの皺が人によって違うように似たような人生を歩む人は一人もいない。大まかに見れば似ているかもしれないが細部は違う。そんなの当たり前だ。見えている人は手相から何かの情報を取ってリーディングしているのだろう。本当にアレにはビビった。あれからだ、俺が占いをバカにしなくなったのは。

 

「だったらカードで見てあげるよ」

 

俺はどっかにしまってあったカードを取り出そうとした。冴子は最初に引いたカード、魔術師、というか厳密には曲芸師を細部まで調べるように注意深く見ていた。

 

「マジシャンだと魔法使いっぽいけど、あなたが言うように曲芸師ってことだと、手品師っていう意味でのマジシャンっぽいわよね。色々とこのテーブルに仕込まれていそう」

 

「そのカードどこから見つけたの?っていうかなんで俺のカードを持ってるの?」

 

「まるで幾何学模様ね。あたしがオランダのリトリートでアヤワスカを飲んだ後に見た幻覚の色彩感覚によく似てるわ」

 

「そうなんだよね。ライダー版もいいんだろうけど、所謂、マルセイユ版とかそのあたりのやつのほうがサイケデリックでイメージが強いんだよ。なんかこう、眉間を刺激されるような感じがある。絵が具体的過ぎると絵にイメージが引っ張られるからね」

 

「でもライダー版にも良いところはあるでしょう」

 

「本来は秘教的だったタロットの民主化だね」

 

「そうね。あなたは永遠のフールね」

 

毎朝目につく青い時計とピンクの電話。よっちゃんイカ。青と灰色の正方形とダイヤモンド編みのベッドカバー。誰のだ?それ。ダイヤモンド編みっつーかダイヤモンドでできてるから寝れないんだよ。硬すぎて。売ったら?また金の話か。でもサイケデリックなのは基本いいことだろう?隣の汚い老年の家で怪我をした老人を産むって言っていたビートニク崩れは、今どうしてるんだろうか?あいつの無気力な戦いの悲しみを考えたら俺なんてまだマシだなっていうか、まだ色々やりようがあるなとは思う。

 

「呆れた。いったいどんな食生活をしているの」

 

冴子はしばらく手を止めて食欲ぶりを観察している。

 

「ねえ、まるで何日も食べてなかったみたいよ」

 

「そう?」

 

食った。

 

「酒だってもう何百日も飲んでないんだ」

 

これはウソだな。アードベック飲んだもん。

 

ワインを一気に飲み干しさらに注いでボトルを空にする。ハードリカーばかり飲んでいるとワインが清涼飲料水のように感じる。上等のワインだ。

 

「まずい」

 

この店の最高級品を頼んでいた。

 

「あのころウチで飲んでた安ワインのほうがうまかった」

 

「蕁麻疹が出るやつ?」

 

「そう。あれ。かゆみも含めて飲んだなって実感があった」

 

「今だって十分酔ってるわよ」

 

彼女は昔からこういうものいいをする。

 

「俺は酔ってるさ。だが酔ってないんだ。俺、変かな?」

 

「ヘンよ」

 

冴子はジッとこちらを見た。それから真顔で身を乗り出して聞いた。

 

「それってゴーストの話?」

 

ゴーストが囁くという意味で使っている。

 

我々は場所を変えて昨日は一人で来たはずのバーへ入った。どれが夢でどれが現実かの区別がついていないし、バーからどう帰ったかも覚えていない。人間は夢を集団で見ることができないらしい。ベタな言い方をすると現実が集団で見ている夢と言えなくもない気がするが海外では銃乱射事件や戦争が起きている。マンディーン占星術、というより占星術はそもそもそういう大きい集団で見ている夢を解析するようなツールだったはずだ。奇門遁甲とかの中国の占いも同じだ。昔は今ほど「個」が重要じゃなかった。だから占術はもっぱら戦争とか国家の未来がどうなるか?というようなことに使われた。

 

夢と違って「リアルだ」と思えるものの大抵が残酷か陰湿なものばかりだ。もううんざりだ。角谷美知夫の腐っていくテレパシーズはまさにリアルが虚構への劣化しながら腐っていく様子が統合失調症の精神の中でリアルに表現されている。一般的に精神病と言われる人間のほうが世界にリアリティを感じている。彼らが見る現実のほうがリアリティがある。そういう意味で角谷美知夫は生まれる場所が違えばシャーマンになっていた可能性がある。精神病というカテゴリは暴力だ。フーコーを出すまでもなく、実際にただのキチガイも多いんだろうけど、中にはサイキックなやつがいるかもしれないわけで。実際、ユタの神懸かりの症状なんかは精神病のそれとほとんど変わらない。

 

ここも昔懐かしい思い出の店だ。これは夢の話だ。いや、冴子がいるから夢じゃない。夢はあれだ、人民服を着てる中国人に

 

「お前は日本人だけど中国に馴染んでるからあの店に連れて行ってやるよ」

 

といって連れていかれた店で出てきたのがラーメンに子豚の姿焼きが入っている気持ち悪いものだった。中国への偏見丸出しだが夢の話なんだからしょうだない。子豚の姿焼きだろうがラーメンのどんぶりの入るはずがないのに三匹も入っていた。まぁ夢だから実際のスケールとかは関係ないだろう。あとあれだ、あれは宇宙だったか、澄んだ緑色の湖に立ち並ぶ幻想的な街並みだと思ったらフランス人が住んでいるらしいタワマン群だったのだが、恐らく住んでいるのは宇宙人だったはずだ。

 

「バーボンロック。二つ」

 

冴子が男のように注文する。ムスリムガーゼが流れてるけど、どのアルバムか分からない。似たような素材の色んなバリエーションだから「これ!」って特定できないんだよね。言うなら中東ダブ。中東音楽をダブしてるけどラリってやがる。ラリってないことがないよな。バー行くと大体ラリってる。寝起きからラリりたい。素面なんてファック野郎の精神状態だ。

 

「今日の俺、やけに懐古的だ」

 

「かいこ?」

 

「ノスタルジーって意味」

 

「そのカイコね。相変わらず変な言葉の使い方」

 

冴子はそういうとケラケラと笑った。恋人たちの笑い声は冴子の笑い声だったのか。この際、小人でも恋人でも関係ないだろう。同じことだと言うことにしよう。小人はあれは夢だ。でもこのカタカタという物音みたいな笑い声は小人のそれだ。冴子か。まさか・・・。

 

「かもね。だってもうゴーストになっちゃてんだもの」

 

我々は時としてこのような印象を抱かないだろうか。我々のために用意されたのではないフィクションに参加しているとか、型の後ろから何かの真理を、まだ把握されていない何かのイメージを不意に捉えた、とかいうような印象を。我々は初めて見たはずの根っこを、あたかも幼いころから通っていた秘密の遊び場のように触れた、ような気がしているだけなのではないか。