行方不明の象を探して。その147。

声が聞こえた。我々は一斉に緑の色気をそれぞれに思いのまま自由に吹きかけた。すると草とも苔とも言えない緑の繊毛が滞留している風を捉まえた。我々ははじめて自分たちの顔をまじまじと見た。つまり我々はそのイメージを捉えるために本当にそこにいるわけではなく、そこに現れるものは自分自身としてそこに参加しておらず、現在時の主体という地位を持たない誰かにとって現れるのだ。夢の中で我々が見知らぬものの立場にいるということ、まずそれが夢を奇異なものにしているのだ。

 

冴子は一口飲んだ後、グラスを弄んでいたが

 

「ねえ、それで?」

 

「え」

 

「ゴーストの話」

 

草薙素子の声に聞こえた。冴子ってこんな声をしていたっけ?遺骸的類似だ。夢の中で我々が出会うもの。恋人だったり小人だったり、こうして現実に浸食してくる何かであったり。あの非人称の異質な美しい存在、深奥から表面へゆっくり上がってくる分身のようなあの存在に、象に結び付くことである。

 

冴子に起こったことの全てを話した。最近ぐらいのことまで。ここ数日間の事柄。冴子はロックを飲み干した。

 

「おかわり、ちょうだい」

 

それから煙草に火をつける。

 

「でも見たわけじゃないんでしょ」

 

「そもそも目なんてないんだよ。だから声だけを聴いた。君の声にそっくりだった」

 

彼女は長い糸のようにして煙草の煙を吐き出した。男は短期の快楽に夢中になり、女は長期的な幸福を求める。もちろんそれは、マジョリティーとしての「男」や「女」に認められる、「一般的な傾向」でしかない。それに男と女、どちらが愚かだというわけでもない。その差異によって、バランスが取れているのも事実なのかもしれないし、大局的に見れば、そのことで誕生する子孫の数に調整が行われているはずだ。

 

「あたし、この目で見たことしか信じないタチだから」

 

「見たさ。ちゃんとこの目で」

 

「目なんてないって言ってなかった?」

 

「確かに」

 

「じゃあ夢でしょ。それって」

 

「遺骸的類似だって説明しただろう」

 

道の側溝からあふれだした雨水が、とうとうこちらの車寄せにまで流れ込んできている。万が一の浸水に備えて設置したばかりの止水板が、途端に心許なく感じられた。降りはじめたのは一時間前だというのに、不吉なくらいに雨の勢いが衰えない。

 

「それはちょっと意味が分からない。本読まないから」

 

「そういうことではなくて」

 

「じゃあどういうことなの?」

 

「言葉で説明出来たら苦労しないさ」

 

朝は何時に起きた?昼飯はなにを食った?昼飯のときなんのテレビを見てた?店番の時間は?顔見知りは店にきたか?今日はメロン何個売れた?生まれて初めてクソをもらした。気が通りやすくなる秘伝のお茶をがぶがぶ飲んでいたら腹を壊したらしい。でも全く腹痛は無く水のように腸からクソが噴き出してきた。トイレに行こうと思ったら誰かが入っていたのでクソを漏らした。

 

「そんなものなのね。あなた」

 

「そんなもんさ。幻滅した?」

 

「最初から幻想なんて持ってないわよ。等身大のあなたらしいなと思って」

 

人の言葉を平然と切って捨てるようにいうのは冴子の昔からの癖だった。

 

「しつこいようだけど夢なんかじゃない。ちゃんと見たんだ。自分がはっきりと自分を。言ってみれば幽体離脱のようなものだ」

 

「スピリチュアルとか信じないから」

 

「いや、だからそういうことじゃなくて。夢であるだろ?自分が自分を見る夢」

 

「だから夢だってことじゃない」

 

「いや……」

 

「ねえ、ところで、あれはもらえたの」

 

「あぁ、サムシングオールド?うん。でもね、内緒なんだよ」

 

彼女は煙草をくゆらせている。

 

「お医者さんは何ていったの」

 

「睡眠導入剤とアルコールを同時摂取してるとそのうち死ぬってはっきり言われた」

 

すると少年の裸の体が現れた。一昨日ぐらいの夢だったと思う。少年は洞窟に逃げ込んだり木々の陰に隠れたりしていた。その背後から長い鼻が顔を出し始めた。少年はキリンのように首を伸ばし両手で長い鼻に近づいた。首が伸びたかと思うと、両手で鼻をつまんでいる。そんな夢だった。

 

冴子ってなんで睡眠導入剤飲んでいることを知っているのだろう?勘がいいからな。昔から。そういうところも変わってないんだよな。なんかいつもこういう感じになる。マウントを取られている感じがするわけではないんだけど、常に彼女が優位で何もかもが進む。自分は彼女に従属しているようにしか感じられなくなる。でもそれが嫌なわけじゃない。医者から薬をもらったのは10日も前のことだ。10日前と今とではまるで次元が違う。人間は常に前に進んでいるのだ。精神が。ゴーストが。

 

「そう思うわ。あたしも」

 

「そりゃ死ぬよな。肝臓が耐えられなくなるよな」

 

彼女は何も言わなかった。酔うとどんどん可愛げが無くなって態度が冷たくなってくる。アスペクトで俺は相当な霊感体質だということが分かった。散々言われてたのにアスペクトに出ていると納得する。というかアスペクト、あれは何なんだ?なんであんなに当たるんだ?当たるというか当てはまるという感じか。恐らく星とか惑星ってのはただのサインなんであって抽象化された記号なんだろう。もしくは人間が「そういう星の元に生まれた」みたいな考え方をするから星との関係がエーテル的にできているのかもしれない。

 

冴子のアスペクトとサビアンは何なんだろう?年齢しか知らない。小学校一年の時、風邪をひいた俺に母親が三つの本を買ってきてくれた。一つがドラえもんの文章題が分かるという漫画の本、もう一つはビックリマンおもしろランドという本、フィルムブックというやつ。当時のガキでビックリマンを知らないやつはいないだろう。俺もめちゃめちゃ集めていたのだが、母親はそれを知っていた。でもおかんあるあるなんだろうが、バラのいきなり9巻とかを買ってこられても内容がさっぱり分からないし俺はそんな本を買うお金があったらビックリマンシールを10個でも買ってきてほしかったと思って

 

「なんでこんなの買ってくるんだよ!バカババア!」

 

とかって悪態をついておもしろランドの本に油性マジックで

 

「びっくりまんおもしろくないランド」

 

とかって書いて母親に投げつけた。当然母親はカンカンだった。そんなことよりもそれが俺の心の傷になったということだ。特に鬱になるとこのエピソードを思い出して

 

「なんであんなに酷いことをしてしまったんだろう」

 

と思う。いや、アセンダントが獅子座のどうしようもない暴れん坊のガキだった俺だったから母親に酷いことを言ったり困らせたりはしただろう。でもこのエピソードは本当に俺の心が傷ついた。泣きながら油性マジックで

 

「せっかくお母さんが買ってきてくれたのに・・・」

 

ってリアルタイムに傷つきながら「おもしろくないランド」と書いたのだ。

 

そう。ひどすぎることをするとカルマが帰って来て凄まじい思いをする、というのもあるが、心の傷を作ると本当にマズい。それは永遠に残る。どうにかこのインナーチャイルド的なトラウマを克服できないか?と思って、といっても今は母親と毎日会っているし迷惑はかけっぱなしだが

 

「親孝行しておけばよかった・・・」

 

なんて思う感じではない。全然今からでも親孝行していける。でもそれとは別に深い傷としてそれが残っている。自分の傷を治さないと霊性はなかなか高まらない。だから全てがフィードバックしてきて酷いことをした人に謝ったり酷いことをしてきた人を許したり、とにかく内面フィードバック現象はとんでもないことが心の中で起こるのだ。

 

そこでこないだビックリマンおもしろランドを買い直してちゃんと読むということをすればいいのだと思ったのだ。キッドロコが表紙に出ているやつだったけど厳密に何巻までかは覚えていない。ただ俺は最近、記憶力がいいとは思わなくなった。普通に比べればべらぼうに良いのは分かっているのだが、記憶が残らないとされる赤ちゃんの頃の記憶すらも残っているので、過去も今と同じ次元に存在していて、何かのきっかけで思い出すとか急に入ってくるというのは過去の次元から俺の頭に情報が入ってきているということだから、それは記憶ではない。だからあんなに鮮明なのだ。リアルタイムに感情も感じる。

 

とにかく俺はビックリマンおもしろランドを買うことした。調べていたらシンクロニシティがすでに起こっていた。新ビックリマンおもしろランドも含めて全巻揃っているのがヤフオクに出ていた。しかしなぜかこのビックリマンおもしろランドはプレ値がついていて結構な値段がした。でもインナーチャイルドを癒すのと霊性を高めるためだと思えば全然安い。

 

良心的な出品者は即座に商品を送ってくれた。だから今、俺はビックリマンおもしろランドを読んでいる。心が癒されると共に内容が結構面白いので驚く。かぐや観音!プレアデスから来た観音様!というより話自体が宇宙や霊界の話なのでまさにびっくりだ。あれは子供向けのアニメのような体裁をとっているが神話的象徴のコラージュのようなもので旧約聖書に近いものだ。しかもプレ値だ。聖書みたいに大切に本を扱おう。母があの時、これを買ってきてくれなかったらこんな感動は無かったのだ。

 

プレ値がついているのも児童向けコミックなのではなくて聖なるものだからなんだろう。内容が特別過ぎるのだ。何しろ主人公が日本武尊だ。アニメはDVD化されていないのだろうか?見るだけで霊性が高まるな。これは。

 

「俺だって最初は夢だと思い込もうとしたさ。だけどね、現実に原稿ができてるんだ。俺が眠り込まされている間に俺の知らない原稿があるんだ」

 

屋内にいたときは気づかなかったけれど、一歩外に出ると、さっきよりもずっと強い雨が降っていた。ほとんど暴風雨だ。アスファルトの上を水が川のように流れ、夜空は不吉に感じるほどくろぐろと黒ずんでいた。その色は空というより、記憶の奥底に沈んでいる、かつて見慣れた夜の海のような、底のない、ものすごい暗さだった。

 

「ねえ」

 

彼女はうんざりしたように長い髪をかき上げた。

 

「もっと楽しい話をしない?」

 

「楽しい話?」

 

思わず笑いだした。冴子にとって楽しい話というのは自分の話だ。どんなときにも醒めていて自分の話以外には興味がないのだ。混乱した。玄関ドアは確かに自宅だった。しかしそういったことをここで言うのはまずいような気がした。口から出てきたのは声にならない咳払いだけだった。

 

たて続けに5杯は飲んだ。いや、もしかしたら6杯だったかもしれない。冴子がどこかで笑っている。ただ無意味にケタケタ笑っている声が聞こえる。イメージした瞬間に次の記憶に飛んで行ってしまう。ホテルからどのような経路でここまできたのかを思い出そうとした。

 

「ねえ、やめてよ。その笑い方」

 

笑ってるのは冴子だろう。違うのか。池袋の河川敷が、強まる雨脚と突風に灰色に染まっていくのを、タクシーの窓からぼんやりと見ていた。ついさっきまで渋谷の喧騒の中にいたのに、この辺りまでくると同じ東京だとは思えないもの寂しさだった。