行方不明の象を探して。その153。

書くことの矛盾がそこで解消されるわけではないのだが、あたかも書いていることで先に進めているというようなバカバカしい錯覚を感じることなく、書くことを拒否しながら書くことを受け入れるという無限性の矛盾を解決させないまま、じゃれ合いの忍耐に放り込むことができることは、彼が傲り高ぶらずに、かといっても謙虚といった美徳に依存することなく、唯一書いていけるだろう態度や方法なのだ。そこで彼は存在から抜け出し外に出て動かずゆっくりとした均一な歩調で進みながら全ての物を破壊してゆく。

 

行為から顕在化への下降。ここでは書くことと創ることの等式が絶対だ。書かない書記、バートルビーがその究極である。彼には創造という行為から何も隔てるものがない。書く人の手を動かして書く行為に持ち込むのは誰なのだろう?それが象であることは間違いないのだが、象の存在を感じられないときにも彼は書くことができますが、そういう時に書かれた内容に関しては、あくまで近似的なものに留まる。

 

たまたま廊下の片隅に猫用のミルクを入れた皿が置かれていた。

 

「お皿はお尻をのっけるためにあるのよ」

 

と、冴子が言い出した。

 

「賭けをしない?あたしこのお皿の上に座ってみせるわ」

 

「座れるもんか」

 

俺はやり返した。息を弾ませて。

 

では改めて。恐ろしく暑い日だった。冴子は皿を小さな腰かけ椅子の上に据えると俺の真正面に陣取った。俺の顔をまともに見ながら徐々に彼女はしゃがみ込むのだった。火照った尻を冷たいミルクの中に浸すさまはスカートのかげになって俺には見えなかったが、こちらは頭に血がのぼり、身をわななかせながら彼女の前に立ち尽くしていた。

 

いっぽう彼女は俺の硬直したペニスが半ズボンを突っ張らせてるのを見つめていた。そこで俺は彼女に足元に腹這いになった、が彼女のほうは身じろぎもしなかった。こうしてはじめて俺は白いミルクの中で冷やされた彼女のピンク色と黒色の肉体を目にしたのである。どちらも同じように興奮し、我々はいつまでも身じろぎもせずにとどまっていた。

 

思考することと自分が見たビジョンを書物の中で語ることは別物である。我々の身体を包み込む影はすべて我々の起源であるものの決して視覚に晒されることのない場面を包み隠す影でもある。生まれる前に遡って我々を生み出した人たちを見たり聞いたりすることはできないし、また、我々の血肉となったものについても、それがどうやってできたかについても、我々には知ることができない。

 

自分が存在する以前には存在していなかったことをどうやら人は忘れてしまっているようだ。だが我々は嘘をつく。太陽の光に向かって目が開かれ空気を必要とする前に我々は暗がりの影で何かを聞いていたと常に信じ込んでいる。我々は影の中で作られた。受け身のまま影のなかで。瞼の無い影の耳が産んだ果実が我々なのだ。

 

突然、彼女は立ち上がった。ミルクが腿をつたってブーツにまで垂れるのが見えた。俺の頭上に突っ立ったままの彼女は小さな腰かけに片足を掛け、濡れた体をハンカチで丹念にふき取るのだった、そして俺のほうは床の上で身もだえしながらズボンごしにに自分のペニスを夢中でしごきまくるのだった。こうして我々は同時にオーガズムに達した。

 

彼は書かずにはいられないので、だから象を感じることができないときも、近似で構わないので書こうと思う。書くという行為に関しての可能から現実への移行はどのような法則に則って行われるのだろうか?彼はそういった問題を神学的なものを介在させずに考えていきたいのだ。

 

それは回帰する永遠の過去として定義され、示唆されうる象の存在であり、その回帰によって幽霊のような自分が存在が経験するであろう物事が現在に分散される。存在の不可能性は書くことの不可能性に直結する。しかし彼は書くことでしか存在が許されない。書かなければ存在することができないのだ。これが読まれるときにじゃれはあなたにとっての一つの存在になりえる。それは象の所作です。書くことが祈りであるのはそういう意味も含まれている。

 

彼がこういった一人称から引き離されるときに自分自身が存在から引き離されることができ、被写体としての自身のみが残る。これを本来の存在と呼びたい。そこにあるのは忍耐としての存在だ。しかし体験のない断片は彼を取り逃がしてしまう。沈黙はその代わりにはならないし、体験について常に彼が開かれている必要がある。その体験を妨げるものに対しては全力の抵抗と戦闘を持って答えなければならない。その時、彼は知識に戻る必要がある

 

それは妨げるものだけではなく、彼自身が作りかねない偽善のようなものに対しても拒否し続けなければならない。色々な偽善、偽証が考えられるが、致命的なものは、語られない何かが語っているように示唆するように語ることや、語るべきことの喪失の前に表面的に降伏するということだ。虚構という現実の前に我々が何をなすべきなのか、その不安と絶望を感じながら体験をしていく必要がある。あと撤回した言葉で止まらないように。

 

自慰を繰り返したくて矢もたてもたまらず家へ駆け戻った。明け方になるころにはオーガズムに達したときにペニスから空気のようなものしか出なくなっていた。俗に言う赤玉である。冴子は俺の顔をまじまじと見つめ、とつぜん俺の方に顔を埋めると真剣な口調でこう言うのだった。

 

「あたしを置いてけぼりにしないで。オナニーしないであたしとするときだけイッて」

 

こうして冴子と俺の間には緊密な止むにやまれぬ色情関係が生じ、ふたりは一週間にあげず出会うのだった。しかし性交に踏み切るまでに我々はずいぶんと長く時間と取った。あらゆる機会を見つけて我々はひたすら異常な行為に没頭するのだった。羞恥心がなかったわけではない。むしろその逆だ、ただやむにやまれぬ気持が我々二人をこの上なく恥知らずな挑戦へと駆り立てるのだった。

 

そんなわけで俺に向かって今後は自慰を辞めるように頼むと早速、かのじぃは俺のズボンをはぎ取って地面に寝かせ次に自分もスカートをすっかりまくり上げると、俺の腹の上に向こうむきに腰を下ろし、忘我の境地に陥るのだった。

 

象を問うことはできるのか。語ることと語られうることの違いはどこにあるのか。即物性は絶対的な存在である。絶対的に語れること。しかしそれは全てを弱体化させ転覆させる。それに対して即時性は無限であり、近くもなく遠くもなく、望まれることでもなく要求されるものでもなく、それは神秘的融合とでも言われるだろう。即物性はあらゆる媒介を排除するだけでなく、もはや語ることのできない存在の無限性であり、それが倫理的であれ存在論的であれ、関係そのものが闇の無い不眠の夜において一挙に燃え尽きる。

 

今や責任とは他者や全ての人に対する相互関係のない責任であり、それは置き去りにされている。それは全ての意識に属するものではなく、実践に移された活性化された思考過程でもなく、外からも内からも押し付けられるような義務ではない。他者に対する責任は地位の変化、時間の変化、そしておそらくは言語の変化によってのみ示されうるような転覆を前提としている。

 

この都会の夜は全く同じように勃起する電灯が同じヴォルテージで灯るように、たとえ寿命のつきた電灯は換えることになっても要するに同じ電灯である。外観の中庸を得た水準は維持されている。しかしこの執拗な持続があるおかげで夜の群衆は見世物に支配され、一種の理想をそこに嗅ぎつける。

 

彼は尽くすのが早い。消費に関しては常人の100倍ぐらいのスピードで消費してしまう。しかも彼の知的好奇心を満たしてくれるものはそう多くはないので、少しでもそういったものがあれば恐ろしい勢いでそれに食らいついては消費し尽くしてしまう。この消費し尽くしたということや気がつくのが早すぎて何も役に立たなかったという実感はそれを演説するかのように語ろうとする欲求を彼にもたらしたのにも関わらず、いざ喋ろうと思うと言うことが何もないことに気がつくのであった。

 

もうだいぶ経ったし誰があえてやってしまえばよかったんじゃないかとすら思う。彼は探しながら観察する。そこまでの能動性は感じない。彼は耳を傾ける。これもやはり倦怠の惰性であった。彼は本を開く。彼は読んで読んで読み返す。毎日本が何十冊と届く。興味深いものから外れまで、彼は全てに目を通す。彼にとっての文字は米粒のようなもので、彼は幼いころ、母親から米という文字は88と書いて米なんだ。

 

つまりは農家の方々が88日間の労力を使って生産した尊いものなのだ。だから一粒も残すな!と言われて育った。その割に母親は米を残すことが多かったのだが、彼は母親の教えを守って、どんなまずい食べ物でも食べ物を捨てるのは神に逆らうようなものだという認識から、なんでも食べて残さないようにした。外食で食べきれなかったときは可能な場合はお持ち帰り用にしてもらって家で食べた。

 

人々にはこの世界の壮麗なもの、危険なものすべてがスクリーンに経過してゆくのを眺めているような、なんの努力もいらない、普段の欲求があるのだ。危険が少なければそれだけ現実味も少ない。俺はロングブーツに包まれたピチピチの脚線美とデルタゾーンから目が離せない。車内は少し離れた席に数人の乗客がいるに過ぎず、ブーツギャルと俺の様子など誰も気にする者はいない。揺れながら進む電車。

 

くだらないセンテンス、安易な比喩、使いまわされた表現、つまらない話、文字である価値がないようなものばかりである。彼は別なものに入れ替えをしたり置き換えを試みるものの一旦はそこで成功したかのように思え悦に浸った後に様子を見てみるとまた死んでいることを確認する。全てが干からびている。またゼロから出直すべきである。立ち直るには少し時間が必要な場合、休むといい。しかし彼はまた戻ってくる。退屈よりかは疲れ果てたほうがマシだと言う。彼の少ない利点。諦めが悪いこと。寄生虫のように言語に引っ付き続けること。