行方不明の象を探して。その154。

彼のような人間にも倦怠感に悩まされた時に外に出て何かやれば気が紛れるだろうと思ってしょっちゅう外出していた時期もあったようである。好きなだけ買い物をして美味しいものを食べたり、良い気候の中、鎌倉で独り歩きをする。なんとも優雅ではないか。しかしそういったことも何の役にも立たないということに彼は気がついてしまった。気がつくのが早いということに悪いことはない。ただ少し早すぎるのではないか・・・。

 

もちろん例外はある。感性に富んだ人間にとってこの都会は不可欠な現実なレパートリーである。電車の振動に合わせて、セクシーブーツギャルの脚線美が悩まし気に揺れていた。時折、揺れるロングブーツのツマサキをイタズラっぽく、くるくると回す美脚ギャル。

 

しかしどんなにぼんやりした男でも人口一千万のこの都市の中央の中央で交差するすべての偶然から逃れうるものではない。偶然があまりに数多いのでまったくありえないほどの結合関係さえ生じかねないのだ。理想的なブーツとの出会い。

 

書くと言う行為の独立性の欠如。このくるくるがたまらない。海外だとShoe Playなどと言われて、足のクネクネに対する一つフェティシズムとして確立している。それは確立するだろう。ブーツフェチや脚フェチからしたら、これだけで一か月以上オカズには困らない。独立性の欠如はブーツギャルにまでも依存している。書くことだけは一切の救いの手を絶たれ、おのれのうちに留まることもない。

 

言葉たちは彼の主君だ。彼はロゴセントリズムに抗いながらもその従属関係を必然的な論理的帰結として認めなければならなかった。彼は言葉にへりくだって彼らがここでくつろいでほしいと思う。ここにあるものは全て彼らのものだ。彼らだけが主人だ。彼らが彼ららしい気まぐれに耽って欲しい、いたるところで彼らが巧みに工夫したジョークや皮肉をひけらかしてほしい。

 

それらが戯れるのを彼は見ている。答え合いこだまし合っている。それらが反響し合う。それらが反射し合ってきらきら光る。鏡となった言葉の迷宮に迷い込み、それらの反射像の絡み合いのなかに閉じ込められる。彼はクルクル回りこちらからあちらへ、あちらからこちらへはじき返される。

 

脚線美とブーツは一つの文学作品として見ることができる。ただのエロスの対象としてだけ考えるのは勿体なさすぎる。脚線美とブーツという文学ジャンルは容易に小説になぞらえることができる。実際、偉大な小説家とはその登場人物たちの声を聞かせ、それゆえに登場人物のひとりひとりに独特の文体を与えることのできる人のことなのだから、小説家の文体自体とは、正確に言えば超文体、つまりあるひとりの雄弁家を特徴づけるのに十分足りうるようなこれらの文体的諸要素の統合物だということになり。

 

俺の両手は真に卑猥な動きによって触知不能で非実在なブーツに触ろうと求めた。俺の動作は深淵の中を歩こうとする人のそれであった。それはあまりにも恐ろしい努力であって、この俺から離れ、離れながら俺を引き寄せようとしている彼女の存在が、あの言語を絶する快楽で近づいてきている存在と同じだと俺には思えた。

 

明晰で良心的な人間、注意深く行動し、与えられた状況のすべての要素を考慮し、計算し決断を下す人を認定している。責任感という言葉は、成功した行動力のある人間を修飾する言葉である。しかし、今や責任とは、他者やすべての人に対する、互恵関係のない彼の責任であり、それは置き去りにされている。

 

それはもはや意識に属するものではなく、実践に移された活性化された思考過程でもなく、外からも内からも押し付けられるような義務でさえもない。他者に対する彼の責任は、「自身」の地位の変化、時間の変化、そしておそらくは言語の変化によってのみ示されうるような転覆を前提としている。不可能への反応としての転覆。それだけが目的である。

 

この理解しがたい言葉をその悲惨な重さにおいて、また理解することも耐えることもなく象に向かうよう我々を呼び寄せるその方法において理解するためには、このように書かれたことのない言語、すなわち刻まれたことはないが、常に規定されるべき言語の方へ向かわなければならないのだろう。だからこそ責任それ自体は悲惨なものなのだ。これこそ未知のものの存在感のなさに対する受動性の反応である。

 

部屋は狭かったが、広かったので、彼に会うのに時間がかかった。彼がいつも本当のことを言うとは限らないので、彼の言葉を信じられないことが度々あり、そんなときはは頭の中であれこれ推理をして、それが本当なのかどうか突き止めようとする。そうして本当ではないとわかるときがあれば、判断がつかないし分からずじまいということもある。彼が何度も同じことを言うので、同じ嘘を何度も繰り返すとは考えにくいという理由から本当なのだと思う時もある。もしかしたら何が本当かはどうでもよくて、ただ問いに対する答えがほしいだけなのかもしれない。

 

「我々は彼らを愛するだろう」

 

「我々はすでに彼らを愛している」

 

「彼らは我々が愛していることを知らない」

 

「彼らがそうでないのは幸運だ」

 

「彼らは我々が彼らに期待していることを何も知らない」

 

「彼らは無知で生きている。無知であるがゆえに、彼らは美しく、生き生きとしている」

 

彼はこれらの言葉をすべて受け入れた。作家とは常に自分ができることの彼方へと向かうもののことだ。一流の作家は自分が実際に感じることを書き、二流の作家は自分が感じようと思ったことを書き、三流の作家は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを書く。表現することを本当に感じたかどうかが重要なのではない。そう思って感じたふりをすることができれば十分なのだ。文学は他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分ではないことの告白である。

 

要するに彼のイデーが完成されて以来、象は次のようである。有限の感じで彼の上にのしかかる一門の過去を含めて、この倦怠を重苦しい、行き詰るような時間に陥れる振り子の時と、未来を成熟戦とするその期待とが、純粋時間、または観念性の病による不安定な倦怠を形作っている。彼は窓から身を引き放して、ふらふらと部屋の中を歩き回る。そして鏡の罠にかかる。自分を見つめる。その自分が嫌悪感を与える。これもまた一つの永遠だ。ようやく彼は自分のイメージから逃れてベッドに倒れこむ。天井を見つめる。書きたい。

 

物語がはじまったのはこの時よりかなりまえのことなのかもしれない、だがくれぐれも慎重に注意を払うとしよう、二つか三つの挿話でさえようやく明らかになるといったありさまで、情報源はいつもあてにならないし、このささやき声も沈黙としゃっくりのせいで途切れがちでほとんど聞き取れない、だとすれば我々はそんなものを気にしないで調子の狂った振り子時計の時刻からはじめたほうがよかったのかもしれないのだけれど、さてどうしたものか。

 

自分の欲するもの、それを彼は一瞬の遅滞もなく、どんな細部もなしに欲しているそれがなんであれ限られたある場所でなにかであることなどは問題ではないし、説明することや確認することが問題になっているわけでもない。むしろそれは化学的な操作なのだ。つまり分離させ遊離させること。ある春の日、彼は机に座っていた。ちょうど外から帰ってきたところで外は日差しであらゆるものが光り輝いていた。手にしていた本を落としふいに気を失う。