行方不明の象を探して。その170。

輝く口元のちんぽの影と海。体は後ろに倒れ、焦げたフィルムからは精液の匂い。脚が走る、黄色いシミ、黒い茂みの木々の中で少女が走る影がクローズアップされて、窓からちんぽをしゃぶる少女とハンドフィンガーファック。

 

カモメの手と漂白された動きの腕、垂直方向の荒さ、少女が座る白く焼けた緑の指と赤く塗られた恥部、白色の胸に白色の精液が垂れる。赤くなった顔の動き、焦げたフィルムからザーメンの匂い、乳首目線での顔のクローズアップ。

 

彼のズボンは前がはだけたままだ。パンツの中、円型を描いて少し盛り上がった部分の上に濡れた丸いしみができている、包皮がぴったり貼りついているのだ。よし今晩やってみてもいいや、だけど誓って誰にも内緒だぞ。誓うよ、でも今晩じゃなくて今すぐにさせてくれよ、いやなら入れてるお前の物を抜いてもらうよ。おいおい動くなよ。ひでえことするなあ。今いい気持ちで乗ってるところなんだぜ、あとでちゃんと好きなようにさせてやるからさ、もう汁を出した?

 

「ズコーン、ピロリピロリーって」

 

「え、それで、結局、どうなったんですか?」


「でも、それがね、だめだったのよ」

 

「え。どうしてですか?」

 

「田舎ってそういうもんなのよ」

 

「え、だって、そんなこと言ったって」

 

「信じられないかもしれないけど本当なんだもん」

 

「へぇまぁ」

 

「まいっちゃった」

 

「えぇじゃあその象どうなったんですか?」

 

「疲れたでしょう?」

 

「また倦怠の話?」

 

「うん」

 

「大丈夫だけど」

 

「大丈夫っていう感じじゃない」

 

向かうにある犬の象を見つめる。それほど可愛くない。秋田犬という種のわんこの銅像。かつて飼い主が無くなってからも毎日ここを訪れ主人を宇忠実に待ち続けた犬の物語に心を動かされた日本人が象を建てたのだ。あたしたちがパリでオペラ座正面で待ち合わせするように、日本の若者はここで待ち合わせする。期待に満ちた場所だ。

 

目の前のサラリーマンを少し観察してからもう一度家に帰ろうとする。夜も遅いのに全く疲れていない。倦怠感はある。フィジカルな疲れはない。人生には疲れている。何しろつまらない映画を毎日見せつけられているような。足を前に進める。店の明かりがチカチカする。よし、この道なら知ってる。ラーメン屋、二十四時間営業のコンビニ、アイスクリーム屋を通り過ぎ閉店したいくつかのブティックの前を歩く。まもなく公園に着き公園前を通り過ぎると駒場のほうへ続く歩道橋はすぐそこだ。

 

「お姉さん、渋谷来るまでずっと雨だったんですよ」

 

「だってね」

 

「えぇ」

 

「思ったより空いてるし」

 

「はい」

 

「ゆっくり見られて」

 

「ちょっと疲れちゃった」

 

「やっぱりだ。倦怠感」

 

「そう」

 

「帰る?」

 

「もう少し」

 

薄上がりになめらかな陰部と乳房を覆う下着を脱ぐ女性、その体を照らし出す朧げな光、薄暗がりの中で肉体はより強く匂い立ち露わとなった肌は柔らかさを増し、輪郭は朧気になり、より女性的になる。その光は過去から立ち上る。昔の幻像、どれくらいの歳月が経ったのだろう、当時の頭を回復すること、今日のことは何も知らずにおくこと、昨日の残影は然るべき場所に休んでいる。

 

幻覚が見える、生活が窮屈なことなど、勝手にやれる余地が少ないことなど、決まりが融通がきかないことなど気にするべきではない、上のほうにかかっているのが光の環になって揺れながらかかっている、マリアの耳にはそれが聞こえない、手の甲がひりひりする、小鳥たちがドローンのような動きをしながら歌っている、あんまり詩的な感じがしなくてノイズっぽい、その後に薄黄色い板がずーっと広がって向こうで深紅の渦と一緒になっている、また音が聞こえる、ちーちくぴーちくちーちくぴーちく、上へ行ったり下へ行ったり、パチパチと音を立てる、乾いた音、時には火花が閃くこともある、球が見える。

 

どこかの丘の大きな崖に泡になって垂れさがってやがる。真っ赤な渦が見える。なんだか足音がする。大きな波が足を繋がれているんだ。ずしりずしり。バルコニーのクモの糸が数珠玉になって粒が金色に光っている。例えば色々な概念や物語や登場人物のセリフが頭に浮かぶのに、それがあるのかどうか分からない、顔の無い庶民が引っ込む、またかと落胆する、もうそういうループ、続けられる気がしない一瞬の夢、それと同様に夢の中で遭遇する出来事の意味や人物が問いかけるものが何なのかも分からない。

 

そこは豪邸で最初はホテルかと思っていた、友達の家がそうだった、固定資産税という概念を知らなかった、そういう状態で生きていく術を知らない、ガチョウと蝋燭で窓を飾らないこと、その手前で踏みとどまる必要がある、論理的帰結に逆らう、論理を否定することなく物語を紡いでいくほかない。すると意識だけで「誰か」との会話が凄まじい勢いで始まり意識的に終了できなくなる。キチガイだと思ってDSMにハメようとする精神科医との会話。

 

「そうは言いますけどパトグラフィーに従えば歴史上の天才はみんなキチガイですか、イエスもブッダも幻視幻聴を伴った分裂病、またはDSMシゾイドでありスキゾタイパルと言いますが、煩悩即菩提、狂気は天才の勲章であり・・・」

 

「違うよ、君、君は病気、重症だ。君は社会的存在じゃない。DSMの人格障害で言えば自己愛型と強迫性を中核として、境界性、反社会性、シゾイド、スキゾタイパル、妄想性、演技性、回避性・・・」

 

「違う、先生天才というのは・・・」

 

その会話の饒舌ぶりは圧巻で、思わず見とれてしまって目の前にある屋根裏の噛み煙草の吐き汁そっくりの色合いの壁が白昼夢のように霧の中に消え、会話だけが唯一の存在となって疾走し回転する。知らず知らずのうちに会話に合わせて頷き笑ったりする頃には脳幹の芯が疲弊する。

 

屋根裏を突き抜けるような世界意識、大宇宙の波動と周波数が同調して感応し、閉じ込められた魂が屋根裏を抜けて世界と一体化する絶頂間に喜悦して鳥肌を立てる。ある夜、頭の方から霊魂が5秒ばかり抜け出して空中を一回転し足から元に戻るまで、天井に浮かんでいる間に下にいる自分の寝姿を見た。

 

現世に深い嫌悪を感じている。しかし、芸術の女神ミューズに全く見離されており、ミューズの方からの招きを何も感じない。全力をつくして創作に向おうとするが、自分を最善のものに向わせる力は、自らの理性と精神であって、ミューズの霊の働きではない。自分のまわりのものに執着のなくなった今、もし以前と同じようにインスピレーションを感じることができるなら、どのようなことも可能だ。

 

芸術の神、文芸の神、哲学者および識者の神ならず。確実、確実、感情、歓喜、平和。芸術の神。わが神、すなわち汝らの神。汝の神はわが神とならん。神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。人の魂の偉大さ。正しき母よ、げに世は汝を知らず、されどわれは汝を知れり。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。われ神より離れおりぬ。生ける水の源なるわれを捨てたり。わが神、われを見捨てたもうや。