行方不明の象を探して。その173。

象はこれは分かっているのか。つまりは作品は作者の属性ではなくて、作者こそむしろ属性であって、作品という関数を決定する一つの変数以上のものではないということを。象が自分とか恐らく他の作家志望に対して「破滅するな」と警告しているのは、やりがちな作者の実存投影やプライベート小説に対する警告なのではないか。もしくは実存の投影に加えて作品の周辺に自分の素顔をのぞかせたりするとか。それだったら分かる。絶対そんなことはしない。

 

そんなことをしないんだから書いてもいいんじゃないかと思う。象はなんと言うだろうか?もしくは経済的なことなのか。文学で食える時代は終わっているし、出版自体が斜陽だということを知らせたいのか。でもそれは周知の事実だと思う。少なくとも作者が属性であるということよりかはよっぽど自明だ。

 

もちろん作品を一つの存在たらしめることに成功しているわけではないし、やろうとしていて何も書けないままでいる。でも地雷を踏むつもりは全くないし、地雷は踏まないだろうという自負がある。それでも象は話を否定するだろうか。

 

俺が象を最初に見たのは渋谷のデパートの七階レストランで食事をしているときだった。俺は窓際の席に座り、見るともなしに街を見下ろしていた。それは視界の端、眼下の渋谷の雑踏に唐突に現れた。人間と思ったのは束の間、よく見るとそれは、何だかよくわからない白い象だった。そいつは雑踏の中でやけに目立っていた。そりゃそうだ。象だもの。俺は硝子越しに、その純白な存在を目にとめると、もう目を離すことができなかった。ファンになりそうだった。

 

ソファに深々と体を沈めて、テレビのスイッチを入れる。新人歌手の歌声が流れ出した。東京でもこの時間帯同じ番組をやっている。ウィスキーを一口すすった。俺は、今までの経緯をもう一度頭の中で追った。もし今後書くことについて何の手がかりも得られなければ全ては暗礁に乗り上げることになる。しかし、逆に考えれば、そのほうがいいのだ。なんの手がかりも得られないとは、つまり、書かないということだから。俺はテーブルの上に足を投げ出した。果たして、オレは何を待っているのだ?象なのは分かっている。でもこれが永遠と続くのかと思うとまた映画でも見に行こうと思った。

 

ベッドの端から、長い壁の一角にあるフリーザーまで歩き始めた。そのフリーザーのいくつかの棚には、眠っているLEDが散りばめられたマルチコンポーネントステレオシステムが置かれていた。そこで、なぜこのようなことが起こるのだろうと考え始めた。なぜリサイクルに夢中になり、同じ話を何度も何度もするようになったのか。

 

枕に心臓を押し付けて、身体をこわばらせて雨の音を聞いていたら、ノイズキャンセリングヘッドフォンで雨の音のループを聴いているときと現実の雨の音がダブって聞こえて、リアルタイムに流れている音が一秒ぐらい遅れて聞こえるような感じがした。

 

「パラパラパラ」

 

という大雨でも小雨でもない雨の音に個性はない。しかしその連続性が遅れているように感じられる。あの女と出会ったのもこんな雨の日だった。雨の音を聞きながらいつ果てるともしれず抱き合った。永久運動のようなセックスを思い出したからだ。窓もカーテンも閉め切って、明かりを消して、時間を止めて、相手の皮膚の匂いと雨の音だけを感じて抱き合っていると、海の底にいるようなきがしてくる。花びらを一枚一枚毟り取っていき、最後に残った花芯をゆっくりと味わい尽くし、そして溶ける。

 

相手の皮膚と自分の皮膚の区別がつかなくなる。それが今聞いている雨の音とシンクロする。遅れた連続性の感覚。でもだとしたらどこにいるのだろう?一秒時間が遅れているのか、音を聞いているときに1秒だけずれるのか、でも音が止むことはないから。音を聞いているときにだけ1秒ずれるということはありえないはずだ。連続性には断絶が無い。でもその断絶の中にいる。しかしそれは一秒時間をおいて連続性に取り込まれていく。

 

彼はおとなしいのだ、とてもおとなしい、彼女も彼に満足しているのではありませんか?このことは、目指すところが目的地をもたないことであったということをもってしても説明されえない。

 

それは世界観や観念を消し去ることではなく、もう一歩進んで世界観を包含する能動的な神の前に出ること、宗教的な神ではない惟神の道を歩むということ、煩悩即菩薩、白蓮は泥の中に咲く、キリスト教なら大審問官の無言のキスや放蕩息子の例え、道教の道や聖人、神人、至人のトリアーデ、ギリシャ精神のピュシスやディオニュソス。それ以外には生の原動力はありえない。

 

この果てもなく伝わっていく創造のざわめきが周りに起こりはじめると、あの針の先端にそそりたつか細い一点へするすると化していくその自身が見え始める。それは自身が無限の縮小感覚と呼んでいる瞬間だ。みなさん、天才よ、天才の参加する部分なのよ、みなさん……そしてあの軋むような含み笑い、それははっきりと見えている。

 

巨大な口を開いてその内部が眩しい白銀色に輝いている道の遥か底知れない彼方にぽつんと覗かれるか細い一点へまで一歩一歩踏み下りていく果てもなく微細な自身がはっきり見える。それは既に親しい宇宙的な気配であり、彼女が言っていたどこからくるのか分からないエネルギーそのものだ。

 

宇宙の側からの能動的なエネルギーと分霊としての人の大いなる融合の至福な時、つまり惟神だ。それはつまりはピュシスだ。近代以前の人を包含する能動的自然、ポストモダニズムが目指し挫折した遥かな境地。世界感は理性、観念の完成体だ。もはや世界は精神と言う万能の刃によって隅々まで自由に満たされる。ピュシス、随神、煩悩即菩提とは世界否定ではない。

 

彼の周りでみんながそわそわする……なにが起こったんだ?かれがすっかりしょげてるじゃないか、だしぬけに陰気になって、少し硬直して、彼の目つきは虚ろだ、……彼らは彼をゆさぶる、彼を蘇生させようとする、彼のほっぺたを叩いてみる、彼の口に息を吹き込む。「しかしそれはまさに彼の天才があるからですよ。君の本は立派なもんだ、その本質的なものをちゃんと含んでいる、ほんとなんだ、僕は大いに本気でそう言っているんだよ」

 

理性、精神を肯定しつつ、かつそれを自然の1モーメントとして分霊として寵愛し、その上で宇宙の大いなる流れ、永劫の回転に引きずり込むことだ。観念を単純に否定、反省したのではない。観念さえも宇宙の分霊と悟ったのだ。煩悩即菩薩、つまり悩む者、考える物、狂った思想や激しい煩悩こそがより無垢な悟りに至りやすいということだ。

 

ドアを開け、玄関脇のスイッチをONにすると、二十畳ほどのリビングルームが百ワットの電球に照らされた。壁紙から、床の絨毯、四人掛けのソファ、テレビ、ダイニングセットまで、室内のものは皆新しく、機能的に配置されていた。俺は靴を脱がないで上がった。こういうところはアメリカ帰りだ。

 

リビングルームに面してバルコニー、そして、二階と一階にそれぞれひとつずつ四畳半の和室があった。一人で泊まるには贅沢過ぎる広さだ。俺はレースのカーテンと一緒にガラス戸を開け、空気を入れかえた。期待を裏切るかのように、室内はまったく清潔に保たれている。