行方不明の象を探して。その174。

リビングルーム横の和室に入り、押し入れを開けた。何もない。俺は、シャツとスラックスを脱ぎ、ジャージとトレーナーに着替えた。そして、脱いだ物を押し入れに吊す。二階に上がり、和室の電灯をつける。気がつくと、部屋中の明かりという明かりを全て灯していた。充分に明るくした上で、今度はトイレのドアをそっと開け、中を確認し、細くドアを開けたままにしておく。

 

そして拳を握り締め、それから腕が下にさがる、手が開く、投げ捨てる、新しい紙を取る。ええおっしゃるとおりですよ。僕も全く同意見です。本質的なものというのはまさにその通り、天才の参加する部分です。やりなおす、タイプライターで、いつでもタイプで、パソコンは使わない、絶対に手でも書かない、手でかくのはマスだけで十分だ。

 

そうすれば彼女の中でなにかがぶるぶるっと震え身を起こすだろう、何かが逃げ出し、地中に隠れるだろう、それともまたねばねばした巨大なとぐろがゆっくりとほどけてゆく、読み直す、顔が左から右へと揺れ動く、唇が不満そうに突き出される。

 

左手を伸ばしてレールに巻き付ける、そのおかげで、杖を舗道に打ち付けることができる、掌に伝わるゴムの感触は、少し安心させた。角を曲がる前に再び曲がり足の続く限り座席の方へ急いだ。望めば杖で触れることができるほど座席の近くまで来たとき、彼は再び立ち止まって彼女を観察した。アンチエイジングの顔の筋肉の体操並の顔の筋力を使って全力の変顔、あんまりバリエーションはない。

 

手を使えば変顔の種類は増える、変顔をすることが目的ではないので手は使わない、顔の形が変わることで耳が「しょんるぃーしょんるぃーうぅー」みたいな空気の音がする、こういうことをやっている間にも何か書けばいいのになと思う、彼は立って路面電車を待つ、彼らもまた路面電車を待っていたのだろう、多くの路面電車が、外から、あるいは中から要求されたときにここで停車する。

 

彼はしばらくしてもし彼らが路面電車を待っているのならしばらくそうしていたのだろうと思った。彼女は紳士の耳をつかみ紳士の手は婦人の太ももに乗り婦人の舌は紳士の口に入っていた、やっぱりダメだ、また今度も。紙を引きずり出す。くしゃくしゃにする。捨てる。そんな風にして三回も四回も十回もやり直す。また白紙をセットする。

 

くしゃくしゃにした紙は捨てないでメモ用紙代わりにしようと思ってとってある、路面電車を待つのに疲れた二人は知り合いになった、偶然の出会い、偶然の友情が芽生えることもある、恋愛然り、彼女が舌を紳士の口から離すと紳士は自分の舌を彼女の口に入れた、メモをするようなことが無いので、くしゃくしゃの紙は増える、

 

金曜の夜でもないのに酒場は混んでいる。そして金曜日でもないのに薫がそこへ顔を見せたのは、十日ほど東京を留守にするからだった。

 

「あれ、珍しいね」

 

と、カウンターの中からマスターが言った。マスターの細部を見る。俯瞰する。それはどちらもあたしの目ではない。あたしは見ることはできる。でも見たものを記録するという作業に入った途端、それがあたしではなくなってしまう。

 

「金曜の薫ちゃんが木曜の夜現れるのは、曜日まちがえたんじゃないの?」

 

「今週と来週、これないから」

 

薫はカウンターの空いている椅子に、常連に取り囲まれて坐すわりながら言った。あたしは見ている状態をそのまま、あたしが知りえない方法で具体的に浮かび上がらせたい。いつからこんなことを考えるようになったのか。思い出そうとしても無理な話だわ。生まれる前からそうだったんだもの。見る身内の前にも知覚する方法は無数にあったはずだわ。

 

「また仕事で海外?」

 

映画雑誌を作っている男が訊きいた。

 

「仕事じゃないの。休養」

 

「へえ、十日も。贅沢だな」

 

「だってこの二、三年働きづめだもの。死んじゃうわよ」

 

「今や薫ちゃん売れっ子だもんな」

 

とマスター。こうやってマスターは仕事をしながら生まれる前に聞いたことがある音が耳に入ってくることが実際にあったりした。こんな慣れもしない場所で慣れ親しんだ音を聞くのだから音というものは人のことを考えているのではないか。

 

「現在レギュラー何本かかえてるの?」

 

と、映画雑誌の編集者。編集者は仕事が終わった後、バーに行く予定だった。急遽、仕事が入り来れないかと思っていたのだが、来れたので良かった割に相変わらず生産的じゃないことばかりバーで喋っていることにうんざりしていた。

 

「週刊誌が二本と、月刊誌がエッセイなんか入れて七つ、八つあるんじゃないのかな」

 

おしぼりで手をふきながら薫が答えた。薫は夜に外出することはほとんどなかった。このときだけは無線の声が耳に入って来て、薫は一緒に歩きながら腹が減っていることを知った。それだったらファミレスかレストランに入ればいいのにバーに行った。

 

「若いのによくやるよな」

 

「若いからやれるのよ」

 

と言って彼女は日本酒のオン・ザ・ロックを注文した。日本酒でロックってバカじゃないのか?ウィスキーですらもロックなんて邪道だ。ストレート・ノー・チェイサーだろう。俺はウィスキーをラッパ飲みする。あんな水みたいなものをさらにロックで薄めるなんて考えられない。

 

「だけどそれだけのノルマかかえて、よく十日も休みとれたよね」

 

マスターがちょこちょこと酒の肴を薫の前に並べながら言った。マスターは

 

「崩壊は定期的に起きていて、時間を測ればほぼ二時間ごとに起きている」

 

と言った。

 

「書きだめよ、死にもの狂い。見て、三キロも瘦やせちゃった」

 

書き溜め悪魔の薫の赤らんだ蕾を見つけたなら 、その時、魂は暗く燃え上がった、もっと頻繁にタイプライターに向かっていたらくしゃくしゃの紙が膨大な量になる、いかにタイプライターに向かっていないかがよく分かる、唇に皺を寄せる、眉をしかめる、ユーモアのセンスも失せた、腕を伸ばしその腕を折り曲げ下におろす。こぶしを握り締める。作家ごっこ。作家が何かを書くときに変顔をして今の自分のような動作をしているとは到底思えない。