行方不明の象を探して。その175。

暗い庭に落ちている梯子から目をそらし視線は畑と低くよろめく壁、小川を渡ってさらに斜面を登り、すでに影になっている断崖と夏の空へと下りて行った。小さな陽のあたる畑とともに滑り落ち、暗い断崖に向かう山裾を苦労して登り、そこでは遠くから金槌の音が聞こえた。

 

通りの向こう側、彼らが座っている場所の反対側で路面電車が停まった。しばらく停車したままで、車掌が怒ったような声を上げたのが聞こえた。そして歩道の上に動きのない孤独な人影が現れた。それが男なのか女なのかよくわからなかった。それが小包でないことを確信できなかった。例えばカーペットや暗い紙で包まれ中央を紐で縛られた防水シートの巻物であることを確信できなかった。彼は何も言わずに立ち上がり、素早く通りを横切った

 

「ええそりゃあもちろん……」

 

「いずれにせよ我々は……」

 

どれぐらいの文字数が必要なんだろうか、無理だとは思わないのよ。無理って思った時点で無理だから、そして彼が身を引く暇のないうちに、あのだしぬけの弛緩

 

「いずれにしろあたしたちは少なくともけいけんしたということになるわね」

 

結果的にそんなのができてみーや、混沌やで、人間の世界と同じや、といっても秩序があって人が殺し合うなんてことはない、俯瞰してみれば世界ってカオスでしょう、あっという間に、巨大な輪がくるくる巻かれる、それが彼を締め上げる、そいつを出版するのにいくら払わされたんだ?ラブホでセックスしているカップルがピロートークしている2ブロック先のマンションでは夫婦が喧嘩している、ラプラスの魔の小説バージョン、聊か厳密性に欠けますがね、概念の、でも実際そうでしょう、半ズボンを履いた男の子。

 

「どこへ行くんです?お父様はお仕事中だってことを知ってるでしょ。頭がどうかしたの?」

 

小説だからっていって他の場所で何も起こっていないわけじゃない、カメラがただ世界中で何かが起こっている中の一つを切り取っているに過ぎなくて。腕は継ぎ手のついた金属の軸棒みたいに伸びたり折れ曲がったりする、放蕩息子が父親の間へやってきてひざまずいた、彼の許しを乞い、彼の祝福を待ち、結局のところ、また引きずり出す。

 

くしゃくしゃにする、投げ捨てる、軸棒がのしかかりはめ込まれる、部屋は大きい、部屋は冷たい、冷たいやり方で暖かい、繰り返されるしぐさが刻み込まれる、あぁぁぁ・・・って感じが来そうになったら変顔をする、部屋は暗い、魔のものは愉快なものや笑いが嫌いだというので、闇に飲まれそうなときに変顔をするのは悪くない厄除けだと思う、黒い家具が部屋を暗くしている、どっしりとした黒い家具は部屋を狭くはしない、部屋を山脈にする、もちろんタイプライターの前に座っている時にくる、あああぁぁぁって感じの間は作り出した魔なのでかき消すことができる、どっしりとした黒い家具は宣戦を作る、戸棚はテーブルを脅し、テーブルは椅子に角突く、どっしりとした黒い家具は硬い黒く輝く木材からできた砦だ、自分を一端の何かだと思っていないし何も期待していない。何かが来るのを待つしかない。

 

がり勉屋の学習熱が発する酸っぱい臭気、想像力の欠落なのだろうか、いや、そうではない、想像力しかない、肉体だ、精神を持っている、だが、精神を失う、新しい紙を取り上げる、指がごそごそ動く、白い紙の上に単語の群れが、文が形を表してくるのを想像する。

 

退屈だ、他に何もやることがない、これほどの苦悩が・・・というほど悩んでもいない、腹が立つ、名前を知らないはずがない、名前があるのか?でも書けたら面白いだろう、小説家はどうやってあんなストーリーを思い浮かべて書き出すのだろう?どの餌を探しているか、知れたものじゃない、母は、将来に関して時折、特に幼いころ母の心に浮かんだ夢にはそぐわないにしても、ある存在にならせる、ある身分に滑り込ませるにやぶさかではなかった、登場人物が何十人もいるようなストーリーで軍部にはなんたらっつー色んなセクションがあって、そこに全く頭に入らない外国の名前の人間が一杯出てくる、なんたら部なんたらセクションの二課とかなんとか、いちいち覚えていられないものを、どうやって小説家は覚えているのだろう?母の記憶は記憶だから覚えている、階級意識がないこと、ある人々を見上げることも、別の人々を見下げることもなく、あらゆる可能な存在形式のなかに似合わないであろうか層をしか見ていないことを母は理解していなかったのだ。

 

雨が突然に降りだした。埃ほこりっぽいアスファルトに、黒い大きな染みがひとつ、またひとつときて、あとはいきなりだった。不思議で仕方なかった。どうせ誰にも理解できない。理解できていたらとっくに崩壊は止まっているはずだ。

 

またたくまに水びたしになった歩道に、激しい雨足が白い煙のような飛沫しぶきを上げた。薫は踝にまとわりつく水気にうんざりしながら、咄嗟に本屋の軒先に飛びこんだ。くだらない本ばかりが陳列されている。その国の民度を知りたければ本屋に行けって誰かが言ってなかったっけ?そういえば編集者の女は鎧戸の隙間から離れたとき薄暗がりのなかを学生が沼地のほうにう駆けてゆくのを見たらしい。

 

甘いようなカルキ臭があたり一面にたちこめ始めていた。都会の雨の匂いである。田舎では温かい土の少し生臭い匂いがする。薫は神田で両親と住んだ土地の雨の記憶を一瞬重ねた。神田は都会だ。矛盾している。

 

薫は途方に暮れて、魚市場を歩いた、メモを取りながらやればいいのだ思った、でもそんなことは全く解決にならない、なんたら公安部の二課の人間がやたら動くシーンがあったと思うと、新しい登場人物が出てきた途端に、なんたら公安部の二課の人間がいなくなったように物語に出てこなくなる、それは新しく出てきた人物の描写や展開に労力を費やしているからで、二課の人間の基盤はある程度描いてあるので書く必要が無いということなのかもしれないが、それではあまりに不自然だ、二課の人間だって新たな展開があろうがなかろうが何らかの活動や仕事や日常生活を送っているはずだ。

 

市場に面した古い建物は血を呼吸していた、妄想、空虚な白昼夢、進歩、自由、認識、心理もしくはそうだと思われたものの為に、もちろん全てを描き切る必要なんてない、二課の人間が事件の最中にカップラーメンを食べている描写などはいらない、でもかといってではどこを描けばいいのか?というのが登場人物が多くなりすぎるとわけがわからなくなってしまう。

 

妄想など掴まされるのは嫌いなのだ、お世話になれば、なんでもします、もちろん何も書いたことがないので、これはあくまで推測だ、ただ歴史ものにしても戦争ものにしても、どうやってあんなディティールを描いているのか全く想像がつかない、始めに荒れ地と闇があった、地球は平べったい、栄光の羊水のなかを開店する見通しのきくお皿だったが、いまでは一つの球体、彼らは化け物だ、これについてはまた。

 

寝巻、仕事着、おお、何のゆえにか失望し、それ以外に仕方なかろうが、父の顔に自分の行く末を、自分が父のようになるのを見る時、恐怖に襲われる、父は目を覆い、考える、子供たちから、二十年、三十年と黄昏に向かって、だったら優美とアキラちゃんだけでもいいわけか、もしくは彼女か彼でもいいわけだ、象でもいい、でも良くない気がしてくる、それを考えた時点で壮大なスペクタクルロマンやハリウッドスケールの大掛かりな大作が浮かんでしまう、ジャスミンに野生の葡萄、被造物のくるみぶとんにくるまれる、我らがか弱く老いた手はそれでも決然と救いの立ち机にしがみつく、それは物語が浮かぶのではなくてその絵が浮かんでしまって「ああ・・・3人じゃダメだ」などと思ってしまう、優美とアキラちゃんと象だけで海外の麻薬カルテルとの戦争を描くのは不可能だ。