行方不明の象を探して。その176。

歩道も車道も閑散としている。日中、あんなにもたくさんの人間が右往左往していた同じ通りとは思えない。おまけに人間の数が多い。それにしても一番異様だったのは、同じ幻影たちのもとへと無理にでも連れ戻そうとするあの強迫観念的な執拗さで、数か月おきにあちこちで交わされる会話のなかで呼び醒まされる幻影たちは、もう二度と忘れられないように完全な肉体を欲しがっていて、ようは人形でいるだけではもう飽き足らずに生きた人間になりたがっていたのだけれど、その代償として人口密度が高い上に、観光客が世界中から押しかけてきて、時刻は真夜中の零時前。繁華街のネオンサインの半分は消えている。だが、それでも異国的なけばけばしさがあると、哲夫は思った。彼はもう一度メモに書かれた走り書きのアドレスを眺めた。

 

時としてそんな主張をしてみることもあったのだが、それは正しくなかった。彼は彼女と同じように純粋だ、無邪気だ、うぬぼれてなんかいない、みえっぱりではない、彼女があの信頼に満ちた、行為に満ちた、優しい目つきで彼を安心させてくれるはずだ、彼の頭に、あの柔らかくて強い保護者の手を載せてくれるはずだ、ええ、もちろんよ、あなたのことはわかってますよ、あれはただの不器用なへま、そそっかしい失策よ、理解できるわ、あたしはあんなものを勘定に入れません、心配しなくてもいいのよ、さあさ、許してあげます、あたしはやっぱりあなたが好きですよね、ね、あたしのかわいい天使、あたしのおちびさん、あら、みなさん、それは天才の参加する部分よ、そしてあの口調、彼女のせかせかした笑い声のあの素っ気ない響き、それが彼の全身を走り抜けた。

 

至高の裂け目からただ垣間見られただけのものは休みなくまた仲介もなしに無からすべてに向かう運動があること、無からすべての推移、事件としての絶対の肯定、絶対としての各事件の肯定、それはまた同じぐらいの純粋な要求、自分がなすすべてのことは絶対的な価値、なにかしらの望ましく尊敬すべきある目的と関連あるような行動ではなくて、最後の目的、最後の行為であるという次第に細くなる筋肉という水準で目覚める瞬間に注意し、朝方のある時刻を待っている思考、一方その思考はここにある、折りたたまれ、不在で、裏返しにされ、終焉の中にまで引きのばされて、次いで非常に速く、寒さと雨、やがて宇宙からのニュースが届き、拡大され、手に触れるわけにはいかない物質や、円を描く光の中で目隠しされている各人は他の場所も明日も労働も作品も知らない普遍的な自由を知ることができない。

 

とりあえず休憩でもしてから考えよう。辺りを見回すと古びた商店が目に止まった。店の中を覗き込むと中年女性の店員が一人、レジの奥に座っている。スポーツドリンクを取ってレジに向かうと店員はよろよろと立ち上がった。いつもスポーツドリンクを買う時に思うのだが、特に夏場は外でしょっちゅう清涼飲料水の類を買うことになる。だったら出かける前にペットボトルに清涼飲料水が砂粒になったものを入れて持ち歩けばコスパが良いではないか。でもそれだと持ちものが重くなるし、そんな貧乏くさい真似までして荷物が重くなって、しかも夏場に荷物が重いだなんて最悪だから、結局、こうやって外で買うことになる。それにしても廃墟かと思うような見た目の商店だ。

 

僕は小銭を渡しながら話しかけた。意味もなく少し緊張した。どうやら通り過ぎてはいなかったらしい。釣銭を受け取りながらついでとばかりに聞いてみた。色々と店員は話してくれたが、愛子から聞いた評判とほとんど同じだった。なかなかの好人物であることは間違いないようだった。僕は岡本について気になっていることを聞いてみた。すると店員はニヤリと笑った。

 

店員の言葉の中に辛抱強い緻密な言語があり、そのなかに入り込んでいた枠は現に展開されつつある何十倍もの物語を考えただけで、もはや到底満たし得なくなるものであり、暴力もなく、恐怖もなく、命令を下す、あるいは命令を受ける辱めを受けた人間もまったくなかった。ひょっとすると夜中にも月明かりを浴びて行われたこと、しかし、夜中に窓際によることは敢えてしなかっただろう。だか神は憐れんでくださった。神はやつらを連れ去ってくださった。

 

朝が立ち並ぶベッドの列のうえに這うように冷たく広がる様が伝達され、二重の機能に到達することができず、吸い込まれた空気に触れて流れる血液や神経にまで到達できない。あの重々しい黒いきらめき、日々の無色のきらめきをもって、あるいは節度もなく浪費される力をもって突然立ち現れる世界となった自由の肯定的面が、革命の中で自己を認識する契機を与える。文学が歴史になるとき革命は引き付ける。革命が真実である。

 

書くというまさにそのことによって「俺は革命だ、自由だけが俺に書かせるのだ」と考えるようにならないすべての作家は実際に書いていない。ペンの下から語を取り去り言葉を断ち切る。この至高の瞬間に対する支配、至高の支配。この円環の中で各人がそれぞれ自分の物語と称するものを生きていると信じ込み、同じ騒音の中をしばらく他の連中とともに漂い、時々の流行にしたがって身を飾り、その時代が分かり切ったこと、否定しようにも否定しがたいこととしているものを信じ、その時代の創作物に身を置き、つまるところ盛んに消費し、それは執拗で享楽的な幼虫のようなものであり、それが動くのは自分のためだと思い込んでおり、動きだけでなく夢も内面の収縮された夢も全て自分のやめだとしんじこんでいるかのように。

 

なにかのスイッチを踏んでしまったのかもしれない。店員はマシンガンのように喋り続けている。さえぎろうとするきっかけすら掴めない。そわそわしながら店内の時計に目を動かす。客がほとんどこないのだろう。ほとんどというかゼロなのだろう。喋ってくる客なんてのが珍しいから永遠と喋っているのだろうな、この店員は。それにしても異様な喋り方だ。何かに憑依されているような異様さを感じた。

 

その異様なものは、見られ出会われあいさつされ呼ばれ描写されることが能力となり形態である物体、一個の美しい物体であるあの美しい形態となるような経験は、それが自らの方へ引き寄せたのではないような何ものをもなさず何ものをでもないことを要求する。

 

空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して、その光景を上空から捉えているという想像をする。広い視野の中では都市はひとつの巨大な生き物に見える。あるいはいくつもの生命体がからみあって作り上げたひとつの集合体のように見える。無数の血管がとらえどころのない身体の末端にまで延び血を循環させ休みなく細胞を入れ替えている。

 

新しい情報を送り古い情報を回収する。新しい消費を送り古い消費を回収する。新しい矛盾を送り古い矛盾を回収する。身体は脈拍のリズムにあわせていたるところで点滅し、発熱しうごめいている。時刻は真夜中近く、活動のピークが超えたおかげで諸活動から発せられる磁気や磁場のようなものに影響を受けずにクリーンな状態で全てを感じることができる。声明を維持するための基礎代謝は衰えることなく続いている。都市の発するうなりは通俗低温としてそこにある。

 

目線はとりわけ光の集中した一角を選び焦点を合わせる。そのポイントに向けて静かに降下していく。色とりどりのネオンの海だ。繁華街と呼ばれる地域。ビルの壁面に取りつけられられたいくつもの巨大なデジタル・スクリーンは真夜中を境に沈黙に入るが、店頭のスピーカーはまだ現代音楽の誇張された無音をひるむことなくたたき出している。若者たちで込み合ったであろうゲームセンター。今は街で見かけることは難しい。派手な電子音。これは街に流れる電子音楽かな?

 

岡本心療内科にたどり着くにはやっぱり大変だなと思った。そこに入ってみようとしても途方もない大きさで、とりあえず見た目でビビる。だから海辺ではじめてみる。腰を降ろしている。プライベートではそういう趣味はないけど、創作のためだから仕方がない。犬を散歩してる人、ランニングをしている人、あとどういう人がいたっけ?海の近くに住んでいるのに海に行かないから思い浮かばない。

 

とりあえず何か呟いている。最初は何も存在していないんだから何か語らなきゃいけないだろう。視界の中に何かが生まれるのを待ったり、妄想と現実を一切区別しないようにする。あとは妄想っていうとあれだな、興奮はしないけど凄いことになりそうだなって思うのを海を見ながら考えてみよう。不思議の国のアリスに出てくる「ミーをお食べ」クッキーを食べて身体が大きくなったり小さくなったりする。小さくなるのはドリンクだったっけ?まぁいいや。小さくなるほうを選ぼう。