行方不明の象を探して。その177。

それを居酒屋でブーツにタイツを履いている女性を見つけて小さくなってブーツの中で匂いに囲まれながらオナニーしたらどうなるのか?どうなるもこうなるもオナニーだろう。あと消えたりね。透明人間になった場合、大体人が考えるのは二つだと思う。一つはお金ね。ただ良識がある人だったら特定の人間が被害を被らないようなねずみ小僧的なお金の盗み方をするんじゃないですかね。悪党から金を巻き上げられれば一番いいですよね。

 

もう一つはエロに決まってるよね。裸だけで興奮するんだったらシャワーを浴びているところに侵入したり、そういうのを盗撮している人がいると「変態だ!」なんて言うけど、あんなもんみんな男だったら考えそうなものですよ。でも自分はそれぐらいだとさっぱり興奮しないので、

 

前に言ったように家に侵入して目当ての女の子のスニーカーかブーツを嗅ぎながらオナニーすると思うけど、家っていう要素が入ってくると例の性癖が発動しちゃうなぁ。家に興奮するっていう例のやつね。ディティールを見れば見るほどちんちんがギンギンになってきて家とファックしてるような気分になって目当ての女の子のスニーカーとかブーツはもうどうでもよくなってる。

 

ダメだな。透明になったらって言ってまぁ意外な行動をしてさ、そこで意外なストーリー展開があるとかっていうのはストーリーの妙みたいなもんだよね。透明人間だったら普通こうやるのにスーパーマン的な活躍をするんだ?みたいな。興味ないな。

 

ところで有名な逆説に「水槽の脳」というものがあるよね。培養液に浸つけた脳の神経組織に電極をつなぎ、視覚や聴覚や触覚といった、すべての感覚の刺激を与える。電極はコンピューターにつながっていて、培養液のなかの脳にあたかも現実の世界を生きているような幻覚を見せることができる。

 

つまりバーチャルリアリティ。われわれが生きていると思っているこの世界は、実はそうした実験が作りだしたもので、実際には脳が水槽に浮かんでいるだけかもしれない。もしそうでないとしたら、どうすれば、それを証明できるだろうか。この日街から到着した僕はつい先ほど部屋に踏み入れたところだった。青味が買った凍てつく冬の天気に路上では泥が固まりカラスたちが鳴きながら飛び立つ、ちょうど夜の闇が下りてくる時間だったので鎧戸を開けずに暖炉に火をつけて机に座った僕は古ぼけた本を手によってぱらぱら眺め、それから感覚が鈍麻するにまかせて頭を腕の窪みにうずめて眠りに落ちた。

 

というのが「水槽の脳」だが、そんな馬鹿げたことがあるはずがないと感じる方も多いだろう。といって、きっぱり否定できないのは、われわれがみずからの認識を離れられないせいである。みずからの認識を離れられないがゆえに否定しがたいというのは、怪異もおなじである。

 

いかに荒唐無稽な怪異であっても、当人にとってあるものは、あるといわざるを得ない。番人を自称する隣人の男がろくに言葉の意味も知らぬまま主人の流布を見張っていて、その彼がいつものように見回りをしているとふいに鎧戸の隙間から漏れる僅かな光に気づいたのだが、なぜか様子を見に行くこともなく、せいぜい百メートルくらい離れたところにある自分の家に戻り、主人が様子見にやって来たぞと妻に告げる。

 

というのが「水槽の脳」だが、そんな馬鹿げたことがあるはずがないと感じる方も多いだろう。しょせん人間はあらゆる事象を個でしか認識できない。他者がいくら否定したところで、それを認識するのも、また個である。個から離れた視点で俯ふ瞰かんできない限り、「水槽の脳」にせよさまざまな怪異にせよないと断じることは困難だろう。

 

言葉を掴むやつ、タイプライターの前で、でもつかめたところでそれをどう表現するのか?という問題があって、ストーリーとか意味とかが嫌いだから、そういうのにしたくない、書けている理由、素敵なママと寛大な父のおかげで、放蕩息子を野に放たない勇気を持つ両親、恵まれた環境、ずば抜けた人格、偉大な両親、散文詩みたいにすると全然俺っぽくならない、大気と大地と海とのつながりを持つ、とかね、無理だわ、ただコピーするのはありだし。一回やってみるのはいいんだけど飽きるんだよね、スタイルがもう飽きる、椅子を運ぶ神谷にぶつかった、転んで、帽子やバッグが散乱した。

 

神谷は倒れなかったが、椅子を放した。椅子は傾いた縁の上にドンと倒れ、台座の上でガタガタと揺れ、ようやく立ち止まった。もし椅子が倒れていたら血はプラットホームに、さらにはレールの上にまで流れ出し、列車の下敷きになっていたかもしれない、距離とかをモノみたいに扱うとか?なんとかして前に進もうとする、それができない、再び僕は海から遠く逃げ去ろうとする、またしてものりこえがたい距離が吸い込んでしまう、とか。

 

その中に新聞販売店があった、本や定期刊行物の暖かい巣からすべてを見てきた、しかし、最高の時間が過ぎた今、夜のために、自分の屋台を閉じるつもりで、プラットホームに出てきた、比喩とかの場合、言葉との格闘なんでしょ?いつも以上に辛辣な人物で絶え間ない精神的、道徳的、そしておそらく肉体的苦痛に悩まされているように見えた、「そんなの古い古い」ってことになるわけさ、おそらく、雪のように白い額と湿った黒い巻き毛の上に乗っているため、彼の帽子が目についたのだろう、もしくはそういう比喩とかをあれかな、リリカルな感じにしないで、俺好みの武骨な感じに変換するとか?

 

線はいつも最後に不機嫌そうな口元に集まり、そこから他の部分に向かう、そのすぐ後で彼は扉を探してその部屋を離れ、明るい照明のついた大きな部屋に入った、その部屋は今は離れた部屋とはすっかり違っていた、天井に書けたシャンデリアから発する光が実に明るく輝いているので、それを照らされたものはなんでも実際に貴重なものであるように思えるほどだった、彼の口ひげはそれ自体はハンサムだがよくわからない理由で重要視されていない、言葉の世界をやめるとか?

 

しかし人は彼のことをとりわけ鍔とつまみのついた無地の青い布の帽子を脱がない男だと思った、形容するとリリカルにならざるを得ない、そうすると中年オヤジの痛いポエムみたいになってまう、明るい光沢を見せたビロード張りの長椅子が一つ、まともに光を受けていたが、その外には椅子と小テーブルが一つずつ照らし出されている以外は、部屋の全てが薄暗がりに沈んだままだった。残した足跡の上に波が投げかけられた、それは互いに押し合い消し合う、数えきれないほどの系列の中からやっとそれは現れる、でも「それ」の多用もどうかと思う、思わせぶりの「それ」って一体何なの?、でもまぁitってことなんだよね、それとしかいいようがない。

 

エレガントで豊かな感じがあらゆるものの上に広がっていた、絵画で表現してみるとか?でも絵って大変なんですよ、カンヴァスの載った巨大な画架が部屋を二つに仕切り、部屋の中央に大きなバリケードを作っているあらゆる種類の腰掛や道具類の堆積をどうやったら乗り越えられるのだろうかと考えた。

 

こうした無秩序と野蛮の痕をとどめていたにも関わらずこの部屋には豊かさの印象も残っていた、屋根裏に行って例のアレをすると疲れるんだけど、言葉と仲良くなれるでしょ、僕は時間を空費したりしませんでしたよ、かといってもそれは言葉をキャッチできるってことじゃないし、もうひとりのバルザック、それが出版されることになっている、手なずけるなんていうことでもない、仲良くなれば協力し合えるみたいなものでもない、調書ってのはまさしく、文法に気を遣わないってことにあるんだからな、そんなのは無用の気兼ね、絵の具の分厚い層をいくつも重ねた中に何かの象の断片を緻密にまた気持ちよく描いてあるのを見せる、見た夢をそのままストーリーにする、ストーリーが嫌だから描写だけしてみようか、いやぁ酷い悪夢だったのだよね。

 

そこで仕事をしていた人間の任務が絵を描くことではなく、仕事道具を腐敗させ、自分のまわりに無用の悪い背景をつくりあげることであったとでもいったらいいのか、なにか恋に破壊したものに向き合っている感じだった、長髪で防護マスクをしている人間が小型潜水艦みたいなので潜入する先、それが人間なのか何なのか何かしらの腸、臭い、夢なのに臭い、この造作のなかにはなんという富が浪費されていることだろう。

 

だってエッチするときだってそうでしょう?愛が深まった時、手を握り合うと凄く感じあえる気がするでしょう?あれがただの心理的効果だけだと思う?違うわよね、エネルギー交換をしているのよね、手から出ている愛のオーラを寄せ合って愛し合うの、そうやって子供が生まれてくるって思うとロマンティックよね、だから子供に「お母さん、子供ってどうやって生まれてくるの?」って聞かれたら「お父さんとお母さんがこうやってね、手を取り合って淳ちゃんが生まれてきますようにーってお願いしたら淳ちゃんの魂がお母さんのお腹に宿るのよ」