行方不明の象を探して。その180。

相変わらずの薄暗い部屋で僕が執筆のために腰を下ろしたとき、期待に満ちた空気に包まれたのもつかの間、ペンは手の中で震え、ためらいがちに、まるでその言葉が背負おうとしている重みを自覚しているかのように、影のベールに包まれた計画が目の前に立ちはだかり、表現を求め続けた。

 

「なぜこのような予期せぬ不快感があるのだろう?」

 

と僕は考え、不安は重い霧のように立ち込めた。書くという行為は、かつては慰めであったが、今はその名残すらも残っていない。

 

「僕は自分が軽率な行為をしているのではないか?」

 

と思い、いつの間にかその言葉は部屋の静寂に響いた。心の奥底に隠された計画は、禁断の果実のように感じられた。その名前は神秘的な重みを持ち、僕の創作活動の本質を決定する存在だった。インクが紙に流れるにつれて、僕の思考は象の謎に絡め取られていった。

 

「象が近くにいるときはいつも、書くのを控えていた」

 

と僕は告白し、奇妙な共生を明らかにした。象の不在は、このプロジェクトに必要な条件であったが、僕は創作上の惰性に陥っていた。大体10万字ぐらい書くと書いている内容そのものに飽きてくる。その壁も惰性も超えて書き続け、100万字を超えたころになると、アイデアが枯渇し、もちろん、枯渇したなりにアイデアは浮かぶのだが、もうそれらはすでに自分の創作で散々やり尽くしたことの二番煎じになるので当然、そのアイデアを採用することはなくなる。

 

もしくは書いている途中に散々擦り続けたネタだと気がついて全てデリートすることがある。有名な小説家がどんな人間でも生涯に1本は小説を書けるものだと言っていた。その一本が今の僕のプロジェクトなのだろう。それ以上書ける人間だけが小説家になれるのだろうが、文学などという無用なもので生計を立てるなどということは、優れた作家ですらも難しくなっている昨今、僕のような人間が小説家としてやっていけるとは思えない。

 

そもそも僕は作家でもなんでもない。ただイメージを文章に射出している人間で、射出する衝動のみで動かされていると言っても過言ではない。だから射出の欲求が無くなると一気に書かなくなってしまう。かつてインスピレーションの光であった初期段階の創作イメージは、象の不在によってその魅力を失っていた。

 

「完全に色あせてしまった」

 

と僕は嘆き、その言葉には喪失感と混乱が刻み込まれていた。今、丸裸にされた計画は、当初その着想のきっかけとなったとらえどころのない存在を失って枯れてしまったかのようだった。象の本質、中心的な謎が俺の思考を悩ませた。

 

「書き始めてからずっと、象はいつも同じで、しかも初日以上に、俺にとっては未知の存在なのだ」

 

と俺は振り返り、見慣れた存在でありながらとらえどころのない人物という矛盾に取り組んでいた。俺はZZの本質を掘り下げる以外に道はないと思っていた。それは従来の分類を超えた存在を定義することのむなしさを認めるような行為だった。古今東西の小説を読み漁り、現代の娯楽小説や実験小説、難解な小説に至るまで全て読破した僕は、すでに文学に何の可能性も残されていないことを心から理解していた。少なくとも僕ぐらいの人間が何かを生み出せる領域ではないということは明らかだった。

 

「象は人間でも神でもない」

 

と僕は告白し、この世の理解を超えた複雑な関係を明らかにしようとした。象とのパイプ役である書くという行為は、綱であると同時に、実存的な疑問の源となった。

 

「書くことは象に依存している」

 

と僕は宣言し、僕の創作活動を決定づける紛れもない絆を強調した。象の存在そのものが深遠な疑問を投げかけ、僕を経験的証拠が曖昧な領域へと押しやり、最終的に象の存在は創造的インスピレーションの深みでのみ感じられた。象を理解するための探求は、単なる文学的な試みではなく、インスピレーションそのもののとらえどころのなさを深く探求するものとなった。

 

こういう独白を続けてもしょうがない。ただひたすら暗くなるだけだ。もっと明るいことをしよう。あ、急に思い出したので書く。十年くらい前の僕はこんな辛気臭い創作活動とは関係ない領域で、アニメキャラのフィギュアをメチャクチャ集めていた。四、五千円くらいのフィギュアを買い集めては自室の「フィギュア台」に陳列して鑑賞していたのだ。

 

コレクションを続けるうちに数万円の高額商品が欲しくなったのだが、なかなか手は出せない。どうしようかと思い悩んでいると、常連のフィギュアショップの近くに店の人が独自に値段を付けるというシステムの中古フィギュアショップが開店した。ためしに来店してみると、普通のお店なら数千円で売られている商品が数百円、ものによっては百円で売られていたので、僕はその店を「俺のための店だ」とかって思ったりした。

 

僕はハイテンションになってフィギュアを買いあさったが、左手を腰に当て、右手をまっすぐに垂らしている女の子のフィギュアを見た瞬間、僕は「絶対に買いたい!」という気持ちにとらわれた。値段は二千円程度と、この店の商品にしては高めだったが、僕はフィギュアを購入すると、自宅のフィギュア台のど真ん中に置いて飾った。

 

テレビがつけっぱなしだったことに気づいた。テレビでは野球中継が流れていた。あえてテレビを消さずにキッチンに行き、手鍋に牛乳を溶かし、ココアの粉を溶く。それを大ぶりのカップに空け作り置きのホイップ・クリームを浮かべる。食卓の前に座り、侵入した家の細部とメモをくれたコンビニの店員の女の子のことをひとつひとつ思い出しながらゆっくりとそれを飲む。

 

羽根を投げた女の子の目にも、量子の波は映らない。その顔には、ホイップクリームが押されている。外はまばゆいばかりの太陽が輝いている。左手のヒマワリの種と、反対側の山の青が、この鮮やかな黄色があとわずかであることを教えてくれるに過ぎない。足元の細い流れも、すっと落ちる簾の一段も、花の色を薄めることはない。

 

僕たちの姿は、一枚の白い紙に余白を染めるインクの染みであり、二人の姿だけを残して、ぼんやりと霞んで描いたような感じである。二人の服に色はなく、僕の頭の中では、色として形容できないような鮮やかさがくっきりと描き出されていたのである。

 

もちろん、描かれた色彩をくっきりと浮かび上がらせるために、この色で風景を塗ることが正しいのか間違っているのか、巧いのか下手なのかは、僕の判断に負えないところである。目の前の色彩に、量子の織物の姿がうっとりするほど美しく宿るとき、女の子が投げた羽根の先から、僕の足元でひらり、ひらりと、金と朱に染まる一条の線がある。それは煌々と目に飛び込んできて、沢の端の草むらに飛び込んだが、すぐに火が消えたように消えてしまった。

 

波の色は、海に抱かれた山々のどこでもそうであるように、僕の足元に近づくにつれ、青くなった。波の色が紺碧になり、あっという間に足元に近づいてくるのは、海を抱く山々のどこでもそうである。境内は広々としていて、陽光が燦々と降り注いでいる。境内はさほど広くはない。

 

渚は雪に覆われ、砂に結ばれ、岩に消え、その都度、音を立てているようだが、手遅れになるまで音は止むばかりである。僕は静かな心持ちで部屋の四方を見回した。天井には牡丹の花が紅白に咲き乱れ、真紅の影は切り刻まれたように散り散りにまとわりついて、夢の中の花畑を鮮やかに思い起こさせるのであった。夢はここに宿るだろう。

 

冷蔵庫から氷を取り出し、大きなグラスに大量のウィスキー・オン・ザ・ロックを作り、さらにそれをソーダ水で割った。そして椅子に戻りちびちびとそれを飲んだ。肴が欲しくなったので再度、冷蔵庫を覗いたら中身はあらかた空っぽになっていたので、スーパーに買い出しに行く必要があった。さっきコンビニに行ったときに冷蔵庫の中身を確認してついでに買い物をしてくればよかった。外に出るのが面倒過ぎる。

 

台所のテーブルに座ってチェイサー代わりのビールを飲みながら鉛筆でメモ用紙に買い物のリストを書き上げた。リストは一枚では足りなくなってしまい二枚になってしまった。いずれにしてもまだスーパーは開いてないから昼食を取り外出するついでに買い物することにした。

 

しかし、心にあったのは疑念であった。買い物に行こうとなんとなく抽象的に思っていた時の気分はなぜか、気の抜けたコカ・コーラの炭酸の如く霧散してしまっていた。時間に対してはもっと賢明であるべきで、現在のような必要性によって体が動かされるべきではない。ただしそれには条件があって、あくまで理論上に次元においてのみ可能であるということだ。実践でいかなる功を奏するのかが問題で、そこにはいつもある種の憂いも混じっている。

 

理論上ではほとんど完璧であったはずのものが、必要性によって、もしくは身体における惰性によって、この不可思議な優位、そしてどれほど足掻いても逃げ切れぬ優位に従ってしまうのである。微かな抵抗は心を揺れ動かし、玄関のドアノブを開けようとする手を退けた。愕然として、僕は稲妻に打たれて死んだ男のように玄関に立ち尽くしていた。

 

ふと、玄関の覗き穴に目を惹かれた。別に悪意があってのことではなく、非情な好奇心を満たそうというわけでもない、仮に覗いたところで見えるのは誰もいないアパートの廊下だ。しかし目を惹かれた覗き穴を覗かずにはいられなかった。そしてもろもろのひそやかな謎に思いを馳せた。

 

折々には相当空いた時間があるはずなのに、必要性に駆られるとこのように足が止まってしまう。玄関の近くにある青白い窓の前に立って、のっぺらぼうのレンガ壁を見ている。そのレンガ壁と言えばある種、無意識の、生気がないよそよそしさを感じさせるものがあり、しかしながらその主張は激しくて、どこから来たかも言おうとせず、身寄りがどこにいるかどうかも言わない。その生気なき傲慢は、その厳めしいよそよそしさのような趣と共に、ああした雰囲気にやられてしまう心の弱さを露呈させているかのようだった。

 

このような生活の単調さに精神が参ってくると、自身が被写体になっているような気がしてくる。本を読んでいて、それが実用書だろうが小説だろうが、一時的に自分の存在が何かと入れ替わる時にも、そういう気持ちになることが多い。それが心を乱し妨げる。中途半端に未読状態になっている本の山を見て、それが明らかに所産だと認識しながらも、被写体としてのそれを理解できないままでいる。被写体としての自身を見る風景が自身を遠近法で見せてくれる。

 

相変わらずというより改めて見ると酷く殺風景な部屋だと再認識する。遠近法モードになると必ず耳元で変な音が聞こえるようになって、例の気持ち悪さと存在自体のムカつきに嫌気がさしてくる。自分でいる場合、眺めることと付き合わないことにしているのにも関わらず、遠近法になると常に眺めるような感覚になってしまう。そこで出た遠近法からの問いに答えようものなら、判断する根拠のない返事をしたりすれば、存在自体への冒涜になるだろう。

 

それは個人ではなく存在への冒涜になるのである。これほどの不快を永遠と味わうということに何の意味があるのか?もしかしたら存在にとってのニュートラルさが不快さなんだろう。だからこういう神学的テーゼに行きつくことになる。我、不快、故に信ず。

 

思えば人間に見つかりそうになったゴキブリのように気配を殺しながら生きてきたように思う。こうやって部屋にいるときですら何かから気配を察せられまいとしている。そしていつものように、意識は視野の隅の方から順番に戻ってきた。最初に視野の右側にあるバスルームのドアと、左端にあるライト・スタンドが意識を捉え、やがてそれがだんだん内側へと移行して、まるで湖に氷が張るときのように真ん中で合流した。

 

視野のちょうど真ん中には目覚まし時計があって、その時計は8時32分を指していた。時間を見るたびに毎回、結局、今日も何もしないで終わったなという気持ちになる。その目覚まし時計の機能を使うことはないのだが、鉄のパーツの部分が錆びついていて、一体、何年使っているのだろうか?と改めて思った。使っているという意識は無くて、止まったら電池を代えるものという認識しかない。だからもはやそれは時計ではない。

 

ちなみに目覚ましのブザーを止めるためには時計の左わきについている赤いボタンと右わきについている黒いボタンを同時に押さなければいけない。そうしないとブザーは鳴りやまないのだ。

 

これは目覚めないうちに反射的にボタンを押してブザーを止め、また眠り込んでしまうという、世間によくある行動様式を防ぐための独自の機構で、たしかにこのブザーが鳴ると、右手と左手で同時に左右のボタンを押すためにきちんとベッド上に起き上がって時計を膝の上に乗せなくてはならず、そのあいだに意識は覚醒した世界に足を一歩か二度踏み入れざるを得ないということになるのだ。