行方不明の象を探して。その181。

いつ買ったんだっけ、これは?こんな面倒な機構がついているものを好むわけがないので、学生時代に家族が持っていたものをそのまま使ったんだと思う。学生時代なんて言ってもほどんと授業には出ずに、今とほぼ同じような生活をしていたわけであるが。

 

視野が目覚まし時計のあたりで結合すると、反射的に時計を手に取って膝の上に乗せ、両手で赤と黒のボタンを押した。それからブザーがはじめから鳴っていなかったことに気が付いた。眠っていたわけでもないし、したがって目覚まし時計をセットしていたわけでもなく、たまたまキッチンのテーブルに目覚まし時計を置いておいたというだけの話なのだ。

 

目覚まし時計をテーブルの上に戻し、まわりを見回した。見回すほどの大きさもないこの薄暗いアパートを、それでも注意深く見まわした。風呂場の籠に入った汚れ物が目に入ったので風呂場のかごに入った汚れ物を洗濯機に放り込み、部屋に戻った。ぐるりと部屋を見渡してみた。頭がおかしいのかというぐらい見回してみた。部屋は奇妙にしんとしており、まるで無音質のような具合だったが、咳ばらいをしてみるとちゃんと咳払いの音がした。テーブルをゲンコツでコンコンと叩いてみてもちゃんと音がした。

 

グラスにウィスキーを指二本分注ぎ、目を瞑って二口で飲んだ、生暖かいアルコールが喉を越えて食道を突いた、胃の中におさまった。やがてそのあたたかみが血管の血管を伝って体の各部に運ばれていった。まず胸と頬があたたかくなり、次に手があたたかくなり、最後に最後があたたかくなった。

 

「君は誰だ?」

 

と、こういう場所になぜこんな静寂が居るのか解せなくなった。その静寂はその陰鬱さでもって心に重くのしかかった。それでも、足下には柔らかなカーペットが敷いてあった。何か不思議な魔法によって裂け目を通って、カーペットの上を歩く足音がその陰惨な静寂を突き破った。しかしその静寂を如何なる音で満たしても、静寂の陰湿さの残り香を消すことはできなかった。そもそもその静寂に飲み込まれるべきなのか、この妙に腑に落ちることのない、静寂を打ち破ってくれたはずの音に感謝すらできなかった。

 

それは死者の音だった。死者のような響きしかしなかったのだ。生まれついてのニヒリズムに苛まれがちだったのが、理論武装によって結果的にさらにその傾向が助長されてしまった。それをなおいっそう高めるうえで、この静寂と音の間をなんとか分節化しようとすること以上に必要なことがあるだろうか?

 

それに比べたらスーパーマーケットへの買い出しなど児戯に等しい。しかしその面倒な分節化の作業は困難を極めるので、狂人がするような、言語化できないものを殴り書きの中に落書きをするような気持ちで仕事を進めるしかなかった。

 

しかし静寂を打ち破るのは音である必要はない。玄関には数日前に届いた通販の段ボールが置かれたままであった。それを中身を傷つけないように注意深くカッターで段ボール箱を切った。箱の中にはクッション代わりのビニールが詰めてあったので、そのビニールを取り出し、ごみ箱に放り込んだ。荷物を取り出して段ボールを畳んで片付けることを考えると面倒になってしまい、台所に戻って冷蔵庫からコカ・コーラの缶を持ってきて椅子に腰を掛けてゆっくりとそれを飲んだ。

 

僕はコカ・コーラを糧に生きているといっても言いぐらいのコーラ好きだ。大げさな食事にはそんなに関心が無い。かといって菜食主義など小食主義などというわけではない。さて、コカ・コーラとは何か?刺激の強い清涼飲料水である。コーラ好きであるが、それが人生に何らかの影響を及ぼしているかと言えば、全くそんなことはない。むしろ影響がないほうが好ましい。しかしそうだろうか?すっかり考え込んでしまった。

 

こうして考えんでいる間の特に最初の部分、僕の感性は目覚めるが、それを感知することはできない。鈍感なままで、どうして目覚めることができるのだろう?この問題はずっと以前に提起されたものだが、僕の心の片隅に残っている。答えを探し求める時間はまだ訪れていない。

 

今の仕事の緊急性に押し流され、僕はこの問題を一瞬脇に置いてしまったのだ。原稿は、僕につきまとう迫り来る疑問から目をそらすための最後の試みであり、思い出すためのものである。しかしそれを読み返そうとは寸分も思わない。自分が定義している「仕事」はこの深淵に陥らないために、言わばSan値を維持するためにやる「何か」のことなのであって、それは必ずしも経済的行動を意味しない。

 

自分の考えを掘り下げていくと、一見良さそうに見える世界、探求を誘う世界の最初の魅力を感じる。しかし、ひとたびその世界と関係を結ぶと、僕は自分が不利なだけでなく危険な状況にあることに気づく。この発見は新しいものではなく、僕は長い間、象がもたらす危険について知っていた。僕は試されてきたし、それを口にしてきた。しかし、いつも後になってからだった。まるで、書くことが僕の盾になるどころか、僕に対する武器になることを恐れているかのように。

 

僕は今、先延ばしにしてきた課題に立ち向かい、危険について直接語らなければならない。当初、僕はそれを発表することに満足していたが、この危険との接触が深まるにつれ、それが僕の不幸につながるのではないかと疑問を抱くようになった。どうしてこのような逆転が可能なのか?なぜ書くことが、慈悲深い人間の存在ではなく、人間ではない恐ろしい何かと結びついているのか?このような疑問は、解決されることなく、永遠と付きまとい続ける。

 

僕は自分を守るどころか、危険のできるだけ近くにいる必要性を感じている。この名もない、しかし確かに危険な力によって、どうして僕の思考は成り立つのだろうか?答えはわからない。ただ、不毛というのは、明らかにするのではなく、隠すために文章を書くことの結果なのだ。

 

創作を続けるには、僕を不安にさせるものの近くにいなければならない。しかし僕は不安というものが大嫌いで、自分のことを陰気な人間だとは思わない。どちらかと言えばイケイケ(死語)なパリピに親近感を感じるぐらい、僕はしみったれた創作などという行為と程遠い人間である。

 

しかしこの矛盾、もしくは謎は深まるばかりで、つまりは逃れられない非人間的な困惑が、ただ稚拙ながらも封じ込められているだけなのだ。危険は現実のものであり、僕は時に、僕が何もできなかったであろう暴挙の前兆を認識した。僕の不安は、ただそれだけにとどまってはいるが、将来に対する保証は何もない。経済的な保証が一生担保されていたら?いや、そういったものとこの不安とは関係がない。

 

あまりの重圧に脅かされた僕の心は、崩れかけた地盤の上に立ち、ゆっくりと、おそらくは取り返しのつかない浸食を受けている。それでも僕は書くことをやめられないでいる。書くということは呪縛だ。少なくとも僕にとっては。もっと楽しいものを書きたい。ラノベなんかでもいいのかもしれない。でもエンタメ小説というのは驚くほど娯楽小説を書くということのスキルと才能を必要とされるので僕には不可能であることは明らかだ。

 

この試練と結びついている仕事は、不安定な努力である。一人の独身男としての人生の悲しみは、正直であろうと、それに比べれば淡いものだ。とはいえ、これ以外の運命は望まない。書くことのない人生など想像もできないからだ。すべての思考が鈍った状態にとどまり、どんな凡庸な人間の思考にもどってしまうことが、決定的に危険から逃れる唯一の方法だろう。しかし、僕はいつもこれを嫌ってきた。

 

僕が脅かされるのは、強すぎる思考ではなく、すべての思考を腐食させる暗い何かである。でもそれが書くという行為そのものにあったら?と考えると正気でいられなくなるので、そのロジックだけは敷衍しないようにしている。そのロジックを敷衍すればするほど象の存在の重さにパニックになり、まるで夜の中心で目が見えなくなる危険を冒す人のように振舞ってしまうようになるだろう。

 

この試練は、大きな発見を約束するどころか、僕の思考と言語を永遠に台無しにするほどの根本的なズレをもたらすかもしれない。曖昧な身体、闇の力の火傷は、僕の思考能力そのものを脅かす。書くことは、避難所を提供するどころか、言語そのものが危険にさらされる戦場となる。

 

特異点である象と決定的に離れ離れになることは、唯一の不幸だろう。象がいなければ、私は幸せではない。象だけが僕を自分の領域へと開いてくれるのだから。しかし、象だけが僕を危険にさらすのだ。象はフェイバリットであると同時に、アンタゴニストでもある。

 

名もなく、しかし確かに危険なものが、どうしてそれが知られることのない言語の起源となり得るのか?それはどのようにして言語の中で敵として現れるのか?闇雲な定義への執念深さがふつふつと湧いてくるのが分かった。そしてその執念深さがこの上ない静かさを生み出した。いかなる状況でも一向に終わることのない静寂。しかし先ほどのような陰湿な静寂ではない。それはたった一回の咳払い程度で終わるような静寂だ。

 

自分の静寂を打ち破る咳払いは半ば恒久的に役割を免除されて、その役割は他の環境音に委ねられ、それはどのような静寂にも決して邪魔されることなく、その役目を果たす。そのほうが好ましいのは明らかだ。しかし静寂にも良い静寂と悪い静寂がある。先ほどのような吐き気を催すような静寂もあれば、それ自体がまるで音楽のような甘美な静寂というものがある。

 

静寂と言えば、半年ぐらい前に甘美な静寂を求めて中古レコード店彷徨っていた。今の世の中は便利になったもので、一昔前ではレコード店で探すのも困難だったヴァンデルヴァイザー楽派のような作品を浴びるように聞くことができる。といってもヴァンデルヴァイザー楽派の音楽は浴びるように聞くというよりかは、静寂に耳を澄ませるといった類のものであるが。

 

静寂を初めて音楽に取り入れたのは紛れもないジョン・ケージの4:33であろう。4:33については4:33業界と言えるほどに、この作品についての評論が腐るほどある。それが禅的無を表しているだの、音の解放だの、もっともジョン・ケージ本人がコンセプチュアルに4:33について雄弁に語っているので、作品のコンセプト自体は明白である。

 

4:33やジョン・ケージのコンセプトに影響を受けた作曲家は枚挙にいとまがない。とは言え求める甘美な静寂とはコンセプチュアルというよりかはイデー的なものである。もし静寂のイデアがあるなら、そのイデアを鋳型にして作曲された作品が恐らくは好む甘美な静寂のものとなるであろう。

 

そんな静寂を求めてCDやレコードを探し回るのは数少ない生き甲斐の一つである。なんでもストリーミングで聞けばいいというものではない。言わばこの求める行為こそが音楽体験なのだ。

 

甘美な静寂体験を満たしてくれる音楽はどのようなものであろうか?例えばここでKlaus LangのSei-jakuを聞いてみる。もしくはLachenmannの諸作でも良かったかもしれないが、これらが与えてくれる聴取体験は、その静寂を切り裂くさらなる静寂を感じるごとに淫靡なニンフの罠を感じては心を乱されるような感覚なのである。まるで耳が頭に反抗したかの如くである。無垢な耳を保存するのは並大抵の苦労ではない。何しろ世の中はあらゆるノイズに塗れている。

 

こちらが望むことなく半ば強制的に聴かされる音楽が何と多いことか!嘆いても嘆ききれないほどである。だからこそ鑑賞家としての限界を超えて甘美な静寂に浸り続けたいのである。個々の静寂の嵐にはそれ自身の内的な論理があり、必然としてのピアニッシモが存在する。ピアニッシモの出来と共に引き裂かれる静寂がそれ自体としての多様体を形成し、分離を繰り返しては、愛撫のようなタッチで生成される小さな音によって、性的刺激を掻き立てられるようにそれ自体が静寂としてめくりかえる。

 

愛撫される無というものがあるとすれば、静寂を囁くピアニッシモである。それは凡その音楽史的な意味を剥奪された現象そのものに還元された音と変化し、五体に鳴り渡る。深遠にある苦い思想が静寂とピアニッシモの間で生成分離を繰り返す多様体のある本質的な謎に共鳴する。