行方不明の象を探して。その182。

もういつの頃か忘れてしまったが、まだこの世で何かを成そうとしていた時に街を歩いていたらScelsiのMichiko HirayamaによるCanti del Capricornoが頭の中で鳴ったのである。その時何を考えていたかは忘れてしまったが、いずれにせよそれは何の実りももたらさない結果となる実存的な闇や日々の退屈や孤独のようなことだったように思う。とにかくそれは気まぐれに頭の中で鳴ったというよりかは、誰かが演奏したように鳴ったように聞こえたし、そこは今の静寂が支配する部屋と違って、街の雑踏と雑音に塗れた場であったから余計にそれが不思議に思えたのだ。

 

Scelsiの作品は初期から後期にかけて作風の多少の違いはあれど、そこに一貫するダンディズムとも言えるような音の美学に心酔していて、Scelsiを聞こうとしなくても頭でScelsiを鳴らすことが可能なぐらい聞き込んでいる。しかしあの街の雑踏の中で聞こえたCanti del Capricornoを家に帰ってCDで聞きなおしても同じ感動は得られなかった。もちろんこれはこれ自体として素晴らしいものではある。しかし街の雑踏の中で頭を手術され脳みそそのものが震えたような骨伝導のような感覚で聞こえたあの音は一体何だったのだろうか。

 

自分の病的なまでのScelsi狂い、もしくはヴァインデルヴァイザー楽派への偏愛やMorton Feldmanをアンビエントとして聞いてしまう感性に意味があると言いたいのではない。Scelsiのことを書こうとして、Iancu Dumitrescuが彼の夢の中で聞いたガラスが落ちる音を連想しながら、自らの記憶をたどるようにした結果、その音が想起されたのかもしれないが、だとしたらCanti del Capricornoである必要はないはずである。もっとDumitrescu的なスペクトラム楽派のオリジンとしてのScelsiの楽曲など他に色々とあるだろうに。

 

実を言うと、こういった種類の出来事はしばしば自分の人生に起こるのである。あるものは意味を持つ出来事であり、人生の在り方や考え方について多少なりとも変更をもたらすことになった。またあるものはとるに足りない些細な出来事であり、それによって人生がとくに影響を受けることはなかったと思う。

 

しかしこういった体験談を過去には存在した友人や知人に話しても全く手ごたえがなかったり、おおかたの場合「へぇーそんなことがあったんだね」あたりの生ぬるい感想で話が終わってしまう。それをきっかけに会話が盛り上がるわけでもなければ、他の現代音楽作家の話に繋がることもなかった。最もそういったことを期待していたわけではないのだが、あまりに体験の共有ができないために、音源自体の相対的なマイナーさに加え、その奇怪な体験を共有できないという孤独感が自分をその場に置き去りにするかのような感覚を覚えていたのである。

 

「自分にも似たような話があってね」みたいな感じで話が繋がってもいいはずである。例えばそれがScelsiではなくても、歌謡曲でもK-POPでもなんでもいい。なぜか頭で鳴ったというよりかは脳自身が振動していたかのように感じられたという体験が少しでも共有できればいいと思うのであるが、話が発展したためしがない。まるで誤った山道を歩いて遭難してしまった山登りのハイカーのように、この感覚と話題はそこが見えない深い穴の中に落ちて行ってしまう。

 

とにかくこの街には活気がなかった。楽しみの無さが市民の活力を奪っていたからだ。その間、官僚は影に潜み、不吉な操り人形師として支配の糸を引いていた。このディストピア都市では、市民は機械的な正確さで移動し、官僚主義と監視の複雑な網によって生活が決められていた。

 

しかし、その秩序と清潔さの裏側には、ある闇が蠢いていた。操作の達人であり、シンボルシステムのコーディネーターである木村は、混沌を指揮する無言の力であった。彼の尋問とマインド・コントロールの専門知識は、壊れた精神と粉々になったアイデンティティの痕跡を残した。

 

愛と衛生の天国であるはずのこの国に木村が存在することは、水面下の不吉な現実を暗示していた。一見、順応性が高く清潔に見える市民は、不安と罪悪感にさいなまれる心理戦の犠牲者だった。市民が官僚的なハードルを次から次へと越えていくとき、木村の影響が脅威的な影を落としていた。電気ブザー、絶え間ない監視、恣意的な検査・・・これらはすべて、秩序を保つために注意深く作られた管理の道具だった。

 

市民の生活は単調な日常で、人との繋がりも感情もない。いかなる交流も禁止された厳格な法律により、市民は孤立し、壊れていった。ドアに鍵をかけるという基本的な行為さえ禁止され、重火器で武装した警察が禁制品を求めて私的空間に侵入した。

 

木村の取り調べ方法は、この街そのものと同じくらい歪んでいた。彼は残忍さを嘆くと主張したが、彼の心理的戦術は市民を無力感と不安の状態に陥れた。拷問の脅威が長引き、恐怖の雰囲気が蔓延した。現代音楽家の中には彼らの音楽が社会的もしくは文化的な批判に貢献できると考えるものが少数ながらいるかもしれない。そのために音の在り方そのものの基盤を修正したり、再構築したりすることも必要なのであって、好む静寂も、その性質は外界にその本質を有し、それと同時に我々の世界からは独立している。その性質は永遠の物理法則によってコード化されているのだ。

 

先ほどのように、言い表せないような感覚を共有したいと思う感性は、コード化された独立の不可避性を認めながらも少しの抵抗を試みるということにあるのかもしれない。

 

静寂や沈黙といったことは人間によって規定された客観的な手続きと認識論的な制約に従うことで、不完全で暫定的ではあるが、確信に値する認識を得ることができるというものなのだ。現代音楽への批判は言わばもっともなもので、それは娯楽性の欠如、もっと端的に言ってしまえば「こんなものを誰が好んで聞くのか?」というもので、それは音楽を娯楽と考える主流の人たちによって実質的に確固たる事実として受け止められている。

 

しかし、その価値観すらも相対化してしまえば一種のイデオロギーである。大衆の確固たる価値観は客観的であるどころか、それを生み出した文化の支配的なイデオロギーと力関係を反映し、記号化していることは明白である。大衆の主張はその価値を否定できないにも関わらず、意図に関わらず周縁化されてしまったマイナー音楽に関わる自己言及的なものであり、その結果、一般的な音楽における言説そのものが反ヘゲモニー的な語りに対して、特権的な認識論的地位を確立することになってしまった。

 

我々はそういった帝国的な言説に対抗できる術を持っているのだろうか?それを共感できないマージナルな感覚に留めておくのはサバルタン的服従を意味するのではないか?これらのことについては多少の違いはあるものの文化的構造の分析や社会学・政治学における対立的な言論の議論によって討議され続けてきたもので、音に対するフェティシズムは個人のこだわりに終わることがない、普遍性をもった深い分析をさらに一歩進めて、静寂や沈黙における言説全般を、それが音であれ映画であれ文学であれ、統合させていく試みなのである。

 

やがて気を取り直して段ボールから荷物を取り出し、段ボールを解体して畳んでガムテープで縛ったものをごみ箱の近くに置いた。肝心の荷物は何だったのかと言えば、鬼滅の刃のキャラクターのフィギュアだった。ということはこの記憶は10年前のものではないということがはっきりした。木村のおかげだろう。

 

とりあえずそのフィギュアをテレビの上に置くことにした。あまりぱっとする眺めではなかったが、他に置く場所も思いつかなかったし見つからなかった。ウィリアム・バロウズがフィギュアを買ったとすれば、一体、彼の部屋のどこに置くのだろうか?などと想像してみた。ことのなりゆきとしてそのフィギュアを持ってテレビの前に立ち、フィギュアの頭の部分を叩いてみた。そこそこの値段のものなはずなので、安っぽい質感は無かった。

 

それにしてもなんで質感を調べるのにフィギュアの頭の部分を叩く必要があったのか?もっと安っぽいフィギュアを想像していたので、それはいささか意外といえば意外だったが、べつにだからといってとりたてて文句をつける筋合いもなく、高かったものが凄くチープなものであれば多少イラついたかもしれないが、ただのおもちゃだと思っていたものの造形が意外にちゃんとしていることに驚いていたので、最近のフィギュアと言えば昔の玩具のようなものではないのだなということを確信した。

 

フィギュアを眺めたり叩いたりすることに飽きると、テレビの前を離れて椅子に座って先ほどの飲みかけのコカ・コーラを飲み干してDVDでベルイマンの「冬の光」を観た。こういった神の沈黙といったモチーフやそれに伴う実存的苦悩を描いた作品が好きだ。ベルイマンの神の沈黙三部作などを見てしまうと、例えば、ポール・シュレイダーの「魂のゆくえ」などはその神の沈黙の甘さと実存的苦悩の浅さに呆れてしまったりする。でももしかしたら思い違いなのかもしれない。というのもベルイマンの諸作品の実存的苦悩の描き方が卓越し過ぎていて、他の作品が霞んで見えるようになってしまっているだけなのかもしれない。