行方不明の象を探して。その184。

平坦な道が待っているわけではないし、かといってもいばらの道を歩んでいるという感覚もない。全ては自発的にやっていることで報酬はそれを掴むこと。それに尽きる。彼の父はよくこう言ったものだ。「お前には根気が無い」でもそれは間違いだ。根気が無いのではなくて求めるものが無かったから、すぐそこから退却するのが早いだけだったのだ。何かを得るのが早い分、何かが無いと分かるのも早い。

 

それは根気とは関係ない。だって今の彼は根気しかないだろう。根気がなければこんなに不毛なことをやり続けることはできない。でもそれは「あいつ根気があるなぁ」と見えるようなものではないから何をやってるか分からないやつにしか見えないだろう。

 

僕はサンダルを引っ掛けてドアを開いた。十一時を越えていて販売機では煙草が買えない。コンビニへ行くつもりだった。切れかかった街灯が点滅している暗い道を歩く。ふと足をとめた。十メートルほど前方の暗がりにそいつは佇んでいた。聞いていた通りの印象だったのですぐにわかった。

 

簡潔に言うのなら象。僕は電柱の陰に隠れた。象の存在感は圧倒的だった。それは周囲の光を吸いとり、暗い夜道をさらに暗くしていた。世界から音が遠ざかり、水を打ったような静寂があたりを支配していた。僕は電柱の陰から北風伯爵を凝視した。ひらひらと身体全体が小さく波打っている。美しいような気がした。

 

それを象だけがそれを知っているように思える。象か。やつは事実伝達分の類に自分が飽きていたり、それはたとえパロールにおいてもそれについて飽きているということを知っているように思える。でも他人に期待はできないな。象が人かどうかは別として。早くブレスレットを直したいな。

 

東京の中心では、賑やかな大都会が無数の物語を紡ぎ続けていた。人生という糸の中で、丈吉の羽田からの旅立ちは、変幻自在の旅の始まりだった。サシコが混沌とした通りを進むとき、彼女の目的地であるヒルマンズには芸術的な旅が約束されていた。

 

一方、ひとりさんの家では、丈吉が一抹の憂いを抱えていた。その理由はベールに包まれたまま、感情の奥底に埋もれていた。その雰囲気は言葉にならない感情を孕んでおり、内省と啓示の個人的な旅の舞台となった。同じ頃、陸子は辻堂から友人と子供たちがやってくる準備をしていた。家中が、再会の喜びと共有のひとときへの期待でざわめいた。

 

東大梶浦病院が明らかにした医学的な複雑さは、当初の心配とは裏腹に、痛みの原因は神経障害であり、結果的に杉田さんは整形外科医への道を歩むことになった。頚椎と腰椎の変形が発見され、滑車と滑走板を使った治療が計画された。明子と夏司は、恭介の部屋を探検する中で、人生の複雑さの中で繁栄する無邪気さをほのめかした。居間での会話は世代間のギャップを埋め、夕方になると、文化や責任を跨ぐ人物であるメディカル・アタッシュが、ディペンド・アダルト・インナーウェアの年に複雑な職務をこなしていることに気づいた。

 

彼の顎顔面酵母の専門知識は、Q王子の健康という難題を見るためのユニークなレンズとなった。外交特権から水曜の夜のトブラローネへの渇望まで、文化的なニュアンスの並置は、アタッシェの複雑な世界に層を増やした。

 

困難な一日の後、日常的なくつろぎで癒しを求めていた医療担当官は、謎のエンターテインメント・カートリッジに期待を裏切られた。ラベルのないそのカートリッジには、通常のカラフルで情報満載のパッケージがなく、謎めいた雰囲気が漂っていた。アタッシェの好奇心は、軽い苛立ちと相まって、夜の日課に思いがけない展開をもたらした。

 

Q王子は言った。

 

「ずーっと外は雨が続いているからパワーストーン屋に行くのが億劫だ。晴れてからにしよう」

 

でも心なしか切れてからはブレスレットをしなくても言葉とやっていけるような気がしている。ブレスレットがどれだけ自分の身代わりになったのか分からない。ブレスレットは身体の一部だ。もっと大きいサイズのメテオライトにしようか。でもそれだったらもっと頻繁に糸が切れそうな気がするし、今のサイズぐらいがちょうどいい。それでも大きいぐらいなのだけど。

 

その後、このことを時々思い出しては忘れ、また思い出したりした。ところが今度突然正直言って不意をつかれ眩暈がした。何年の前からこの症状におそわれるので、別にその症状自体に驚いたりはしない。

 

多分身体の調子の方が先にあってのことに違いないと思うのだが、しかし実際には微妙なものでございまして(この表現はある発声をいたしますと男性世界の中にいる女性編集者の表現方法になります。たとえ女性ばかりの女性編集者の中にいてもどういうわけかこんなふうになるようでございまして)ある事件が起きますとこの症状があらわれたりすることもあります。どっちが先か分かりません。

 

話すことと書くことがお互いに矛盾していて言語を使ったゲームなのにも関わらず本質的なことが抜けていてそれは言語が自分にのみ関係しているという自明性なのだけど、話すときや書くときに言葉の厳密性などを緻密に執拗に考えたりはしないし、だからこそ言葉の気まぐれが勘違いを生んだりすれ違いを生んだりするのだけど、それは言語に内在しているプライベート性なのであって必然的である。

 

杉村さんは、通訳の資格を持っていたりスチュワーデスの奥さんがいたりプロ野球選手と親友だったり高校ボクシングで関東大会のライト級のチャンピオンになったり早稲田大学を卒業していたり、ハリウッドの有名俳優から直接に電話で映画字幕の仕事を頼まれたりするのだった。

 

そのときふいに飛び起きるまで彼はデッキチェアで眠りこけていた。周囲を見回すとローズムースの並木橋からあの朴訥なドクターがやって来るのが目に入って動悸がして、それから少ししていま見たばかりの夢の話をドクターにしたのだが消化不良で、ドクターはというと肥料について怒りをぶちまけていて、集まった隣人たちはと言えば彼が倒れていたのを木に括りつけてあった案山子のせいにした。

 

杉村さんはそれを気にすることなくだんだんと態度が大きくなっていった。最終的には自分のような立派な男になるにはどのように生きるべきかと、口調が完全に説教調になり激してテーブルを叩いたりした。もちろん回が変わると、早稲田が慶應に変わっていたり、ライト級がフェザー級に変わっていて、質問するとボクシングの階級のことをよく知らなくてごまかしたり、野球選手の親友だったのが一昔前に一世を風靡した超有名歌手の親友に変わっていたりする。それらの更新はさらなる噓を呼び、もう混沌とした杉田さん独自のトンデモ噓履歴とでもいうようなものを構築してしまっているのだった。

 

杉村さんの話は言葉を使ったゲームにすぎない。言語についての本質的なこと、つまり言語が自分自身にのみ関係しているということを誰も知らない。だから、言語というのは実に不思議なもので、実り多いものなのだ。もし誰かがただ話すために話すのなら、最も素晴らしい、独創的な真理を口にする。しかし、もし彼が何かデフィニットについて語ろうとするならば、言葉の気まぐれが彼に最も馬鹿げた偽りのことを語らせる。

 

それゆえ、非常に多くの真面目な人々が言語を憎んでいるのよ。彼らはその往生際の悪さに気づくが、彼らが軽蔑する戯言が言語の極めて真面目な側面であることには気づかない。もし人々に、言語が数学の公式と同じように、それ自体で世界を構成していること、その遊びは自己充足的であり、それ自身の驚くべき本質以外何も表現しないこと、そしてそれこそが、言語が非常に表現的である理由、物事の間の関係の奇妙な遊びを映し出す鏡であることを理解してもらうことさえ可能であったなら、それは素晴らしいことだ。その自由さだけが、彼らを自然の一員とし、その自由な動きの中でだけ、世界精神は自らを表現し、彼らを物事の繊細な尺度、基本計画とするのである。

 

そして、言語についてもそうである、そのテンポ、抑揚、音楽的精神に正確な感覚を持ち、その内なる性質の正確な効果を内なる耳で聞き、それに応じて声や手を挙げることができる人は、必ずや預言者となるであろう。一方、このような真理を書く方法を知っているが、言語に対する感覚と耳を欠いている人は、言語が自分をゲームにしていることに気づき、杉村さんがフェザー級のボクサーにしたように、人間にとってあざ笑う存在となるであろう。

 

この言葉で、詩の性質と成り立ちをできる限り明確に描いたつもりだが、誰もそれを理解できないことも知っているし、言ったことは、それを言いたかったがために、極めて愚かなことであり、それは詩が生まれるための方法ではない。しかし、もし話さずにはいられなかったとしたら?もし、この話したいという衝動が、自身の中の言語のひらめき、言語の働きのしるしだとしたらどうだろう。

 

そこで歌を歌うということが自分にとって書くということなのだ。しかし作家になって生計を立てるというのは、鳥かごの中から飛び立つということで、それはただの幻想に過ぎない。鳥かごの中にいるから飛び立つということに憧れを感じてしまう。自分で餌を取って自分で食べるということに幻想を持ってしまう。そうした自由な生活をしながら歌を歌う。

 

でも実際的には籠の中で歌を歌うことと、籠の外で歌を歌うことの差は全くない。自由な鳥のほうがかっこよく見えるかもしれないが、自分が考えるほど人は他人がどう生きているか?なんていうことに関心はない。ましてやその歌が鳥かごの中で歌われたものなのか、自由の身で歌われたものなのか、餌を自分で調達している鳥の歌なのか、そんなことは歌にとって全く関係のないことだ。

 

象はもう見えなくなっていた。多分あれだろう、何周か東京の特に人口が密集しているあたりを周るつもりなんだろう。それにしても役に立たない本を買いすぎてしまった。貧乏性なので家に帰ってからも全部の本に目を通すつもりだが、時々、長時間にわたって中身が空っぽになってしまうことがある。それは本を読破した後とかハマりまくっていたゲームをやった後とか、賢者タイムとは違う、また虚しさとか空虚さとも違う空っぽな感じに全身が覆われていなくなってしまうような感覚に包まれてしまう。それでもジュンク堂に檸檬を置いてこようとは思わない。ジュンク堂は良い本屋だし然るべき本屋の匂いがするから必ずクソがしたくなる。

 

また象が来るかもしれない。象が来るとすればきっと人目につかない夜中に違いない。空を飛んでいた象はリアリティに欠けていたので、人々は象型のパルーンだと思ったはずだ。何しろ見た目がバルーンっぽかった。でも腐れ縁がある象は象らしい造形と質感があるし、近くで見ると産毛やら細かい汚れやらシミやらがやたら目につくぐらい、とにかく象なのだ。だから人々は象を見ても「あの時、空に浮いてた象じゃない!」とは思わないはずだ。リアルで会う象はあんなにツルンとしていない。