行方不明の象を探して。その185。

「一億年前には」と神奈川新聞に書いてあった。「ここに象がいた」まだ象は現れない。そういえば実家にいるんだった。野暮用で実家に帰ってきていた。でもアパートから遠くないので面倒じゃないのが救いなんだけど、問題はこれなんだよな。何かを書こうと思っても書けない。でも書こうとする。あとやっぱり象を待ち続ける。

 

両方ともいつ来るか分からない。生活は昼夜逆転している。二階の学生時代に使っていた部屋にいる。部屋家を出る前のままになっている。帰ってきても意外とノスタルジックにならないから意外だ。ところで飯だ。飯というか書くにも待つにも腹が減る。両親は一階にある台所の横にある和室で寝ているので、冷蔵庫をディグって何かを温めたりすると寝ている両親に申し訳なくなる。

 

「あ、起こしちゃったな」というのがリアルに分かるときがある。だからなるべく両親が起きている間に、寝る寸前に何かを食べておこう。そして何かを書いたり象を待ったりしよう。自分が生きてゆくことに打ちひしがれているように感じる。それが書きたいという欲求を与えてくれる。でも象がそれを全力で阻止する。人生は混沌としていて文脈も主題もなく連続性すら時として失われてしまう。

 

そこにはそもそも理由も原因も根拠もなく結果も帰結も結論もない。それはまるでとてつもなく眠いくせに妙に興奮している小学生のだらだらした独り言のようなもので注意して確かめればあらゆる種類のバカげたことや驚嘆するべきことや退屈でありふれたことが脈絡なく羅列されていることに誰だって気づく。曖昧さと混乱、それが結構人を疲れさせるのだ。

 

千手丸と瑠璃光丸の性格は世俗の煩悩に執着しないことの重要性を強調する教祖の教えによって形作られた。彼らの過去について明確な記憶がないにもかかわらず、彼らは熱心な上師に仏道に育てられた幸運な境遇に感謝していた。その雰囲気は、糸杉の木々、司祭の聖歌、十字架の14の駅での出来事、といった感じで、これらのグウィヨン牧師が言及したスペインでの出来事は、スペインへの重要な旅を示唆していた。カミラと夫はパデュー・ビクトリー号で出航し、船の中では外科医を装った偽芸術家のシニステラ氏が登場した。カミラは重い病気にかかり、詐欺師の誤診によって悲劇的な死を遂げた。

 

千手丸と瑠璃光丸は無邪気な好奇心から、煩悩に満ちた浮世を想像することがあった。導師や先達によれば、彼らのいる山は、不浄な浮世とは異なり、西方浄土の面影を残しているという。賤ヶ岳から自分たちの故郷であるはずの山を見下ろすと、夢のような空想が彼らを襲った。

 

グウィヨン牧師は、カミラの遺体をニューイングランドの清らかなプロテスタントの地に持ち帰らなかったことで、親戚、特にメイおばさんからの批判に直面した。千手丸と瑠璃光丸ははカミラの死を取り巻く状況を掘り下げ、詐欺外科医の正体と犯罪歴を明らかにした。シニステラ氏は偽造に関する罪に直面し、刑務所内で匿名性を求めた。

 

千手丸は、二人の会話の中で、紫色の靄の底に光る鳰の海を指さし、浮世の正体を瑠璃光丸に問うた。瑠璃光丸は、恐ろしい龍神と巨大なムカデに恐れおののき、一見美しく見える浮世も、その深みに降り立つと危険が潜んでいるという教祖の警告を伝えた。カミラの遺体という追加の荷物を持って出港した男やもめは、遺体の異端的な性質ゆえにスペインの港に入港する困難に直面した。最終的に、カミラはサン・ツヴィングリ村の裏手の高台に安置された。

 

女性は諸悪の根源であるという警告にもかかわらず、2人の少年はその矛盾について考えた。二人は女性の胸のふくよかさや豊かさについて語り合い、教えと女性に対する無邪気な好奇心との折り合いをつけようとした。時が経つにつれ、千手丸の行動は変化し、菩薩の姿に惹かれていくのがわかった。女性に対する恐怖心は、怪しげな憧れへと変化し、女性の本質や浮世の幻想に疑問を抱くようになった。

 

ある朝早くある警察署の警部補が電話で千手丸を呼び出し、市場で象が暴れています、と言った。恐れ入りますがこちらへきて、どうにかしていただけませんか?別にこれという名案も思い付かなかったが、事件の現場を見ておきたかったので、車に乗って出かけた。愛用の0.44インチ口径の古いウィンチェスター連発銃を携えていた。とても小さすぎて、象を撃てるようなしろものではなかったが、それでもぶっ放せば脅しぐらいの役に立つだろうと思ったのだ。

 

現場に駆けつけてみると、色々な人たちが暴れていた象の暴行を告げた。もちろん野生の象ではなくて、どこからともなく現れた象なのだと言うが、要領を得ない感じだった。というのも象が暴れていたという割には何も荒らされた形跡がないし、けが人もいなければ壊されたものも形跡もない。はっきり言って何が起こったのか分からないぐらい何も現場では起こっていないようにしか見えなかった。

 

象の蛮行を見た人たちはライフル銃を持っているので、てっきり象を撃つつもりなのだと思っているようだった。象を撃つ気など毛頭なかったし、もしものときのための護身用としてライフル銃を持ってきただけだった。しかし象の蛮行を見たという人たちからは期待の眼差しを感じる。ヒーローがやってきたと言わんばかりの表情でこちらを見つめている人もいる。

 

ヒロイズムは皆無だし、仮に象が暴れていたとしたら、それっぽい鎮圧させるような素振りを見せて、象を撃つなり捕獲する仕事はほかの人間に任せたことだろう。

 

しかしどの道、その象もいないし、蛮行を見たという割にはその気配すらもない。よく動物園は動物の自由を奪っている監獄だなんていう人がいる。確かにそういう面もあるだろう。そしてそれがいいということだってあるのだ。

 

台所に行って水を一杯飲み、ふと思い出して小便をし、台所の椅子に座ってあたりを見渡してみた。台所には水道の蛇口やガス湯沸かし器や換気扇やガス・オーブンや様々なサイズの鍋屋やかん、冷蔵庫やトースターや食器棚や包丁さしや電気釜やコーヒーメーカーや、そんないろいろなものが並んでいた。

 

ひとくちに台所といっても実に種々雑多な器具・事物によって構成されているのだ。台所の風景をあらためてじっくりと眺めてみると世界を構成する秩序の有する不思議にこみいった静けさのようなものを全く感じることができなかった。ただの時間の無駄だった。こういうことをしてる間に仮に何も書けなくても、何か書けそうなものの構想を練るべきだと思う。いつもそう思う。

 

いったい何を失ったのだろう?と頭を掻きながら考えてみた。そういえば全然シャワーを浴びていないので頭を掻きながらというより頭皮が痒くなってふけだらけになっている。確かにいろんなものを失っていた。最たるものが時間だ。

 

そうこうしているうちに時間はただ過ぎていく。意味のない思索や細かい動作や台所の観察など、数えだしたらキリがないだろう。人生は無駄で構成されている。そこには世界を構成する秩序の有する不思議にこみいった静けさを感じることができるが、感じたところで空しいだけなので、あまり考えないようにしている。

 

わたしという存在を象徴するコートのポケットには宿命的な穴があいていて、どのような針と糸もそれを縫い合わせることはできないのだ。そういう意味では誰かが部屋の窓を開けてちんちんを中に突っ込み「お前の人生はゼロだ!」と向かって叫んだとしても「ブラボー」とそのちんちんに対して言うだろうし、退屈のエントロピーは「ブラボー」に応じてどんどん増していく。

 

しかしもう一度人生をやりなおせるとしてもやはり同じような人生を辿るだろうという気がするし、毎日20枚ぐらい書く作家の才能を得たところで、書けないという人生は変わらないだろうという気がした。なぜならそれが自分自身だからだ。

 

電車で青山に出て、いつも行っている洋服屋でシャツとネクタイとブレザーコートを買い、売れている作家のフリをしてアメリカン・エクスプレスで勘定を払った。ワードローブは着る機会がない洋服だらけで、新しい洋服を買う必要性なんて全くなかった。でも心の隙間に闇が入りそうになると、街に出てとりあえず洋服を買うのだった。そうして洋服はどんどん増えていく。洋服の数は心の隙間に闇が入りそうになった回数そのものだ。いや、洋服の数より闇の回数のほうが多いはずだ。毎回洋服を買ってたら家一軒が丸ごとワードローブになるぐらいの量になるだろう。

 

服を買うのにも飽きたし、元々飽きているのでビヤホールに入って生ビールを飲み生ガキを食べた。「あぁまたか・・・」と思う。洋服を買ってそれに飽きたことに気がついて、旨いものを食べようと思って、とりあえずどこかに入ってビールを飲んで何かを食べる。その後には何も残らない。

 

むしろ心の隙間に入り込んでくる闇に餌をばら撒いているような気にすらなってくる。だからあいつらはこういう行動に出ると一旦養分を吸収して、そしてまた隙間を見つけては入り込もうとしてくるのだろう。そんなの分かり切っているし、怖くもなんともない。そこに何でもない感情があるだけなのだ。