行方不明の象を探して。その187。

扉は高くて広く、敷居も厚くて重く、縦に4畳ほど敷いてあった。縁のない畳は緑色で新鮮であった。部屋には何もなく、上に小さな机が置いてあるだけであった。ビヤホールの巨大な掛け時計の針はあと五分で三時を指そうとしていた。文字盤の下には二匹のライオンが向かい合って立ち、交互に身をくねらせながらぜんまいを回していた。どちらも雄のライオンで尻尾がコートかけのような形に曲がっていた。やがてノーノが終わって次はデレク・ベイリーの「Guitar, Drums 'n' Bass」がかかった。

 

これはデレク・ベイリーの渾身の失敗作なのだが、その愛らしさがたまらなくて、あまり聞かないオールタイム・フェイバリットの一つになっている。例えばドラムンベースのパートをもっとまともなジャングラーがトラック作りをしたらよかったのか、そもそもベイリーとドラムンベースは全く合わないのか、それについて考えるだけで大学ノートが埋まりそうになる。こういうどうでもいいことはいくらでも書けるし考えることができる。

 

二杯目のビールを注文してから便所に行ってまた小便をした。アルコールなんて飲んでもただこうやって排出されるだけなのに、なんで飲む必要があるのか。体にいいならまだしも肝臓に負荷をかける良くない飲み物だ。至るところでアルコールが飲めるし、飲み続けたら危ないストロング・ゼロのようなアルコールのクラックのようなものがコンビニで売られているのに、マリファナが禁止されているというのはどういうことなのか。こういうこともまた考え出すとキリがなくて、大学ノートが埋まりそうなぐらいの量を色々と書けるのだが、書いてもしょうがないことが分かり切っているので全く書かない。

 

彼女は俺の大便を待っていた。髪を社交界に広めたフラッパーたちから拝借したスタイルではなく、国立病院の清潔な帯状疱疹防止のために手入れされたスタイルだった。いつも同じように整えられた髪形で、彼女は無愛想な鏡を掲げて鼻の穴の毛をむしり取った。たいていの場合、会話は彼女を通り過ぎていくようだった。彼女は何か気になることがあると、その話を中断させる。嵐、ストライキ、鉄道事故など、イタリアで起こった不幸な出来事のニュース以外、彼女を心地よくかき立てるものはほとんどなかった。ん?だから例えば嵐やストライキ、鉄道事故などであるってこと。

 

「闘牛に行くような男なら、本当に大丈夫!」

 

第6回の大会の会場となったお台場では、中澤ゆらりという生き生きとした霊能者の中に、霊や魂の類ではない幻影が寄り添っていた。幸一は、中沢ゆらりは第6回大会のお台場以外のどこかでたくましく生き続けていると信じているし、そうであってほしいと願っている。

 

彼女と初めて会ったのは、今から約9年前、大学4年生の夏休みが始まる頃だった。もし幸一がクラクションの音を聞き逃していたら、ゆらりの存在を知ることはなかったかもしれない。クラクションを聞くまでは、正美がひとりで来たのだと思っていた。

 

夜9時頃、幸一が突然、麻布のゆらりのワンルームマンションに現れた。冷えた缶ビールのケースを幸一に手渡した。

 

「飲みましょう」

 

そして1時間足らずの間に、2人は10数本の缶ビールを飲み干した。アルコールに強い幸一は、ビールだけで酔うような人間ではなかった。しかし、ある量を超えると、トイレに行く回数が急に増える。しかし俺の彼女は呆れながらも場の雰囲気を盛り上げようとして

 

「闘牛に行くような男なら、本当に大丈夫!」

 

と言い、小便や大便などを待っているのであった。幸一はゆっくりと椅子の前に進み、何も持たないで両手を握りしめ、彼女の鋭い足音が台所の方へ遠ざかっていくのを聞いた。彼女は階段で足音が聞こえるのを待ち、急いでキッチンに向かった。数分後、ゆらりがやって来て、彼が台所のゴミ箱をあさっているのを見つけたが、彼は何も言わずに手ぶらで出て行った。昼食時、ゆらりが一度や二度、彼女に質問するのをためらったとき、幸一は顔を上げ、まるで遠くからの信頼や呼びかけに耳を傾けるかのように、彼と部屋の向こう側を見渡した。

 

小便はいつまでたっても終わらなかった。歳をとって尿切れが悪くなっているのか。でもそんな歳でもないだろう。どうしてそんなに沢山の量の小便がでるのか自分でもよくわからなかったが、その小便を終えるのに二分くらいの時間がかかったと思う。そのあいだ背後ではベイリーのドラムンベースがかかっている。お茶目すぎる。トラックはジャングルが流行っていた時期に乱雑に作られたDJでもなんでもないエンジニアが適当に作ったジャングルそのもので、とても懐かしく思えた。あの頃は必死に自分もDJになろうとして渋谷のレコード屋で頑張ってディグしていたっけ。そういえばこのビヤホールは渋谷だと小便しながら気がついた。

 

長い小便を終えると自分が別の人間に生まれ変わってしまったように感じた。手を洗い、いびつな鏡に自分の顔をうつしてみてからテーブルに戻ってビールを飲んだ。懲りないやつだ。がらんとしたビヤホールの中では時間がその歩みをとめてしまっているように感じられたが、実際には時は刻々と移っていた。ライオンは交互にその180度の旋回を続け、時計の針は3時10分のところまで進んでいた。その時計の針を眺めながらテーブルに肩ひじをつき、ビールを飲んではぐだぐだと小説について考えたりした。

 

三杯目のビールとお冷を注文した。まるでこれは人生の縮図の様だ。ビールを飲んでいるのにお冷でアルコールを分解して小便として流すなら最初からそんなものを飲まなければいいのに。かといっても飲まずにはいられないというほどアルコールに愛着があるわけでもない。全ては惰性のオーダーだ。惰性による秩序だ。クソみたいな秩序。バーというのも本当に空虚な場所だと思う。

 

ぼったくり価格のアルコールを提供して、大して気の利いたものも出てこない、だったら通販で本当に自分が好きな酒を頼んで家で映画でも見ながら飲んでいた方がいいだろう。でもなぜかバーは潰れない。もちろん潰れるバーもあるのだろうが、バーという存在は小説と同じぐらい無用なものなはずなのに無くならない。

 

無用ということを言いだしたら人生ほど無用なものはないだろう。アンニュイに悩むこの世界に産み落とされたものが唯一、高貴な証だと思えるものは苦悩だろう。ボードレールだっけ。誰が言ってたとかもういいや。俺のもんだ。読む=書くだからね。そう割り切れば書くことに悩むこともなくなるだろう。

 

アンニュイといえば、この狂気の白昼夢から目が覚めて、「ああ、うとうとしてたんだな」と思えば夢だが、目が覚めなければ夢ではないだろう。前に聞いたことがあるが、狂人と正常との差は時間の長さだけで、それはちょうど風が吹くと波が立つのと同じで、みんな一瞬だけ少し狂うが、すぐに落ち着いて治まる。落ち着かないと、浮世の波の上にいる我々は、脳が不安定に揺さぶられ、木が落ち着いてほしいと思っても風が吹けば舟の上で酔っぱらってしまうのだ。だったら永遠の白昼夢でもかまわないな。あそこにいるの客が喋っていることは夢だったのか。

 

また便所に行って小便をした。ビールぐらいのアルコールだとお冷と飲んでいればまる一日飲んでいられる。もちろんそんな生活をしていたら身体はブクブクと太って肝臓はやられるだろう。

 

でもその生活が楽しかったらビール漬けの生活を選ぶだろう。しかしビールに肝臓をくれてやるほどの価値があるとは思えないし、ビールを飲む度に口に広がる苦みが空虚さと重なって「生きるとはどういうことなのか?」という考えたくもないことを問い続けてくる。そういうことを考える人間ではないのに、日々のビールや食事や見慣れた風景や家の家具や便所に行くときや本を読むときなど、とにかくあらゆるものに空虚さへの問いかけが存在する。だから考えずにはいられなくなってしまう。

 

財布をポケットから出して中のものをひとつひとつひとつひとつひとつひとつ確かめてみたりなんかしちゃったりなんかして。一万円札が五枚、意外と入ってるなと。千円札は5枚以下、現金のほかにはアメリカン・エクスプレスとヴィサにカードが入っていた。それから銀行のキャッシュカードが二枚ある。その二枚のキャッシュ・カードを四つに追って灰皿に捨てた。アーチェリー場の会員券とステーキのチェーン店のカードも同じように捨てた。