「いいでしょう?サイコーでしょう?」
彼女の声が矢のように飛び込んできて頭の中で響き渡る。
「で、なんだったかしら」
「今日はやめとく?」
その流れで。その動きと同じ。
「あたしもボワーンとしているから。でも今日やめたところで別の日にボワーンとしてない日があるとは思えないわ。たまにそういう日もあるだろうけど」
「確かにそうだね。デフォルトがボワーンって感じ」
「じゃあどうするの?」
「このボワーンっていうのは俺らに関係していることなのかな?その、なんていうか、風邪だからとか寝すぎたからボワーンとしてるのとは違うだろ?」
「関係してるわよ。むしろボワーンが主体であたしたちの存在はボワーンの付随よ。そのぐらいのもんだと思うわ」
「ボワーンが仕事したり疲れたりするのか」
「ううん、ボワーンが仕事をするけど疲れはしない。疲れるのはあくまであたしたち」
「だからボワーンとするんじゃない?それがボワーンの原因とか?」
「でもボワーンが主体だし、疲れるということはボワーンが無いと生まれないのよ」
まるで昔から知っていたかのように。ずっと前から知っていたかのように。
「どうしてあれなのかね、ボワーンを無視できないのかね?無視できないものなのかね?」
「それが主体だから。自分に無関心でいることができれば無視できるかもしれないけど、自分に無関心だなんてことが想像できる?」
彼女はそれについて少し考えている。
「いや、想像はできるけど所謂、廃人というやつだよなそれ。何も食べないで風呂にも入らないで髪と爪は伸び放題みたいな」
首を振る。
「そうね。だから無関心ではいられないわけよ。ボワーンを引き受けなきゃいけないの」
「クッソダルいよなそれ」
言うまでもないことだけれど勃起している。とても硬く。そしてそれは位置的に彼女の腿あたりに触れないわけにはいかない。
「でもそういうもんだからしょうがないわよ」
彼女は少し迷っていたが、やがてボクサーショーツを下におろし、石のように硬くなったペニスを出し、そっと握る。まるでなにかをたしかめているみたいに。まるで医者が脈を取るときのように。彼女の柔らかい手のひらの感触を何かの思想みたいにペニスの周りに感じる。ニヒリズムでも超人思想でもないラディカルな言葉についての揺らぎを。
「いつ頃から関心があった?ボワーンに」
「あんま覚えてないけど、それは意識の分節化っていうのかしら、割と色々と物事が分かるようにならないと実感できないものなのよね。よくある話だと実存だとか、それも色々と曖昧なものだったのが明らかになったりそういうものに自覚的になるから内省するようになるわけでしょう?その延長上にあるんじゃないかしら」
それは幻影です。全て録音されています。
「実存とかを考え出すのは割と早い気がするけどボワーンに関しては延長上とは言え、だいぶ先の話だよな。だってそうだろ?実存がどうのっつってもさ、なんか色々あるじゃん?学校とか趣味とかさ、バンドやってみたりとか何かを作ってみたりとか女の子と遊んでみたりとかさ、何かを作ってみたりゲームやったり。でもそういうのを一周すると異様な虚無感に襲われるだろう?で、そこで絶望を経験したりなんかしてさ、で、さらにその先にあるのがボワーンなんだよな」
そのソファで寝る必要はない。そのソファで寝ればいい。彼女は17号室です。ええ、一番奥の左側です。
「そうね。虚空ね。人によっては娯楽とかね、なんかこういうのやってみたいとかこういうのがあるよみたいなのに何の興味も示さないままボワーンに行きついちゃうこともあるだろうなって思うわけよ」
「ボワーンの天才だな。それは」
二缶目のビールを冷蔵庫から抜いて、ふたたびテーブルの前に座る。えびせんをぽりぽり食べ一口サイズのベビーサラミを次々と口に放り込む。あっという間にサラミの包装紙でテーブルの上に小山が出来上がる。
「そうよね。でも評価されない天才よね。そもそも天才って概念が社会的価値観と結びついてるから、社会的に有用なものに関するものじゃなければ天才とは言われないのよね」
「殺人の天才とかね。まぁ状況なのかな。戦争中だったら評価されるとかね」
「殺人とは違うけど革命家もそんなものじゃないのかしら?平時だとただのアウトローでしょう。有事の場合、英雄になるかもしれないわよね」
「有事ではボワーンもクソもないな。ボワーンのほうがマシだ」
「それはそうよ。でも例外もあるとは思うわ。例えば恵まれすぎていて、そこからくる倦怠感があるから無一文で世界旅行するとか、無一文でどっかの都市で暮らして生計を立てるみたいなことかしら」
「そうせざるを得ない人間にとっては反吐が出るような話だけどな。ブルジョワのゲームだろそういうのって。いざとなれば有り余る金がある実家に戻ればいいんだから。そういう後ろ盾があってやるサバイバルゲームだよな」
「苦学生ごっことかね」
「まさに」
「象がそんなことを言ってたのよね。金持ち過ぎるからゼロからなんかやってみたら何か違うんじゃないかって」
「奇遇だね。僕もそれは象から聞いたことがあるね。ホントに、それはブルジョワの幻想だな。」
「あたしは別に批判はしなかったけどね」
「アリュメット・マロン」
「僕も批判はしなかった。へぇーみたいな感じで聞いていた。でもさ、ボワーンの中に入っていくってのも冒険っつっちゃー冒険だよな」
「傍観者でいるよりかはいいかもしれないわ。傍観者で居続けるなんて精神が疲弊するだけだから」
「ボワーンとは何かを探求するみたいな」
「何もないのが明らかだからボワーンとするわけでしょう」
「まぁそうなんだけどね。どうしてもやっぱり意味を求めちゃうよね」
「作家ってそういうもんだから」
作家は自身の才能のほんの一部しか使わずに作品を生み出し続けている。少ない才能の持ち主がたくさんの才能の持ち主よりも優れた作品を生み出すことも往々にしてある。ある者は限られた才能を効率よく使い、ある者は豊かな才能を持て余してしまう。僕の場合も何作か作品を書いていくなかで、燃焼効率がさほど上がっていないと感じるにも関わらず、作品の質が徐々に高まっていることに疑問を持ち、それでようやく自分に与えられた才能の総量が普遍でないことに気づかされたのだった。