行方不明の象を探して。その191。

ただこう言いたい。純文学がつまらないのではなくて、純文学の括りにされている作品につまらないものが多いというだけだということを。純文学かはともかく飯食って多目的トイレでファックして飯食って酒飲んで寝るというようなものは文学ではないだろう。そんなものクソだろう。ファックというジャンルでいいかもしれない。なんでそんなファックにシリアスに向き合わないといけないのか。人生はファックに満ち溢れている。例のクソ塗れと同じ話だ。だからこそ本の世界に少なくともファックではないものを求めるのに、愚かな読者達はファックあるあるという、日常的に共感できるというアホみたいな部分を評価して、それを評価基準にしたりする。

 

ということはファックが多ければ多いほど評価が高くなるということだ。世間で人気がある小説の大半がベルカーブのど真ん中みたいな知性を表しているのは大衆の平均的IQをそのまま表しているからだ。難解なものが売れないのは理解できないやつらが多いだけだ。そういうただの知能指数の自然な分布によって作品は評価される。それ自体がファックでクソ過ぎる。

 

まだリアルにうんこを食ったほうがマシな気がする。うんこを食べるのは大好きだけどね。またペニスが馬のように屹立してしまうよ。勃起するというより腫れあがる、という感じなのだね。しかし残念なことに苦労してうんこを食らったところで世の中のクソっぷりが変わるわけではない。だからクソをあえて食う理由もなくなるわけだ。尤も理由なんて言い出したら生きている理由すらもないに等しいのであるが。なにがしたいんだ。あいつらもこいつらも。運命なんてものを琵琶湖で生きたプレシオサウルスが発見される可能性よりも信じない。だが、もし運命が人間の知らないところで人生に影響を行使しているのだとしたら、運命の輪はこのあたりで回りだしたんだと思う。

 

全く!胸が張り裂けそうだ。世界は狂人ばかりだ。 記憶力はいいんですか?ええ、そうです。だから、今朝私が君に言ったことを全部繰り返してごらん。一字一句繰り返さないで、会話の大枠だけでいいから。彼は大雑把でいいんだ!そうだ、ダーリン、自慢していいんだ、彼は天井に一本持っているんだ。じゃあ、輪郭が知りたいんだね。えーと、宙に浮いた牛、それしか思いつかないんだけど。キマってますねー。ファッションが?大麻でってことにキマってるだろう。

 

風邪治った?治ったけど療養中のさ、寝ながら小説を読むっていう生活がデフォになってから全くなんかもうやる気が無くなっちゃってさ、やる気ってのは?生きる気かしらね?調べたらあれなんだと、コロナの後とかに鬱になる人が結構いるんだって、でもコロナじゃなかったんでしょ?そりゃそうだ、コロナじゃ自力で治せんだろう、でもあれなんだとよ、風邪の後、まぁインフルエンザの後でも免疫系の疲労がどうので鬱のトリガーになるんだって。

 

へぇ、でさ、知らないうちに小説にどっぷりよ。枕元には小説の山。二年前に「書くぞ!」って思って色々と仕入れて結局、読まなかったやつとかも出してきて読んでるんだけど、鬱の文学の親和性って高いね、確かに、パーティーでもやりたい気分でギャルとオマンコしまくったりしてるときに内省的な文学に向かうとは思えない、でもなんか凄く遠い感じがするんだよな、世の中から遠ざかる感じだわ、あの世に似てる、死んだことあるわけ?

 

ないけどね、でもなんだろうな、ノイズとかならさ、勝手にやれるっていうかやってても罪悪感無いんだけど文学の後ろめたさって凄いよな、その本質的な文学毒というかね、それにやられたら絶対世の中に戻れないっていうさ、パンクスとかでもAttitudeはパンクでも世の中となんとか折り合いをつけたりしながらまぁやってるわけじゃん?、うん。

 

でも文学は猛毒さね、飲めば飲むほど中毒になって世の中と折り合いがつけられなくなる、今はドツボにハマってさ、あと怪事件もあったげな、ずーっと本読んでて、たまに抜くかーとか思ってパソコンのところ言ったら誰かが荒らしたように俺の神聖なタロットがバラバラになってただろう、タロット側に三行半的なね、「ざけんなよ!」って思ったよね、「ファック!」ってリアルに言った気がする。

 

最悪なのが混ざってるってことだよね。色んな種類のタロットが気味悪くバラバラにぐちゃぐちゃになって散乱してんの、もうやめようと思ったね、いや、これも文学毒だろう、多分、猛毒が飛散したんだよ、そうだろうね。

 

で?そっからは?「もうタロットやらねぇ!くだらねぇ!こんなの!」とか思いながらも頭が冷えてくると「戻すか」ってことになって原因を追究してもしょうがないから適当になんか動画流しながらすんげーゆっくり戻す作業をしてたらさ、また凄まじく虚しくなってきて、でもあれだよね、金星人とかって地球ぐらいでしかネガティヴな体験ができないからそれを体験するために来てるから金星人ってDVとか受けてる場合があるんだって、へぇそうなんだ、でも俺の場合のっつっても久々にここまで酷い鬱になったな、でも書けてるじゃん?いや、鬱の時のほうが書けるんだよ、めっちゃ元気なときは読書みたいな辛気臭いことしないし、パワーが有り余ってるからゲームとかやりたくなるよな。

 

じゃあ今は文学毒とシンクロしまくっているわけだ、そうだね、でも小説読んでるときは鬱を忘れられてまた現実に戻ると死にそうな気分になるからなんかどうしていいのか分からなくなるんだよね、でもあれだよね、実学の本とかを勉強する分にはなんだかさ、体調が悪くなったおかげですんげー勉強が捗るってことになるけどさ、小説とかの場合、何の役にもたたなかったりするじゃん?ノイズみたいなもんじゃんあれって?あと文学に詳しいみたいな、すげー本読んでる的なことへのリスペクトとかもないから余計に無駄だなって思えるわけじゃん?

 

いや、まぁそんなの相対的で極端に言えば何でも意味無いし無駄だけどね、まぁそうなんだけどさ、でもまぁ鬱のおかげでこんなに文学とシンクロできるなんてねっていうかずーっと調子良かったからね、風邪の後はヤバいってことだね、ヤバいね、俺みたいな爆弾持ちってテロリストって意味じゃなくて鬱持ちは風邪でトリガーされる場合がある、しかも治ってからっていう、なかなか勘弁してくれよってな感じになるな。

 

でもなんだろうね、文学者って鬱の人多いよな。あと自殺する人、そういうヴァイブスがあるってこと?いや、ネガティヴってわけじゃないからね、すんげー鬱臭い本を読んでるってわけじゃないから、ただまぁ精神的にシンクロするものがあるときだとそういうまぁ鬱状態で何もかもが遠く感じる時のほうが捉えやすくなるものがあるってことだね、それはそうだね、それを実感してるわけだから。

 

本だけ読んでればよかったらね、別にあんまこれでもいいかもなって思うけどね、結構ヤバいからな、ネトゲ廃人みたいな生活になってるからな、でもまぁ本廃人だろ?まぁそんなところかな、だったら一日本読んでるんだからいいんじゃない?なんかそういうわけにもいかないんだよな、凄く文学って危ない感じがするんだよね、元に戻れなくなる感じがあるわけね?

 

僕は人生が怖いんだ。幸せな人は負け犬だ。

 

「うんこを食べれば良くなるさ」

 

ウジが湧いていたにもかかわらず、俺はそれを食べてしまった。その光景を見て気分が悪くなったビジターQが隅に引っ込んだ。死体と未消化の飲み物の臭いが部屋に充満した。聞こえるのは、キマった時特有のリバーヴィーな様々なサウンドからそのサウンドがさらにまた別のサウンドを紡いでいって無限になっていくやつ、あとは未消化の液体が落ちる音、そして無意識のうちに放たれるオナラだけだった。

 

部屋にいるやつらの誰もが胃の中のものをすべて口から返していた。ミミズは唇の端から滴り落ち、俺はそれを熱心に捕らえ、愛情を込めて噛んだ。ムツゴロウさんが

 

「芋虫可愛いー」

 

っつって食べちゃうのと同じ感じだ。でもミミズも芋虫も食べるべきではない。くそもそうだが、毒物が入ると肝臓に影響が出たり発がん性物質が大量に入ってたりとか色々な要素が考えられるのは当然としてだな、あれだ、虫だ。また虫の話だ。寄生虫だよ。特にあれだよ。腸壁に刃物のような体を突き立てて腸壁を荒らしたりするやつ。考えただけでも恐ろしいだろ?食べれないものを食べてみます!って面白そうだけど虫を侮ったらダメだ。

 

私を欺くなら、気をつけなさい。私はあなたを愛している。あなたは不安定で、自分の本質の優位性を理解していない。普通の人間に見えるのは皮肉なものだ。どれだけ中身が狂っていようがサイコパスだろうが、というかそういうやつほど普通の人間に見えるわけだから怖いよね。だったら見た目から「変な奴」って分かった方が人畜無害だろう。でもね、ひとつ覚えておいてほしいのは、人生は感覚に過ぎないってこと。それは非日常的な感覚でなければならないということだ。その先はない。魂は物質の発酵物にすぎない。だから私を悩ませて。あなたは私を幸せにする。

 

そして彼女もまた、彼を悩ませ、彼を幸せにした。二人の視線と魂は溶け合い、偽物の古い家具と偽物の新しい土器で乱雑に飾られたロココ調のアパルトマンの静寂の中で、ただひとつのことだけが真摯に語られた。愛について。愛のみがクソの上塗りだらけのこの世界を良いものにできる。

 

それはあるとき、優菜が誰かと電話で笑いながら話をしていた。手招きをしているのでそこへ行くと抱きしめ、くすぐって笑わせ、そこからいきなり頭を張り飛ばした。床の上に倒れると今度は素足でくすぐりまわし結局はふたりでげらげら笑いだした。優菜はよくオナラをした。音は大きくて臭いも凄い。

 

よくソファーに押し倒しては、大きな尻をウールのスカートごしに顔の前に突き出し、一発ぶちかますと、いかにも愉快そうに「ドッカーン」と叫んだ。メタンガスに直撃され、目の前が真っ暗になり、息が詰まりそうになったそれでも結局は笑っていた、ひどい目にあっているのになぜかおかしくてならないのだ。色々な意味で優菜は抵抗力をつけてくれた。

 

ほかのベビーシッターのことは知らないが、優菜が辞めたのは首になったからである。原因は卵だ。ある日の朝、優菜は目玉焼きを作ってくれた。それを食べて、もう一つ作ってほしいと頼んだ。優菜は二つ目を焼いて、もう一つ食べるかと聞いた。その目は

 

「もう食べられないってことよね」

 

と語っていた。それでもう一つもう一つと言って全部で七つ食べた。この七という数字はいまでも頭にこびりついている。卵がなくなったか降参したのか、それとも優菜が怖じ気づいたのかはわからないが、とにかく七回でゲームオーバーになってよかった。どう考えても四歳の子供に卵七つは多すぎる。

 

一瞬の間のあと、床一面にゲロを吐いた。優菜は笑いながらクローゼットに押し込んで、扉に鍵をかけた。カチャリ。それがバスルームだったら首にならずにすんでいただろう。クローゼットに入れられてもへっちゃらだった。暗いが母が使っている香水の匂いがしたし、扉の下からは光もさしこんでいた。

 

母のコートやドレスに背中を撫でられながら、クローゼットの奥に這っていった。そこでげっぷが出始めた。長い大きな燃えるような熱いゲップだった。記憶にはないが胃がおかしくなっていたにちがいない。もう一度げっぷをするつもりで口をあけた途端、ゲロが出て母の靴にかかった。

 

クローゼットを出るにはソファーの上で眠りこけている優菜を説得する必要があった。

 

「出してよー。ゲロ臭いんだ。ここ」

 

と言っても、優菜は

 

「今はダメよーん」

 

の一点張りで、全く聞く耳を持たないようだった。考えた。今はダメだったとしても、あとでならいいのか、と尋ねた。

 

「たぶんねー。でもとにかく今はだめよーん」

 

と優菜は答えた。クローゼットは開いたままだった。閉じ込められたといっても鍵がついていたわけではないし、自力で出ようと思えば出られるのだった。

 

「そんなに出たいなら勝手に出ればいいじゃない。でも言っておくけどね、あたしは大人。あなたは子供。力の差は明らかね」

 

クローゼットから出ることがこんなに厄介だとは思わなかった。クローゼットは開かれているし、現に開かれているからソファーに寝ている優菜との会話が出来ている。しかしソファーでまた寝ようとしている優菜を見ていると、おとなしく待っているほうがよさそうだった。

 

優菜がタオルを用意してくれた。そのままではゲロ臭いからゲロを拭いておけという優菜なりの配慮だった。ゲロを拭きながらクローゼットから出ることを待ち続けた。何時間も待ち続けた。その間、赦しを得るためにあれこれ手をつくした。くどくど懇願して優菜にうるさがられたので、もう貞操など関係ないと思って、オネショタ関係になろうということを遠回りに言ったりした。優菜はそれは悪くない提案だと答えたが、それとクローゼットの話は別だから、交渉材料にはならないと答えた。

 

ときたまのことだが、優菜がプライベートのことや将来の夢などについて聞いてくれた。とは言え、最終的にいつもクローゼットから出ることはダメだと言うのだった。数時間の間、クローゼットの中というアングルから優菜を眺めていた。身の不運を嘆いた。はじめの数時間ははげしく声を荒げて、のちにはぶつぶつとひとりごとのように呟きながら。

 

そのうち子供っぽくなった。子供だったのだが、いかにも子供らしい子供っぽくなった。長らく優菜をみつめてきたので、ボディのディティールを今でも鮮明に覚えているぐらい、特に性的対象だとは思っていなかった優菜のことを、オネショタ関係に持ち込んで、クローゼットから出るという交渉材料にするとは別に関係を持ってもいいかもしれないと思っていた。

 

そしてその間に地便をとりまく静寂に恐れおののくのであった。何が怖いのか自分ですらも分からないのに時々鳥肌が立つことがある。自分を欺いて生きてきたように思う。その結果、生み出されたのが優菜に執拗に迫られる類の無駄な空白である。しかしそれが完全に無駄なのか?と聞かれたら、平和に何のストレスも問題もなく過ごせてこれたので、生物的に全く無駄ではないということに気づく。楽しくはないけどつまらなくもない。

 

仮に絶望の淵に立たされていたら、それだけでそこから言いたいことが腐るほど出てきそうなものの、幸い恵まれているせいで、そういったこととは無縁で、趣味的に「絶望とは何か」的な内容の文学書や哲学書を読んでみるものの、絶望の当事者ではないので、絶望については詳しいかもしれないが、それは全く無縁の存在で、言わばエイリアンのようなものかもしれないし、エイリアンって言うとシガニーが出てくるタイプのエイリアンを思い浮かべるならばグレイタイプの宇宙人をイメージしていただければ幸いである。

 

絶望に打ちひしがれていればそれだけで絵になりそうなものだ。そんな絵しか見たことが無いし、色々なことに恵まれすぎていて絶望とは本当に無縁の世界に生きている。それでも絶望を味わわざるを得ない人が多いのを見ると、本当に幸せで申し訳なくなってしまうことがある。かといってもそれは「幸せだ」と感じる幸せではなく、それは相対的に、何の言われもないのに絶望的な状況に立たされている人たちが多すぎるのを見て、良心から自分の退屈を幸せだと感じなくてはいけないというような義務感に駆られる。


勤めか退屈かどちらかと取れと言われたら今のどちらを取るのだろうか。勤めを取るなら気の滅入るようなあの夕方の風景を見ずにすむのであろうが、勤めを取るといっても就職先があるわけでもバイト先があるわけでもない。仮にバイト先があったところで面接で落とされるのが関の山であろう。執拗なまでに優菜に空白の期間を問いただされる風景が頭に浮かぶ。しかしそれは努力で何とかなるものではない。しかし勤める必要があるほど金に困っていないので、確実に退屈を選ぶだろう。

 

作り上げられてしまった空白を埋めることなどできない。そこを執拗に迫られても答える術がない。心の平穏を物理的に乱されることはないものの、神経質の恐怖が精神を蝕むことはよくあることだが、例えば優菜に空白について執拗に迫られることを想像したりなんかすると心の平穏は一瞬で乱されてしまう。しかし面接官に空白について執拗に迫られることは今後一切ないし、今までもなかったということを考えると、それは趣味で心の平穏を乱しているだけで、退屈さから来る自分へのサディズムなのかもしれない。


だから俺はこのクローゼット事件以降、人々が口にすることを鵜呑みにしないようになった。俺が世界に対する留保の無い情熱を見出すのは本や音楽の中に限られていた。そして当たり前のことかもしれないが、俺はどちらかといえば孤独な人間になった。でも意外とそうでもなかったから、結局、普通の人間ということになったっていうか、しておこうかな。

 

ただじっとしているのはいたたまれない。小説を書くのは内なる義務なのだと神経線維の一本一本がねじ切れるように軋んで叫ぶ。俺のレーゾン・デートゥルはポコチンにあるのではない。小説を書くことにあるのだ。もし今の俺が創作を禁止されたら俺の皮膚の毛穴という毛穴から自己を表現できない不完全燃焼の焦げたカスが噴出して収拾がつかなくなるだろう。優菜が言うように俺の世界観は狭いのかもしれない。そんな俺は転向する必要がある。自己改革が必要だ。

 

ただ絶望という感覚には敏感で、絶望ごっこを演じている、実家が裕福な苦学生のフリをしている輩とか、実存主義などに憧れて「人間は無駄な受難だ」なんてことを言いながら、酒に溺れているフリをしているやつらに関しては、そいつらと大した関係がなくても、ただの絶望ごっこをしているのだということがすぐに分かるようになると、絶望に飲まれた人間の負のオーラは凄まじいものがあって、そこには哲学も文学もない、ただ屹立した絶望があるだけで、その即物性と暴力性に言葉を失うのである。その暴力性は全くそんな素振りを見せていなかった人間が急に自殺したりするような、周りを驚かせるような暴力性だ。急に人の命を刈る存在。しかし周りは気がつかない。自殺者は自殺する前にSOSサインを出していると言われるが、そんなことはないケースの方が多い。

 

だから「まさかあの人が」ということが多かったりするのだ。絶望はそんなに甘いものではない。絶望とは刈るものだ。死に至る病だと言っていたのはキルケゴールだったが、キルケゴールの哲学は哲学なのではなく、当事者研究なのだ。問題は、それ自体が立派な主題となりうるような、例えば絶望のようなものとは無縁な、問題が全くないということと、今後も全く問題は起こらないということが問題なのだ。

 

そのうち外が暗くなってきた。いまや暗闇の中に燦然とクローゼットを通してきらめくものがみえる。精魂尽き果てていた。母はまだ帰ってこない。母が帰ってきたら母はキレて、優菜は即、クビになり、このクローゼットから解放されるだろう。とても時間が長く感じた。優菜は眠りから醒めると、クローゼットに近寄りかがみこんだ。