行方不明の象を探して。その193。

「まだ出たいって思ってるんでしょ」

 

と優菜は言った。

 

「母ちゃんが帰ってきたら、母ちゃん怒るぞ」

 

憔悴していながらも、優菜へのリベンジが母によってもたらされることを確信していた。

 

「こんな長い時間、クローゼットに閉じ込めて何が楽しいの?」

 

と僕は優菜に尋ねた。

 

「このクローゼットは君のためのものだった。そろそろお母さんが帰ってくる頃だわ。もうあたしもおしまいね。クビになって全て終わり」

 

薄れていく意識の中で、母が帰宅するのを待ち続けた。結局、母は深夜近くに帰ってきた。ソファーで爆睡している優菜に、なぜか空いたクローゼットに居続ける彼、その光景を見て呆気にとられていたが、母は深夜にも関わらず優菜を怒鳴り散らし、優菜は即、解雇された。

 

でも冷蔵庫がどうとか通りがどうとかって話が出てこないから小説っぽくないって?でもいりますかね?そのうち風景描写大全みたいなのがあって適当にコピペしてればそういうのはなんとかなりそうだよね。そんなことを考えつつ今日も一日が終わった。終わってないし、何しろ鬱というのは常人が次の日動けなくなるぐらいの眠くなる薬を飲んでも寝れなくなるので、なんか腹減ったな。

 

だから適当に冷蔵庫を覗いてみると適当なのがあったので食べた。でも寝る前の甘味はヤバいだろう。寝る前のチョコレートとかね。太るから嫌だなとか思いつつ風邪でずいぶんとげっそりしてしまったのでちょっとぐらい食べても大丈夫だろう。それにしても小説が書きたくてしょうがない。

 

学園ものとかテンプレはあるんだろうけど、どうやってあんだけのキャラクターを出してきて整合性を保ったまま終わらせるんだろうか?顔のない作家の弟子としてはレシ以外考えられないし興味が無いから、膨大なスケールで展開してるのは例えば19世紀ロシア文学とかなんだと思うし、俺にあんなのが書けるとは思えない。

 

これが幼少期の記憶で最も強烈なエピソードだ。これ以降も色々と変なことは起こった気がするが、これに比べると全然大したことではないので、ひたすら印象に残っていることと言えば、優菜とクローゼットの話である。

 

今みたいな自堕落で全く希望の無い生活をしているのにも関わらず、ちゃんと学校にも行ったし、さっきも言ったように大学院まで一応行った。中学時代はちょっと変わっていて、とある東京の全寮制男子校に入ることになっていた。というのも東京への憧れがすさまじくて、東京に行きたいという理由だけで中学から全寮制の男子校に入ることになった。あの時のことを思い出すと今でも現在の自分が悔やまれるぐらいのワクワク感があったと思う。何しろド田舎からの上京が決まった時は、新しい生活への期待に胸の高まりが抑えきれない日々が続いていた。

 

入学試験は東京で受けた。ただその時は母親が同伴していて、とんぼ返りになってしまって、東京を満喫することはできなかった。

 

学校が始まる前に寮に引っ越しをすることになるのだが、なるべく早く東京に行きたいという気持ちで、どうにもこうにもいられなくなってしまっていて、結果的に上京の予定をだいぶ前倒しにして寮に住むことになった。

 

寮に着いた後は長旅で疲れていたものの、心の高まりが抑えきれずにその足で、東京観光をしようと思っていた。でもまずは寮周辺の街を散策しようと思って、寮周辺の街並みを適当に歩いていた。

 

東京という都市の光景を目の前にして、目に見えるものが全て新しいものかのように、実際は何でもない建物や風景をキョロキョロと見まわしては心を躍らせていた。その時、ある婦人に声をかけられた。

 

「坊ちゃん、道に迷ったの?」

 

その婦人の顔を見た途端、気絶しそうになった。なんという美人なのだろう!と思った。自分の地元では絶対見かけないようなタイプの女性である。洗練された都市型美人とでも言うのだろうか、都会にはこんなドラマや映画に出てくるような女優さんのような人が、田舎の学生に声をかけてくれるのか。

 

つまり、暗闇に何も残さないという、かなり恐ろしい呵責を取り除くことは不可能だ。何も残さないために、だからその表現に関しては気にしない。そもそもの表現形態にこだわらないということ。形式的なものを捨て去ることができれば何の気負いも必要ないだろう。言葉の露出狂みたいな、でもそれではまるで自分が無力な病に侵されているようだ。

 

そんなわけで、ある日曜日の午後の終わり頃、退屈で憂鬱な気分になった僕は、ふと思い立って部屋を飛び出し部屋を出て、どこに行こうかと考えても行く場所がないので非常に困ることになった。続きが無いような長い夢を見ているような、空は真っ青で、白い雲はほとんどなく、風に吹かれながら、霞がかかっているような感じだった。このような偶然の出会いがあっても、それを補って余りあるものであること、注目すべきは本質的に不可能な、奇妙な言説の必要性という形で現れていること。でも、言葉ではどうにもならない。

 

若干、眩暈がしながらも、この天が与えてくださった出会いに感謝して、自分の心を包み隠さずにこう言った。

 

「自分はそこの全寮制男子校の生徒で、今期から入学することになりまして、ただ田舎出身なもので東京の風景が珍しくて素晴らしくてたまらないんです。でも今はそんなことはどうでもよくなりました。自分はあなたと東京観光したいと思いました」

 

この夫人はこんな田舎青年からナンパされるなんて思いもしなかったようで、酷く驚いた様子で

 

「それは残念ですけど、ご同行できませんわ」と夫人は答えた。

 

婦人はその言葉を聞いてさっきまで目を輝かせていた自分が酷く失望しているのに気がついて

 

「今日はもう寮に戻ったほうがいいんじゃないかしら?せめて寮まで送っていきましょう」

 

と言い、その婦人が近くに停めていた、映画ぐらいでしか見たこともないような、外国の高級車に自分を乗せてくれた。自分はこんな高級車に乗ったこともなければ、こんな高級車から見える東京の風景も見たこともない。そして何よりこんな美人の婦人の横に、あの憧れの東京の真っ只中で座っていることに感激していた。

 

婦人の車が自分の男子校の前に停まると、束の間のジェットコースター気分から現実に戻されたような感じがする落差があったものの、依然として自分は東京にいて、その中で尋常じゃない人生の経験をしているということに興奮し続けていた。

 

「じゃあ学校頑張ってね。お元気で」

 

婦人はそう言うと、車のバックシートに乗せてあった買い物袋からりんごの袋を取り出して自分にくれた。そして脇に落とした紫の傘は、紫苑に来る黄金虫の羽のように輝き、きらきらとした陽光が透けて、アスファルトを輝かせた。

 

たったこれだけのとこであっても、当時の自分にとっては、一体、今までの自分の人生は何だったのか?というぐらいの衝撃を受けた出来事だった。婦人の車が景気の良いエンジン音をたてて去っていくのを見ながら、婦人からもらったりんごの袋を持ってその場に立ち尽くしていた。何か、とにかく色々なことに唖然としていた。

 

そして我に返って寮に戻ることにした。まだ学校が始まるには早すぎる時期だったので、寮にいる学生はあまりいなかった。ここはミッション系の学校で、校内には礼拝堂があった。そこまで敬虔ではなかったが、一応、お祈りしようと思って礼拝堂に向かった。

 

礼拝堂に入ると一人の少年が祭壇の前でお祈りをしていた。普段している心がこもっていないような形式的なお祈りとは違う、ずいぶんと丁寧なお祈りをしている。ラテン語だろうか。丁寧でなおかつ本格的である。どのくらいお祈りをしていたのかは分からなかったが、礼拝堂に入ってその姿を見てからすぐにその少年がお祈りを終えたようだったので、声をかけてみようと思った。

 

「すみません、あの・・・・・・」

 

声をかけてみようと思っただけで、特に何を話すまでかは考えていなかった。その少年はすぐ返事をしないで、手に持っていたロザリオを袋にしまって、そして両手に腰を当てながら、自分の前に近付いてきてジロジロと自分のことを眺めていた。