行方不明の象を探して。その194。

「前にどこかでお会いしたことがありましたか?」

 

それは可愛らしい色白の少年だった。中性的な顔つきで、どこか儚さを感じるような哀愁を帯びた美しさがあった。会ったことはないとすぐ答えた。その少年の存在感が考える間も与えないような感じだった。彼はさらに自分に近づいてこう言った。

 

「この学校に入学したとなったら途端に馴れ馴れしくなって、二年生の僕に気安く話かけるなんてね。知っていますか?そんな馴れ馴れしい態度をしていると罰がありますよ」

 

その訛りのない洗練された都会っ子の標準語に聞き惚れていた。こんな饒舌に喋る人間を自分は大人ですらも見たことがなかった。言われたことに動揺しながらも、その少年の佇まいと饒舌な喋り方に魅力を感じずにはいられなかった。

 

はじめは言い負かされたように黙っていたが、自分は無礼を働いたつもりはなかったので、そんな決まり事みたいなことがあるなんて知らなかったと口答えした。少年はこちらの顔を覗くかのような素振りを見せて何も言わないので、自分は目を見開いて、少年を軽く睨んだ。

 

少年はそれ以上、自分をからかうような素振りをやめたかに見えたので、少し怒った感じで、踵を返して礼拝堂を後にしようとした。その時、婦人からもらったリンゴが入った袋から、いくつかのりんごが落ちた。そして礼拝堂の地面に転がりまわった。

 

自分は慌ててりんごを拾おうとしたら、少年も屈んでりんごを一緒に拾ってくれた。そしてこんなことを言った。

 

「さっきはあんなことを言ってごめんなさい。僕は下級生が上級生に目上の人のように接しなきゃいけないなんて心では思ってないんだよ。むしろね、君が何か学校生活で困ることがあったら何か相談をしてくれてもいいぐらいに思ってたんだ」

 

少年の声は優しかった。自分はお礼のしるしに何個かのりんごをあげた。最初は不思議そうな顔をしていた少年だったが、差し出されたりんごを受け取ると、軽く表面を拭いてかぶりついた。凄く上品な少年だと思っていた自分にとって、もらったりんごにいきなりかぶりつくということが衝撃だった。自分なんかより数倍も敬虔で賢しこそうな少年が、出会ったばかりの渡されたリンゴを、この礼拝堂でかぶりつくなんて・・・・・・。

 

しかし、思いがけないことが起こった。礼拝堂の入り口の扉が開いたと思うと、ガッツリした体系のいかにも腕っぷしが強そうな生徒が、少年を睨みながらこっちへ向かってきた。

 

「おい。この色白男。やっぱりここにいたな。ところでよ、なんでこんなやつと親しそうに喋ってるんだ?ルールを忘れたのか?」

 

少年は得意の魅惑的な饒舌でそのゴツい生徒に何か言おうとしていたが、たちまち後ろ向きにされ、背後から両手を掴まれ、膝で何度もお尻を蹴とばされた。そして少年が口に含んでいたりんごのかけらがぴょんと飛び出した。

 

痛ましい思いでその光景を見ながら、その一方で自分は、先ほどあれだけ高圧的な態度を取っていた少年が、かくも屈辱的な扱いを見ているのを受けて、不思議な思いと興奮が混ざった、なんとも言えない気持ちになっていた。

 

そしてそのゴツい生徒はお仕置きが済むと、こちらのほうに向いて名前と出身地を訪ねた。その生徒が上級生であることを確信していたので、自分もひどい目に合わされることを覚悟していた。

 

でも何のこともない、彼はと地元が同じで、地元の人間にここで会えるなんて嬉しいと言っていた。そのゴツい生徒が言うには自分は悪い人間ではないそうだ。ただ最近の学校の規律が守られていないことに苛立ちを感じており、規律を乱すような人間を見ると注意するのが彼の役割だと自覚しているようだった。

 

東京に来れて嬉しい!なんてはしゃいでいた心の中は一変しており、今後、規律の厳しい寮生活が待っているのだと冷静に認識していた。浮かれ過ぎていたのだ、とすら思った。

 

そのゴツい生徒は続けて言った。最近は下級生が上級生に敬意を払わず、馴れ馴れしい態度で接しているのが特に目立つので、とりわけそういったことに関しては神経質に目を光らせているとのことだった。

 

でも彼がそれだけの理由であれだけのことをするとはとても思えなかった。強面で体が大きいので怖い感じがするものの、実際に彼が言うように、こうやって話をしてみると悪い人間ではないどころか、その生真面目さから学校の規律を守ろうとするという言い分も納得できるような人柄の良さを感じていた。でも、さっきの少年に対する仕打ちは、何か規律のためだけとはいいがたいような痴情のようなものを感じていた。

 

別にそこまで少年に対して馴れ馴れしい態度を取っていたわけではないし、むしろ友情すら芽生えているぐらいに感じていたのに、そのときに彼がいきなり訪れて、あのような屈辱的な仕打ちをしたということに、少年の間に芽生えつつあった関係性を引き裂かれるような思いがしていた。

 

でもそのゴツい生徒が悪意からそれを行ったのではないということに納得は出来た。でも神がいる祈りの場所でそれをやるべきだったのだろうか。それとも規律を乱しているということの罰を神に代わって行ったとでも言うのだろうか。

 

礼拝堂の床にはちらばったりんごと、そして少年の食べかけのりんごが落ちていた。ゴツい生徒はあたりを見回したかと思うと、一瞬、その少年の方を見て、すぐ目を逸らした。大げさにお仕置きをしたように見せておいて、実はそんなに強くお尻を蹴っていたのではないのは明白だった。それでも少し、少年の身が気にでもなったのだろうか。そしてそのゴツい生徒は軽い会釈をして礼拝堂を去っていった。

 

少年は床に尻もちをついたままだった。そしてこう言った。

 

「彼は悪気があってあんな仕打ちを僕にしたんじゃないんだよ。だから気にしないで。そして彼を責めるようなことはしないで欲しいし思わないで欲しい」

 

何も言わずただ頷いた。それを見た少年は微笑んだ。そしてこう言った。

 

「ところでさ、りんごが床に転がったままだね。早く片付けないと。人が入ってきたりしたら大変だから」

 

「そうだね」

 

と答え、その少年と一緒にりんごを拾い上げた。そして僕は少年が噴き出したりんごのかけらと食べかけのりんごも片付けようとした。それを見て少年はこう言った。

 

「それは汚いから僕が片付けるよ」

 

自分は最初に彼が自分を無視したように彼の言ったことを気にせず

 

「汚くなんかないよ」

 

と言いながら、彼の食べかけのりんごとかけらを、婦人からもらったりんごの袋に入れた。少年は恥ずかしそうにうつむいたまま何も言わなかった。そしてそれまでは薄暗かった礼拝堂にステンドグラス越しに光が差し込み始め。その光に照らされた少年の顔は天使のようにとても美しかった。白粉を塗ったような綺麗な肌が紅潮していた。

 

そして自分の中に、あの美しい、見知らぬ婦人に対して感謝の感情がおこってきた。あの時、過ぎ去ったはずの胸の高まりがふつふつと甦ってきた。