行方不明の象を探して。その195。

「だからといってボワーンから解放されるわけではないんだけどね」

 

「だからまぁ終わるまでそれは無限なんじゃないかしら。終わってもそれは続くような気がするけど」

 

「色々と書いてて思うんだ。いや、何も書けていないんだけどさ、創造ってそういうことなんじゃないかって。孤独と隣り合わせでボワーンとの親和性が高いから飲み込まれると大変なことになる。凄く危険なものだよね。僕は没入してしまうから脳が疲弊していたりしても感覚がボヤけてたり、結局、その精神の無限と一体化できている状態が好きだからそれがやめられなくなっちゃうんだよね。そして間が開くと倦怠感がやってきて、それは身体的な疲れもあるんだろうけど、その倦怠感に耐えられないから疲れているのにまたそこに入っちゃう」

 

「だからやっぱそこに超越じみた思想とか、宗教的な何かが必要になるんじゃないかしら。あなたなんて典型よね。人間は無意味さに堪えられないから意味を宗教に求めるっていう。あなたは宗教的な人間じゃないけど無意味さに自覚的だからこそ意味に飢えているというところがある気がするのよね。考えることは疲れるし、さらにボワーンを強めてるような感じがするじゃない?そこで人はこんなことを言うでしょう。もっと人生を楽しめとかさ、気休めもいいところよね」

 

「確かに。俺らは病的なまでにボワーンについて考えたり感じたりしすぎなのかもしれないけど、それってなんていうかさ、例えばリュックサックを背負ってるとするよね。んでそのリュックサックの物質感とか背中に触れている感じとか重さを感じるなっていうようなもんなんだよね。重いリュックを背負ったまま人生を楽しめって言われても無理があるよね」

 

「背負ったままというよりたまには背負うのをやめてもいいんじゃないの?っていう好意的な意味だとは思うけどね」

 

「でも無理だよね。リュック自体が主体なんだから」

 

「そうそう。だからまぁ話が通じないのよね。何かについて考えるじゃなくてそれ自体についてのことだから、対象じゃないのよね」

 

もう難しい話いいよ。飯だ飯。飯といっても飯の話だ。箸休めだ。ペン休めだ。攻守逆転。ソテーが載った皿をまずは手放す。そうして僕は両手を伸ばし、シンバル女の目の前のカスレの皿を持ち上げた。シンバル女はテーブルの真ん中に置かれた土鍋から半分ほど移し替えてすでに食べ終えていた。食べているところを見たことが無い。シンバルを両手に携えているわけだから。でも知らないうちに平らげてるということは食べてるんだろう。皿の上にはソースがまだらに残っているだけ。負けじと僕はさっそく、いんげんとソーセージを土鍋から取り出し、パンにはさんで食べた。

 

「そう。でもなんか思考とボワーンとか思考と倦怠の区別がつかなくなる。といっても物理的にだるかったら思考力も衰えるから思考と倦怠が同居するはずはないんだけどね」

 

「だったら思考力が無くなるまで疲れるとか運動をするとかでもいいんじゃないかしら?」

 

「思ってもいないことを言ったね。今。それは酩酊と同じだろう。疲れて休んだり酩酊した後、水を飲んでアルコールを排泄するなり、ドラッグが身体から抜けたら同じことだろう」

 

「アハハ。そうなんだけどね。疲れるってことが唯一の生き方なのよね。それと倦怠。」

 

また難しい話して!それよりソープダッチの調子が良くないんですよー。見ていただけませんか?あたし公休日にソープダッチを使って新しい技を特訓しているんですけど、ちょっとやってみますね。

 

……とここまでは問題ないんですけど、それそれーっ!……とちょっとでもピストン運動を始めると「ドガッ!」ってな具合で早漏なんです。なるほど……これじゃ特訓になりませんな。最低でも十分はもつはずなんですが。わかりました!遅漏ぎみにセットしておきましょう。あ、壊れた。えー!それじゃ特訓できないじゃない!その点はご安心を!アフターケアは万全ですから。僕がソープダッチのかわりをつとめます!持参した歯ブラシでまずはエチケット!「ちゅぽちゅぽ」どぴゅ!

 

「選択肢はないよね。人間は疲れるようにできてる。だからカウチポテトみたいにビール飲んで映画見たり野球見たりして思考停止するのが逆説的に快楽にもなりうる」

 

「人間やめます宣言よね、それ」

 

「うん。ただ俺らはビールにも野球にも興味がないし、映画に興味が無いわけじゃないけど、映画を見てる間は倦怠感を感じないから幸せだっていうことでもないからね」

 

「そうそう。常に背負いながら見てるから。あとまぁつまらない映画はリュックの重さがさらに倍増したように感じさせるわよね」

 

「わざわざ映画を見てるのにだるいってどういうことだってことだよね」

 

「でも歴史を見てみると、ダルさとか倦怠感とか退屈ってずーっと語られてきてるわよね」

 

難しい話に対抗する。そういう話をするから腹が減るしイライラするんでしょ。そんなことよりお勧めなのはね、大好きな相手と一緒に居れば悦びは二倍に悲しみは半分に。どこかの誰かが言ったのか、そんなことはどうでもいいや。二つの料理を二人で交換し合えば悦びは四倍だよ、なあんて嘯いて最初のデートから有言実行していた。

 

ジャズを基調にロックやソウル、さらに電子音楽も融合させたフュージョンと呼ばれるジャンルが70年代後半に誕生する。僕よりも一歳年下だった敏夫は大学に籍を置きながら、そうしたグループのキーボードを担当していた。

 

「まぁ哲学の起源は退屈さから来てるからね。古代ギリシャで男たちが集まってワインを飲みながらあーだこーだ言うのが哲学の起源だとするなら、それは根本的には退屈逃れかた来てるってことだろう」

 

「それはブルジョワ的よね」

 

「元はね。でも形而上学的なことを考えるのはブルジョワの特権じゃないからね。別に社会的ステータスとか資産とか関係ないだろう。考えることについてはね」

 

「病なのかしら?それは。哲学病とか文学病とかって言い方があるけど、そういう類のものなのかしら?」

 

「似てるけど全然違うね。病とかって言えるのはナルシズムだよ。「僕は哲学病です文学病です」って哲学や文学にどっぷりつかってますっていうのを自虐的に言う言葉だから、それはナルシズムだよ」

 

「そうだよね。ナルシズムだったら楽だものね。病をこじらせてますっていうので一生やっていけるのよね。あたしたちはボワーンに困ってるってほとじゃないんだけど、ボワーン病ですとは言わないもんね」

 

まずは基本のフェラテクからいってみましょうか!こっちはプロなんだからフェラくらいなんて事ないわよ!あたしのテクを使えば……。何回もイッた後だって、ほぉーら、こぉーんなに大放出っ!

 

「そうそう。ナルシズムとかが介在する余地が無いところにいる。このボワーンを表現できたらどれだけ幸せだろうか!って思ったことがあるんだけど、どうやら仮にそれに成功しても幸福とは関係ないらしいよ」

 

「そりゃそうでしょう。表現の成功による幸福とボワーンは関係ないわよ。そりゃ一時的に高揚するかもしれないけどボワーンが消えるわけじゃない。ボワーンを描写しようとしている間の表現に悩んでいる時期にボワーンが消えたとしても、それは消えたんじゃなくて意識がボワーンにいってないだけだし、結局、ボワーンを表現しようとするならボワーンと対峙するしかないでしょう」

 

こーんな感じで敏夫と真実は対照的な色合いの鮮やかな壁画のような会話を交わしていた。地球の言語規範は明治維新以来の支配的な色彩のようであり、関西の方言の豊かな色調とは対照的であった。