久々のウォール伝。その3。

はい、続きです。

 

あとまぁまたベケットだけど(笑)ベケットの話を映像化したらつまんないわけですよ。あれは文字だから面白いんであってね、そこなんだよね。やっぱ。文字の芸術。文字だから面白い!というものだよね。だからまぁ映像化すれば原作の80パーセントぐらい感じられるってもんに関してはあんま読もうと思わないよね。まぁそもそも俺がすげー形式的な娯楽小説を最後まで読むという図が全く思い浮かばないのだけど(笑)まぁ俺が歌謡曲聞かないのと一緒だわ。別に純文学が上で大衆文学が下ってことじゃなくて趣味の問題ね。

 


ただなんかさ、小説に関しては大衆文学とか娯楽文学が好きで音楽は実験音楽とかアングラ音楽が好きとかってあってもよさそうなのに好みが一貫してるんだよね。文学でも俺の音楽の好みと同じような音楽で言えばこれだなっていうようなものが文学で好きだったりするんだよね。まぁ感性ですね。これは。

 


あ、んで俺の話はいいや。書いててつまんねーからやめるわ(笑)あのあれですね、教養としてのクラシックとかあとロックとかに比べてジャズはインテリでなんか知ってるとかっこいい!みたいなスノッブな教養主義みたいなのはすんげーファックだと思うから純文学読んでるから凄い!みたいなのはどんどんなくなっていいと思うんですよ。ぶっちゃけ三島とかも文章が上手いだけで書いてる内容大したことないの多いからね(笑)別にそれは世界文学も同じなんだけどね。だからこそ文字だから読む価値があるのだ!というかこれは面白い!というのがどれだけあるのか?って話なんだよね。

 


まぁその好き嫌いは好みだからいいとして、文字である必然性があるものだよね。あとは昔の作家が今生まれてたら別の表現形態をとっていたかもしれないっていう場合とかもそういう作家が書いたものが文字の必然性が低いかどうかは個々によって違うからなんとも言えないんだけどさ、例えばまぁあれじゃん?動画っつーか文字から動画にするとかもできるようになってるじゃん?だからまぁ一人で映画作れちゃうみたいなね、んでも映画とか映像にすると全然元の良さが伝わらないのよ!ってのがやっぱ文字の必然性がある言語芸術ってことになって俺的にそれがすげー文学だと思うんだよね。

 


まぁただ文学的っていうとまた違うんだよな。前に書いたけど俺が芸術関係にかぶれ始めた10代の頃にハマったのは映画でまぁゴダールとかあれですよ、アートフィルムみたいなやつですよ。ただまぁゴダールはともかくベルイマンだとかタルコフスキーだとかも映像の芸術ではあるんだけど文学的じゃないですか?ああいう映像が文字から見えるのって俺的に文学的だなって感じたりするわけで、結局、まぁある種の文学的であるものを好んでたんだよね。元々そういうものが好きだったからガチ文学に触れるのはだーいぶ後になったけどまぁ文学に目覚めたわけだよねっていうかまぁあーようはこれが好きだったんだなっていうか恥ずかしいことに好きな映画のトップに入るのが去年、マリエンバードでだったのにも関わらず原作がロブグリエだと知らなくて、あ、知ってたのか。ロブグリエの映画は観てたから。

 


作家ってのも知ってたは知ってたんだろうけど小説を読むという発想が無かったんで読まなかったんだけどヌーヴォー・ロマンに接するとなるほどねーっていうこれの映像化があれなんだっていうさ、だからああいうのが好きだからそりゃヌーヴォーロマンも好きになるよねっていうまぁこれは好みだけどね。

 


ただ映像の場合、カッチリとした映画は単純に物語の快楽を文字ほどの労力を使わないで見れるから楽な娯楽なんですよね。なんだけどやっぱりまぁアンチ映画みたいなさ、あとはまぁ俺って基本、ポストモダン系好きだからやっぱ脱構築とかバラバラに解体されてる映画とか実験映画が好きなんだけどさ、まぁだから文学も自ずとそういうのが好きっていうかまぁ一緒なんだよね。リンクしてるから。

 


ただそういうのが好きっつっても数が限られてるからここでまた消費し尽くすって話になるわけなんですよ。好きなものは何回も見るでしょ?もしくは好きだけど眠くなる前衛映画ってのはあるから(笑)それでもまぁ何十年スパンで見ると好きではあるからやっぱ一回しか見ない映画と比べたら明らかに何回も見るからまぁ大体見尽くすんだよね。で、文学もぶっちゃけそんな感じなんだよね。結構ディグったしやっぱりストライクゾーンにハマる作家って滅多にいないわけですよ。一番少ないかもね。

 


だから「この作家はいい!」ってのが見つかっても色々と読んでみて数えれるぐらいしかいないからもうねーなってことになって書店に言ってもあんま読もうと思うのが無かったりさ、それでもまぁ勉強のために読むか!とは書き始めの頃に思ってたから娯楽文学から純文学まで本屋の文芸のコーナーの最初から見て行ってちょっとパラパラめくってちょっとでも気になったら買うってのをやってたからだいぶ読んだよね。いやー出費大変だったな(笑)

 


で、日本人作家は詳しくないっつってもやっぱ気になった作家がいたらさ、もう本屋にはないやつとかあるじゃん?当たり前だけど絶版になったやつとかはマーケットプレイスとかKoshoで買ったりなんかしてすぐ集めるよね。まぁ俺がフォーカスした時のスピードとか強度半端ないからね。そりゃ尽くしますよ。とりあえず手に入るのは全部手に入れないと気が済まないから。でも文芸って売れなくなってるから売れなくても買う人は買うってやつは必然的にプレ値になっちゃうんだよね。恐ろしく中古の値段が上がってるやつとかあるんだよね。普通に。作家に一銭もいかないのに(笑)だったら出版社頑張って文庫化してあげろよとかって思うんだけどまぁ出版業界自体が斜陽過ぎて売れない文芸に使う余裕なんてないからしょうがないんだけどね。

 


あとはまぁあれだな、図書館って微妙よね(笑)やっぱ文芸って図書館需要があるのか地元の貧弱な図書館でも日本の作家のやつは大抵揃ってんのね。こりゃ作家さん大変だなって思うよね。あとまぁYoutubeとかの動画とかでもさ、作家の座談会とかのやつで作家さんに質問ある人は挙手でお願いしますなんつってマイク渡されて「著書を図書館で借りてきて読ませていただいたのですか」って著者に言うってすげーなって思っちゃうんだよね(笑)悪気はないんだろうけどなんつーかレコードとかさ、今でも欲しいもんがあればローンで身銭を切って買ってる俺としてやっぱ好きなもんぐらい金無くても買おうぜって思っちゃうんだよね。それって小さいけどすげー貢献になるんですよ。ましてや斜陽の文芸なんて読む人が買わなかったら誰が買うんだ?って話だからね。

 


あ、んでまぁAIとべーかむはセットにしてもあれだよね、「狂伝 佐藤泰志 無垢と修羅」って本があるんだけどさ、映画をちょうど10年前以上のリアルタイムに見てて、んでなんかで調べて原作の作家がバブル期に自殺したってのを知ってそっからまたラグがあって最近この自伝を読んだんだけど、認められたい!でも認められない!って中で生活が荒れていくっていう売れない芸術家あるあるの壮絶な自伝なんだけど、仮にべーかむがあったらどうなんだろうか?とは思うのね。

 


ギリギリで書いてたから書けてたのものあるんだろうし、ただまぁ本人がアル中みたいになって統合失調症っぽくもなりつつあって最終的に自殺するよりかは労働から解放されてずーっと執筆できるほうがいいだろうって思うんだけどさ、ただまぁよく書くようにあれじゃん?昔のロックでも音楽でもなんでもいいんだけどまぁ芸人とか最たるもんだけど売れたい!っていうところで競うところのドラマってありますよね。

 


M1のドラマ性ってそこじゃないですか?バイトで食いつないでた芸人が一気にスターになる瞬間!っていうまぁその物語ってのがあるんだよね。まぁM1ってそれだけじゃないしなんか似非お笑い評論家みたいなの書くとダサいから書きたくないんだけど(笑)散々まぁ金がイニシアチブじゃなくてもいいじゃん!って思う反面、金とか名声とか売れる!ってことが凄く重要って職業もあるからね。芸人ってのはまさにそれですよね。でも作家とか芸術家にそれは必要だろうか?って思うのね。

 


まぁあれですよ、作家はあれですよってほど詳しくないんだけど(笑)芥川賞とか取っても別に食えるようにならないなんて記事は昔からあるし、全然芸人の世界とは違うから比べられないんだけど、ただまぁその認められたい!というベクトルが凄く重要で必須に働く表現形態とそうではないものってあるじゃん?小説とかってベケット、あ、またベケットだ(笑)バカですね。俺。

 


いや、ベケットのワットとか最高じゃん?まぁ残ってる話を真に受ければ前にも書いたけどフランスでレジスタンス活動をしていたときにまぁフランス側っつーか英国派遣のレジスタンスだったんだけど農作業を2年半ぐらいやってまぁ単純な毎日過ぎてんで本人クリエイティヴだから頭おかしくなるぐらい単調な毎日から逃げるために出版とか考えてなくてワットを書いていたっていうあの外に向いてないベクトルで書かれたものがめちゃめちゃ面白い!ってあるわけじゃん?

 


シェルシとかもそうだよね。あの人の場合、親が貴族だったんだが金に困ってないから晩年まで引きこもりで創作に没頭できたんだけど全く発表するつもりはなくてただまぁ出したら凄い評価されたっつーね、それで言うとカフカもそうだよね。生前出版されたのなんて少ないわけだから。だからなんか違う気がするんだよな。認められたい!とかってのも分かるんだけどさ、別にベケットとかカフカみたいな天才を例に出したけど、別にアマチュアでそんなに質が高くなくても創作活動ってすげー個人的なもんじゃないの?って思うんだよね。活動というより生活の中で例えば手芸が好きでさ、時間があったら手芸をやってるとか精密なプラモデルを作るのが好きとかそういうのと同じだと思うんだよね。なんで外に出して認められなきゃいけないのか?ってのがあるよね。

 


どの道、金にならないしそれで生計立てるわけじゃないしあとまぁべーかむ前提で話してるからまぁ別に贅沢しなければ食えるって中で有名になりたい!とか認められたい!みたいな動機でやる必要があるのかな?と思ってしまうんだよね。文学が死ぬほど好きでなおかつ認められたい!という野望があるから書けるって人はいいと思うんだけど、単純に好きだから書いてますっていうなんかそれでいいんじゃねーのか?って気がすんのね。

 


ただ熱量はあれなんですよ、プロの作家並の基準を!とかは必要なんですよ。アマチュア趣味だと強度が担保できないから俺的にはつまらないっていうかそれでもいいって人はいいんだけどさ、そこは必要なのよ。必要っていうよりそれに人生かけるぐらいでもいいんだけどでも別に認められないからっつって絶望しなくてよくてそんだけの強度で創作できてるんだったらそれでいいじゃん?って思うのね。なんで認められる認められないというところで悩むのか?ってところなんだよね。

 


そこ気にし出すと読者に伝わるか伝わらないか?みたいな俺的にはすげー不純と思えるものが発生してから回ると思うんだよね。娯楽小説目指すなら認められたい!とか有名になりたい!でいいと思うけど純粋小説だとそういうのってどうなのかな?って思うんだよね。だったら娯楽小説書けよって話じゃん?ノイズやっててスターになりたい!って思ってるようなのと同じですよ(笑)

 


M1王者みたいにワーキャーされたいんだったらノイズやってる時点で無理っつーか地下芸人がワーキャーされるわけないんだから(笑)そこは違うでしょって思っちゃうんだよね。でもなんかごっちゃになってるっつーかさ、売れないで悩む系の話でそれが売れないということが致命的な地下芸人じゃない表の芸人だったらいいんだけど、元々地下臭いものをやってるやつがなんで表舞台に立てないことを悩むのかな?っていう概念エラーには全く共感できないんだよね。

 


佐藤泰志は地下小説家ではないし実際に20年経って評価されて映画化もされて評価が遅れた人だとは思うんだけど本当にそんなの一部の人だけですよ。佐藤泰志の話はいいか。まぁ俺が言いたいのは漠然と考えるさ、文学だったら売れて認められて文壇に場所があって選考委員とかに選ばれて・・・みたいなエスタブリッシュメントの中に入るのが夢みたいなさ、んで「先生!」とかって呼ばれたい!とかってそれは概念エラーだと思うのね。あと古いわけよ。もうそういう時代じゃないわけだよね。

 


ましてや文芸なんて売れなくなって数十年経ってるオワコンなわけでさ、一作当たったってそれだけで終わる人もいるし、でも創作続けてる人もいるわけで、やっぱ書きたいのを書き続けるっていう生活を続けるってことが重要だと思うんだよね。評価とか金ってのは二の次だと思うわけよ。

 


なんつーかその名誉欲とかって違うなーって思うんだよね。凄く地の時代的なものだよね。だからなんかよく分かってる人って顔出ししないでさ、本名も非公開で滅多にメディアに出なかったりあとはまぁ絶対顔出ししない作家とかいるでしょ?いや、作家ってそういうもんだろって思うんだよね。書くのが仕事なわけでワーキャーされるのが仕事でもなければ「先生」って呼ばれることが仕事なわけじゃないじゃん?書くのが仕事って言い方がアレだな。

 


仕事って言葉が嫌いだから書くことが生活というか生きるということなわけでしょ。まぁ別にそれで書ききってもう文字でやれることはやり尽くしたなっつって他のことに行くのもいいんだけどあーそこで出てくるなAIの話が(笑)「他」がもうAIでできるようになっててやる余地がないっていうね、ただまぁ別にそれもあれなんですよ、好きでやってるんだから別にAIで似たようなのが書けようが俺は関係ないっつってずーっと絵を描くとかそれでいいんだよね。

 


逆にそこでずーっと絵を描けない人って絵を描く動機づけに古臭い立身出世みたいな概念とかさ、有名になるとか認められたい!みたいな動機付けがあるからだと思うんだよね。完全に内発的なものから来てる場合、AIがどうだろうが俺は絵を描きたいんだから描くってことになると思うんだけどねーどうなんでしょう。

 


あ、んで今更だけどさ、今適当にネットでAIによって芸術家はいらなくなるのか?みたいなのを検索して色々と適当にサラサラ読んでみたんだけど、大体が「現在のAI」っていうAIに対する評価になっててAIの今のテック系じゃない人が予想できない恐ろしいAIの進歩ってのが全然視野に入ってないから「AIでは人間的な感情は表現できない」みたいな話とか「データにバイアスがかかってる」とかそれって今のAIがそうなだけで、そんなもんAIを研究してる側は分かってるからガンガン改善されるに決まってるじゃん?今のAIの成長の凄さを考えると先はこんぐらいだろうってのを素人並みに考えないと全然なんか考察の意味なくなるよねっていう(笑)

 


それは最悪の事態を想定しておくという話と同じなんだよね。それが最悪なのかはともかく今の俺も含めた素人が「AIじゃこれは無理なんだよな」ということもガンガンAIは超えて行ってしかもそのスピードが早くてシンギュラリティって2045年とかって言われてるけど2030年ぐらいにはもうAI生成系のものがとんでもないことになってるってまぁ想定しておいていいに決まってるじゃん?まぁ今年も終わりですからね、2024年からだと6年ですよ。あっという間!シンギュラリティにしても11年だから結構あっという間だよね。あ、いや間違えた、シンギュラリティやっぱ2030年に決定っつーかシンギュらる感じが体感でもうさすがに分かるだろうってのが2030年あたりっていうかもっと前かな。楽しくなるじゃん!ってのと仕事無くなる!っていう危機意識がガンガン芽生えてほしいんだよね。AIの進化についていけないわけだから人間の意識が遅いんじゃ色んな意味で人間遅れるじゃん?

 


だから想定として俺は別にシンギュラリティって一昔のバズワードみたいなもんで詳しくないけど(笑)10年後とかを予測して考えるってことが必要じゃん?だから今の発展途上の出来損ないAIのスキルを見て芸術家はそれでも残る!って言うのはロマン過ぎねーか?って思うのね。いや、一部は残るよ。でもそれは元々本質的にっていうと何が本質なのか?って話だけど、まぁあれよね、その人が書いているというカリスマ的人気とかも含めたニーズとかも含めて人が求める芸術家は残るけど、ほぼ考えられるパターンはまずAIが描きつくせるし人間が思いつかない意味不明なものから意味不明なんだけど人間が「すげー!」と感じてしまうようなものをAIが生成するようになるわけだから、そうなった時に人間の立場とは?ってことになるよねっていう話が前提なんだよね。

 


で、その頃には絵とか音楽とかと比べて散々繰り返しになるけど圧倒的にダメな小説っつー言語表現にしても相当精度が上がるから前にも書いた村上春樹がラノベを書いたら?とかっていう人間が思いつきそうなものは大体出力できるようになるのと逆にAIに聞いて今の人間のツボに入りそうな組み合わせってなんすか?って聞いて「んじゃそれ」って指定して出してもらったらそれが面白かったとかね、まぁ作る側にしては「終わった!」って感じだけど(笑)AIでいくらでも遊べると言えば遊べるのよね。

 


別にそれってなんつーのかな?フェアライトみたいな初期のサンプラーが高価過ぎて誰も使えなかったとかさ、RCAシンセが研究所とかにしかなくて個人が電子音らしい電子音を使うことはできなかったってのが民主化されるってことのもっとスケールデカイバージョンだと思うんだよね。だからまぁ当たり前と言えば当たり前っつーかテクノロジーってそういうもんだろって思うのね。ただまぁサンプラーとかシンセの台頭が音楽家の使わないと不便だから仕事って言葉あえて使うけど仕事を奪わなかったんだけど、ついに生成に来たよ!っていうことなだけなんだよね。

 


芸術は数値に還元されないのだ!とは言ってもやはりパラメーター的要素があることは否めないからそこを完全にキメてこられたら「すげー!」と思うしかないわけじゃん?ましてや絵の素人みたいな俺にとってはどれがAIでどれが人が描いた作品でしょうか?って今より進化した5年後のAIが描いた作品とプロ画家の作品並べられても分からないよ。今でも分からないからね(笑)

 


人間ってどうしても人間バイアスかかるからね。んなわけない!AIによって芸術家がいらなくなるなんて!ってのはただのそいつの実存とロマンなんであって現実はそうじゃないって話だよね。そこを踏まえて人間にはできて10年後のAIにはできない表現とは何だろうか?とか何が残るのだろうか?とかね、それって逆に人間しかできない行為じゃん?まぁそれすらも怪しいけどね(笑)

 


ロマンとか勝手な思い込みの実存で生きてると体感がホラーになっちゃうんだよね。AIが敵みたいなさ、実際にAIを壊すわけじゃないけどラッダイト的な思想になるとダメよね。もうそりゃ人間的にオワコンになるわ。んで俺はあれなんですよ、前から読んでくれてる人にはおなじみの話になっちゃうけど芸術的なものとか人間的なものとかもう古いからその用語やめようぜって話だけどアウラ的なものとかが工学的なパラメーターに変換できる的な発想を心底嫌う人間なんですよ。人間的なものが凄まじく好きな人間ですからね、だからこそAIなんですよ。そういうのを心底愛するからAIがなんでもやっちゃう時代が来た時に工学的なパラメータに変換できなかったりAIがどんだけ発達しても表現できないものとは何か?とか、それが本質的な人間的な表現なのか?とかね、逆にそれはAIの苦手分野を人間がやるようになるってなるとそれはAIありきの話で本質ではないじゃん?

 


人間が「これが人間的なところだよね」ってところまでAIでできるようになっちゃって、ただ意外と原始的なところで10年後のAIでも人がやらないとダメってところがあったとして、でもそれが人間の本質的な表現かどうかは分からないからね。人間に刺さるために最終的な成型をするだけかもしれないし、本質的なところって思ってたものをAIがやっちゃって人間がAIが出力したものを現代の人間の最適化させるために補助的なことをするみたいなのをするかもしれないしね、まぁそれもあれなんだけどね、結局、AIの精度でどうにでもなりそうだからなんか散々書いておいてアレだけどやっぱまぁあんま人間の出番なさそうだな(笑)その生成系のAIの完成形というのを目の前にしたら何にもやること残ってなさそう(笑)

 


あと動機づけの話をしたいんだけど、「創作が生きがいです!」ってやつがさ、仮にんじゃあ現代なんだけどテクノロジー全般が80年代ぐらいにしていこうかな。まぁもっと前でもいいんだけどそんぐらいのテクノロジーの進歩の時代の2024年に生きててさ、んで現在我々がいる2024年の世界線に移動できたとして、まぁチートするやつ多いだろうなって話なんすよ(笑)こっちに移動してきて生成系AI使いまくって、んで元の世界に戻って「俺の作品です」ってドヤるやつが多いだろうなって思うのね(笑)結局、そこが名誉欲とかワーキャー目的とか金目的でやってんじゃん!って話なんだよね。

 


でも創作自体に喜びを感じてるやつの場合、プロセスが楽しいわけだしプロセスの最中で降りてきたものを形にしていくみたいなのが楽しいわけで完成形を見て写すってクソゲーの極みなんですよ(笑)ゲームで言うとネタバレですよ。ダクソとかで言うとここで落とし穴があってここにカギがあってとか急にここからデカい敵が出てきてビビってあたふたして死にますみたいな醍醐味が全部ネタバレになるってことでそれってクソじゃないですか?名誉欲のためにゲームをやるやついないからね。まぁその格ゲーとかFPSとかは別ですよ。まぁ本当に楽しみのためにやるんだったらネタバレってクソじゃないですか?

 


創作も同じだと思うんだよね。プロセスが楽しいわけだから答えなんて見たくないしさ、まぁもっと簡略化すればなんか描いてる作品があったとするじゃん?絵でね。んで色々迷ってるんだけど結局はまぁ描けるんだけど悩みたくないから例えばなんかのボタンを押せば将来自分が描いて完成させることになる絵の完成形が見れますっつって見ます?ってことなんだよね。見てそれを写すのか?って話でしょ。創作の醍醐味ないっすよね。あと自分の成長もない。だから次の作品もそれ見て写した時点でもう変わっちゃうじゃん?

 


生みの苦しみが必要だと言うことではなくて、色々と悩むのもプロセスの一つでそれも楽しみなわけじゃん?結果的に成長していってそれで次の作品に繋がるとか、まぁあとはもう絵画卒業するとかでもいいんだけど重要な人生のプロセスですよね。そこを答えを見てネタバレするのか?ってところですよね。魂の成長もスキルの成長もないですよねそれって。

 


降りてきたものがもうあってあとはそれを描くだけだってのはイタコ的な楽しみがあるけど例えば同じようなもう散々やったものを繰り返すってクソつまらないじゃん?めちゃめちゃ創作が好きなのにそれはもう創作じゃなくて繰り返しじゃないからただ同じようなものを量産するっていうことをするだけだからつまんないわけよね。タロットとか占星術の研究家で実践者でもあるまぁ俺が一番読んでる松村潔という人が書いていたことなんだけど書くときにすでに頭にあることを書くという風になるともう気持ちが地に落ちるような絶望感を感じるらしいんだよね。

 


だから書くときには先が分からないしどういう話になるのか分からないけど書けているし書けちゃうっていうところで書いているものしか書きたくないって言っててすげーそれって芸術系の創作の楽しみと同じだな!ってすんげー思ったのね。あとまぁあれだ、漫画家とかでもあれなんだよな、本来自分が描きたいものとは違うところでブレイクしてそれが世間的に求められるんだけど自分が描きたいものを違うものを描き続けて自分が描きたいのが書けなくてそれだけで時間が過ぎて行って体力も疲弊して行ってメンタルもガリガリ削られるってのが耐えられなくて自殺したみたいな話もあるよね。

 


だからやっぱ創作の重要なところっつーか作るのがやめられない!ってやっぱ作ってるときにとまらなくなるのが楽しいからやるんだよね。んでやった後は大してもう終わったことに興味がないというね。ジムオルークも同じようなことをユリイカのインタビューで言ってた気がするんだけど。だからまぁここがようは創作って個人的な作業だから究極別にAIが限界値突破したところでやる人はやるでしょ?ってところに落ち着くってことになるし、そこが重要でそれが無い場合、続けるのは辛いかもねっていうことも念頭に置いておかないと将来ってほど先じゃない先で辛くなるぜってことなんだよね。

 


だからまぁその名誉欲とか認められたい!とかエスタブリッシュメントみたいな業界だの文壇だのっつー概念とかが古くなるっつーのもそういうわけだから、そういうもう終わってるものに対して今から向かおうとすると将来確実に不幸になるからだからこそAIが万能になっちゃったぐらいのことを想定して創作を考えた方が建設的だと思うんだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。