行方不明の象を探して。その196。

ウォール伝、続きあると思ったらなかったんで象シリーズの続きで。

 

なぜか、秋の終わりよりも今の方が不安な気持ちになる。なのに、汗が出る、汗じゃなくて、あの温かさ、心が絞り出されるような感じ。苦しいのでもなく、悲しいのでもなく、血を搾り取られているような感じ。やわらかく柔らかい木の葉の先が、僕の骨を引き抜いていくような感じ。

 

「自家中毒的というか食傷的というか」

 

「表現にカタルシスがあるってのは幻想ね。表現できることは素晴らしいことだと思うけど」

 

「そう。俺はそう思う。知り合いが言ってたことなんだけどさ、日々の生活でね、例えば頭を洗って身体を洗うにしてもなんでこんなに煩雑なんだって思うらしいんだわ。それって倦怠だよね。ダルいんだよね。やっぱり」

 

「全ての動きに付随するからね。あれは。必然よね」

 

「ホントの、あれってなんなんだろうな」

 

「本当にそうね」

 

「なんなんだろうな?で済ませられないものがあるよね」

 

「別に大げさなものじゃないんだけど、ほんとにそうよね」

 

「そうそう。でも言語でも視覚でもないでしょ。それ。感覚とか気分ってことでもない」

 

「なんなのかしらね?本当に」

 

「それについて喋れば喋るほど概念が先送りにされるよね。掴めない感じ」

 

「あ、でもね、気づいたことがあるの。夢の中ではそれが出てこないの。夢の中でダルいとか、ボワーンとしてることって無くない?」

 

切り刻まれるような、胸を掻き回されるような、痛くも痒くもない、桃の花が陽の光にこぼれるような、長閑で平和で美しく、それでいて孤独で悲しい、雲一つない空が頼りない、緑の野が砂地のような、砂州のような、そんな気がする。まるで過去に起きたことのような、目の前にあるような、言いたいような、言えないような、焦るような、言葉を後悔するような、苛立つような、焦るような、地の底に引きずり込まれるというより、空に引き上げられるような、なんとも言えない、なんとも言えないような、なんとも言えないような、なんとも言えない。その何とも言えない、空に引っ張り上げられるような感覚を持ったまま、結局、何も言えないまま、何も書けないまま、僕は眠りについた。

 

太平洋の氷河と横浜の高原に挟まれた異色の村、何世紀もの間雨の降らぬ荒野で、私はそこで奇妙なカードに巡り会った。町の商人たちは容赦ない暑さに悩まされ、正午から5時で店をしめていた。女性の下着や日用品を扱う「ヘリテージ」の支配人である私の父、健太は、店の金属製のしろをおろし、漂着者でありながら謎めいた出自の関西系東京人、クレイジー・メーソンの店でビリヤードに興じていた。

 

女性が足を踏み入れないその倉庫では、商人たちはテーブルのまわりに集まり、ビリヤードの腕前を競い合って男らしさを誇示した。そんな中、健太は子供の脳は7歳までに大人と同じくらいに形成されるという哲学に基づき、私の7歳の誕生日に、私をビリヤードの世界に連れて行ってくれた。町の広場で球がぶつかり合ううるさい交響曲の中、私の目はスポーツではなく、「小田原城」と呼ばれる幻想的な建物に引き寄せられた。

 

クレイジー・メーソンがその臀部で卵を砕くのが好きになったのは、この頃だった。彼女(女性なのだ!なのだ!って変な日本語)は応接間の肘掛け椅子の上で逆立ちをし、背中を椅子の背もたれにつけて脚を私のほうに曲げた。メーソンは尻をくねらせ、卵を直腸内で転がすことで巧みに楽しませるテクニックを持っていた。クレイジー・メーソンの店は別名「おしゃぶり所、尺ちゃん」などと商人の間では呼ばれていた。メーソンの得意技は色々あったのだが、基本的に全ての精液を飲み込むことを誇りに思っていた。私の精液が彼女の頬を伝うとき、彼女の尻は収縮し、絶頂に達した。

 

ある日、志保の母親が私たちのユニークな行為を目撃した。しかし、彼女は気にする様子もなく、ショックのためか、ただ言葉を失って立ち尽くしていた。私たちは用事を済ませ、片づけを始めたが、彼女はずっと私たちを見ていたことに気づいた。志保は私に「誰もいないふりをしなさい」とアドバイスし、淡々と彼女の背中を拭き続けた。私たちは何気なくその場を立ち去り、何事もなかったかのように振る舞った。

 

その数日後、志保と私はガレージの垂木の天辺で体操をしていたのだが、シモーヌが誤って下にいた母親に放尿してしまった。母親は悲しそうな表情を見せたが、シモーヌは笑い出し、私に体をさらし続けた。私は彼女の露出した性器に見とれずにはいられなかった。女性器を拡大するAVは多くあるものの、無修正を見ることができることは少ない、いや、そうでもない。でもそれは裏ビデオ扱いになる。女性器には男性器にはない様々な表情があり、私は常々、女性器にはその女性の内面が顔や雰囲気以上に現れるものだと思っていた。志保は私に女性器を観察することの重要性を教えてくれた。

 

志保の放尿テクニックはすさまじいものがあり、言わば花電車の小便バージョンと言ったところで、狙ったところに小便を命中させることができるピス・スナイパーだった。妙な造形の竿がある男であっても小便を意図するところに命中させるのは難しい。トイレぐらいならみんな慣れている。それでも外すことがあるので、その外した小便を拭かないでいると黄色い塊になってしまい、ルームシェアでもしているものなら

 

「小便を外さないでください」

 

などとルームメイトから言われたりした。志保はたまに激しい痙攣を起こすことがあった。しかしそれは病的なものではなく性的なものであった。痙攣を起こした志保は完全に混乱した状態で素っ裸になり支離滅裂なことを呟きながら私に自分の性器に放尿するよう要求した。

 

私は志保の女性器に小便をかけると、私の手を取り、外した小便が固形化した黄色い塊だらけの便所に連れて行き、その固形化した黄色い塊に露出した性器をこすりつけ、独自の音を立てた。エビオスや亜鉛などのサプリメントを不健康なぐらい過剰摂取する生活を一週間ぐらい続けてオナ禁をし、精液でタプンタプンになった金玉から発せられたドロドロの精液を志保のおまんこに発射した後、

 

「ブリュッブリィ」

 

という音を立てながら出てくる自分の精液を眺めながら

 

「この音を録音してループさせたものを志保に聞かせてやろう」

 

なんて思っていたのだが、志保が便器に性器を擦りつける音に対しても全く同じことを思ったのだった。支離滅裂なことを言っている音も凄くいい。淫乱というよりは神懸かり的だ。志保は霊媒体質なのだろう。しかし悪魔的なものは感じなかった。淫乱の神がいたとすればそういうものが志保に宿っているのだろう。ぶっちゃけ分からないけどね。「ぶっちゃけ」って言ったら志保の顔面に精液をぶっかけたくなってきた。でもその時は便器が横にあったので、性器を便器に擦りつける志保の顔面に放尿し続けた。放尿が終わった後、油性マジックで志保の顔に

 

「肉便器女志保」

 

と書いてやった。それを見てさらに欲情した私は竿を激しく擦った。志保は竿を舐めようとしていたが私は自分の竿をしごき続けることをやめなかったため、少し不服そうな顔をしながらも不敵な笑みを浮かべながら志保は私の金玉を舐めまくった。どこでそんな舐め方を覚えたのだろう?というぐらいの激しい舐め方だった。少し痛みを感じたものの、良い具合の鈍痛という感じで、金玉には良い刺激になり、結果的にとてつもない量のザーメンを志保の顔にかけてやった。

 

「私は神を模倣しているんだ、小さなものよ、私たちを創造し、破壊し、私たちの残りチンカスで再構築する神をね!」

 

ザーメンまみれになった志保はまた訳の分からないことを大声で言い始めた。夜のことだったので近所から通報がないか心配になるぐらいの音量だった。

 

調子に乗った志保は永遠と戯言を叫び続けた。

 

「私は恥垢の主である。私はアナルの主であり、私はまんこの霊感に満ちた語り手である!我は性欲に包まれた楔を解き放つ、その言葉は真実である。私は呼びかける、汝の息吹の力強さに敬服する、至高にして恐るべき神よ、神々と死を汝の前に震え上がらせる。汝を崇め奉る!淫乱バビロンの玉座に現れよ!まんこの道を開け!金玉の道を照らせ!我をさらに奮い立たせ、我を静めよ!オーガズムよ、私を満たせ!」

 

と、嘲笑いながら叫び続けた。完全に狂ってやがる。そうなる前に誰か止めなかったのか?考えて見れば誰もがこの街では不干渉というか、不干渉ハノーバーと言った感じで、わけのわからない、リサーチしようとすら思わない妙なルールに基づいた生活を送っていたから仕方がなかったと言えば仕方がなかったのかもしれないし、そうでなかったと言えばそうでなかったと言えなくもないし、どちらでもないと言えばどちらでもないと言えなくもないし、文字数稼ぎと言われればそうだと言えなくもないし、実際のところはよく分からない。

 

私が志保とのエンドレスの変態プレイに没頭していると、幼馴染の真矢が入ってきた。その場での変態行為を見ないふりをして、私はしごきすぎて真っ赤になった男性器を差し出した。真矢は敬虔な態度でそれに放尿し、私を胸に抱きしめて泣き出した。このことを振り返ると、私たちの情熱の激しさを思い出す。言葉や理性的な思考の余地をほとんど与えず、私たちは愛の泥沼状態だった。私たちはしばしば密会し、互いへの欲望が強くなるにつれ、数日以上離れていることに耐えられなかった。

 

ある特別な出会いが記憶に残っている。私たちは自然の美しさに囲まれた人里離れた場所で会う約束をしていた。太陽が沈み、黄金色に輝く景色の中で、私たちは熱心に抱き合った。私たちの唇は激しいキスを交わし、舌は互いの口の隅々まで探り合った。

 

私たちの欲望を伝えるのに言葉は必要なかった。私たちの身体は、どんな言葉よりも雄弁だった。私たちは服を脱ぎ捨て、肌を密着させ、興奮で胸を高鳴らせた。木々を揺らす風の音と、海岸に打ち寄せる遠くの波の音が、私たちの感覚を高める音の倍音を奏でた。

 

私たちが愛し合っている間、周囲の世界は消えていくようだった。時が止まり、あるのは情熱に溺れる私たち二人だけだった。体が絡み合い、私たちは快楽への欲望で結ばれたひとつの存在となった。

 

しかし、私たちの愛は快楽だけではなかった。境界線を押し広げ、限界を試し、欲望の深さを探求することでもあった。タブー視する人もいるかもしれないが、私たちにとっては、感情の生の力を体験するための手段だった。

 

ある晩、疲れ果てたドライオーガズムの状態で一緒に横になっていたとき、真矢の目を覗き込むと、自分の感情が映し出されていたのを思い出す。私たちの間には深いつながりがあり、言葉を超えた理解があった。その瞬間、私たちの愛は単なる刹那的なものではなく、永遠に続く深い絆だとわかった。

 

あの日から何年も経ったが、思い出は鮮明に私の心に残っている。私たちの道は分かれたかもしれないが、私たちの愛の激しさは常に私の一部であり、人と人との性的なつながりの力を思い出させてくれる。繋がりはやはり肉体関係があると強くなる。連帯だのオルグだの仲間だのなんだのといってもお互いの極端な性癖を包み隠さず開示し、やりたい放題のプレイができる関係性に勝る人間関係はない。肉欲で沸き立つ肉体関係が全てなのだ。

 

「確かに」

 

「あたしは勝手にね、夢になんかヒントがあるんじゃないか?って思ってるのよね」

 

「なるほどね。現実を認識しているって時点で覆い隠されるものがあって、でも夢は現実じゃないし認識もあやふやだからヴェールで隠されるものもないわけだ」

 

「そうそう。だから夢って支離滅裂でしょう?支離滅裂って凄いことじゃないかって思うのよね。分裂病とかそういう病理的なものじゃなくて認識的にってこと」

 

「分かる分かる。この世は全て夢であるみたいな悟りとは違うそういうんじゃないやつね」

 

「そうそう。そういうんじゃないやつね」

 

「でもイメージを明らかにするのは難しいよね。厳密性に欠ける」

 

「対象物の二重性の問題もあるからね」

 

「言葉そのものが持つ優柔不断さとかね」

 

言葉なんて、みんな表面的、みんな断片的だ。内省したら自分が生と呼んでいるものはいったいどんな意味を持っているのだろうか。アパートの隣の部屋に誰かいる。それを俺は感じている。本当に意味ないよね。一日が終わって次の日が来る。日付の感覚すらなくなる。というか生きている感覚すらなくなる。何が現実か分からなくなる。当たり前だろう。言葉が表面的で断片的だからだ。分かるわけがない。分かるってのは包括的な理解を指すのであって、人生が断片的である以上、人生など理解できるわけがない。

 

「発話はねじられた形式として詩のように発せられなければいけないから」

 

「散文じゃダメなんだよね」

 

「でも構成自体は散文の集合体でいいはずなのよ。問題は二重性と恣意性ね。あとは読む側が言語の恣意性と現実の虚構性を認識しているかどうかでまた変わってきてしまうわよね」

 

「でもそこは外の問題でどうにもならないから、内の問題で最善を尽くすしかないよね」

 

「むしろ謎は言葉の中に縛り付けられる」

 

「なんかでもね、それってロマンティックよね。あと発話における本質的な揺らぎ」

 

「それがシェアされていれば会話も無駄だとは思わないね」

 

他人が何を考えているかなんてわからない。わかろうとも思わないけどね。意識の集中が難しくなって、いつも何かに気を取られてばかり。頭の中は妄想と不安と心配事でいっぱいだ。ボーッとしたかと思うとふさぎ込んだりして、ますます自分と世の中が分からなくなる。