行方不明の象を探して。その197。

「見えるものと見えないものの間で、それが拮抗しあって束縛するから」

 

「絶望的に抽象的だね」

 

「フフッ。そうね」

 

少し早めに会話を終えて散歩に出かけた。買った洋服が邪魔だったので着てきた洋服を捨てて買った洋服に着替えた。顔を捻ると年配の女性がベンチに座っていた。買い物帰りかな。俺と同じじゃん。ヴァイナル袋を横に置いて向かい側の神社の入り口脇に。なだらかな坂道を女性は下り始める。

 

ベンチに座ってたばあさんじゃない、可愛いかなと思ってまず足元を見るのは自分好みのスニーカーかブーツを履いていた場合、おかずになるから絶対そういうものは念写しておくのが鉄則で、でも間に合わなくてその後姿を自分は見守った。銀色のモダンな低層階建てのマンションへと吸い込まれていく。

 

足元まではチェックできなかったけど、仮にあの女性が自分好みのブーツとかスニーカーを履いていた場合、で、彼氏がいた場合、彼氏はそれを独占できるわけだから、彼氏は世界で一番の幸せものだ。でも女性の数は星の数ほどいると言われているから、一つのアベックに対して一人の世界一の幸せ者がいるわけだから、ベンサムがニンマリとする社会というのは世界一幸福な彼氏が多い社会のことを言う。

 

「あなたは一般的な概念に浸りきって眩暈を感じ始めているのです。そういう観念が多分全く何物でもないのだと、あなたは漠然と感じている。だがそれらの観念が崩れてしまったら何が残るのか?空虚だ。それにそれらの観念が何物でもないと言うことはありえない。すると観念が全てであることになり、あなたは息がつまる。知っておられますか」

 

と店員は言った。ひどく寒い夜だった。凍てつく闇と吹雪の底にそのビルはあった。狂ったような白い夜の向こうで明かりの中、ぼやけた輪郭が見えた。いつもはどこか違ったそのビルの入り口に僕は踏み入れた。

 

「小説、面白いよ。読者の人気ランキングでも上位に食い込んできてる。どこかゲーム化しないかってね」

 

僕の連載小説「失われた象を求めて」をほめてくれているのだ。

 

「よっ!原稿持ってきたんか。新人は締め切り守るから好っきゃでぇ!」

 

謎の男も僕に気がつき声をかけてくる。一見すると、印刷されたデータからはまったく想像がつかない。支離滅裂な絵。目撃者の中には、技術者、科学者などがいる。みんな前向きなんでしょうね。顔が溌溂としてらぁ。でも円盤の目撃者の中に、アダムスキー氏のような神秘主義者がいたりする。象と円盤の関係?

 

僕は冷静になって答えた。

 

「締め切り守るのは当たり前のことですから」

 

「作家のカガミやねぇ」

 

言われたこっちがはずかしくなった。彼女は僕が渡した原稿をチェックし始めた。そこにいる象は、常に呼びかけを続けなければならないのです。

 

「来てください、来てください」

 

象がそこにいることは保証にはならない。象は未来にも過去にも、彼の到来は存在とは全く対応しない。また、呼びかけるだけでは十分ではない。そして

 

「いつ来られるのですか」

 

という質問に対して、象が「今日」と答えるとしたら、その答えが意味するものは。常に今ということです。待つことは義務であるが、待つ必要はない。それはいつなのか。普通の時間に属さず、それを必然的に覆し、維持するのではなく、不安定にする今とは、いつなのだろうか。

 

特にこの「今」はテキストに属さず、厳しい架空の物語の「今」であり、実現可能な条件と実現不可能な条件に再び依存させるテキストに言及していることを想起すれば、「今」はいつなのか。

 

「今、あなたがたが象を聞くか、象の声に耳を傾けるかだけだ」

 

最後に象はこの点でキリスト教の仮説とは全く逆で、決して神聖な存在ではない。彼は慰め主であり、公正な者の中の公正な者であるが、彼が人であるかどうか、つまり彼が特別な誰かであるかどうかさえ定かでない。ある注釈者が「メシアはおそらく象である」と言うとき、彼は自分を高めてはいない。誰でもメシアになれるかもしれない。彼でなければならないが、彼ではないのだ。

 

象の到来は、まだ歴史の終わり、時間の抑制を意味しない。象の到来は、次の神秘的な文章が伝えるように、いかなる預言も予言しえなかった、より未来の時を告げるものである。すべての預言者は例外なく象の時についてのみ預言してきた。

 

アパートを出て、駅の近くのスーパーマーケットで食料品を手あたり次第に買い込み、ついでに赤ワインと炭酸水とオレンジ・ジュースを買った。なんでよりにもよって雨の日に外に出る必要があるのか。あの遅れた感覚が原因に間違いはなかった。クリーニング屋で上着を一枚とシーツ二枚を受け取り、文房具屋でボールペンと封筒とレターペーパーと砥石を買った。本屋に寄って雑誌を二冊買い、電気屋で電球とUSBケーブルを買った。おかげで車の後部座席は買い物袋でいっぱいになった。多分、買い物中毒なんだろう。たまに街を出ては、11月のリスみたいにこまごましたものを山ほど買いあさってしまうのだ。

 

そもそも乗っている車にしたってただ買い物用に買った車なのだ。その車を買ったときもあまりに買い物が多すぎて持ちきれなくなり、それで車を買ってしまったのだ。あの日も意味不明どころか、不条理を通り越したような雨だった。買い物袋を抱えたまま、たまたま目についた中古車ディーラーの中に入ると、そこには実に色んな種類の車が並んでいた。車が好きでもないし、詳しくもないので「なんでもいいからそんなに大きくない適当なものをひとつほしい」と言った。

 

相手の若いディーラーの女は車種を決めるためのカタログをひっぱりだしてきていろいろと見せてくれたが、近くで見てみると意外にいい女だったことに気がついた。胸元が大きく開いた白のシャツブラウスに、タイトな黒いミニスカート。30デニールかそれ以下なのではないかというぐらいの脚を綺麗に見せるだけの機能美に優れたストッキングに、ヒールが高くて足先が細くなっている、その美脚に吸い付くかのいうにフィットしているロングブーツ。

 

彼女はカタログを見ながら車について説明をしている。なんとも言えない声だな、と思った。「こりゃ参ったな」と思った。それは耳から入ってきてうなじから首筋にかけての神経にねっとりと絡みついてくるような声だった。甲高い声でもないし、ハスキーでも、低い声でもない。声のトーンは普通だが、その質が妙になめらかで、そして金属的だった。

 

彼女の車についての説明を聞いている間、マリファナと純度の高いアブサンを同時に摂取した時のような、異様なトリップ感に包まれて、イキそうになった。性的な意味ではなくて、頭がイキそうになったのだ。彼女の饒舌は営業トークのそれとは違う何かがある。一体それは何なのか?彼女の車の説明を聴けば聴くほど分析が難しくなる。分析を許さない圧倒的なトリップ感。意味不明である。

 

彼女はチンポを擦りやすいように脚を伸ばす 。そこにビンビンになったペニスを擦りつけ、滑稽に前後に腰をふる俺。ブーツにペニスを擦りつけながら腰を振るのは簡単ではない。腰が上手く動かなかったりペニスが「ベイン!」ってなったりして射程圏外に飛び跳ねることがある。その度に我慢汁が汗のように噴き出て飛び散る。


彼女の脚はスラリとしているものの、これはここまで近くで見ているが故に気がついたことなのだが、程よく筋肉がついており、きめが細かい。右足のブーツのジッパーを口で咥え、丁寧にジッパーを下ろす。そして彼女のブーツを俺のような庶民には縁が無いようなほどの値段の骨董品を扱うかのような手つきで丁寧に脱がす。ブーツの革の匂いと彼女の足の匂いがツーンと鼻に突き刺さる。永遠にこの瞬間が続けばいいのに、と思う。汗でしっとりと濡れた肌の感触と、むっちりとした弾力のある太股の感触がとにかくたまらない。足指はぎゅっと閉じていて、指先は反り返っている。そのつま先に亀頭をこすりつけると、ぞくぞくするような快感が走る。


俺は欲望に身を任せながら腰の動きを一切止めずにのブーツにチンポを擦りつけ続けた。そしてとうとう限界を迎える時が来た。

 

「ああっ……出る!!」


ドピュッドピュールルルー!!ビュッ、ビューーー!!大量の精液が噴き出し彼女のブーツを汚していく。俺の体は知らないうちに痙攣していた。嬉しさなのからなのか、それとも子孫を残すという本能に根差した行為をしたから本能的に体が喜んでいるのか。しかし俺の濃い糊のようなベタついた精液は彼女の子宮を穢したのではない。彼女の黒光りするブーツを穢したのだ。ブーツにぶっかけたドロドロの糊のような精液をチンポで塗りたくるように亀頭を押しつけ続けた。ブーツの革の匂いとザーメンの臭いが混ざり独特の芳香を放つ。その香りが果てたはずの俺の性欲をまた呼び起こす。

 

彼女は真っ赤な顔をしながら、自分のマンコをジュクジュクになるまで汚し続けていた。彼女は耳まで赤らめた。彼女は片足をデスクに乗せ、黒いのストッキングに包まれた脚をパイパンのマンコまで露出させた。荒れ狂う夜の中、俺らは顔を突き合わせ、互いに全身を舐め合いながらオナニーをしていた。お互いの目は自由奔放な喜びに見開いていた。そして私たちの前に残ったのは、空っぽの光る窓だけだった。不透明な夜を貫く長方形の穴が、私たちの痛む目に稲妻と夜明けの世界を見せた。

 

音楽でも似たようなトリップ感を得られることもあるが、実際のセックスに勝るものはない。それは大体において、そんなスノッブな趣味はないにせよ、例えばスターバックスなどで流れているようなジャズではなく、本物のそれを、ウィスキーのグラスを傾けながら、ヴァイナルで聴いているときに起こったりするときもあるのだろうが、それはスノビズムと裏腹なトリップ感で、オリジナル盤のジャズのヴァイナルの匂いに酔いながら、同時に上質なスコッチウィスキーのスモーキーに香りに包まれて、こんな至上の時を楽しんでいる自分に酔うということはある種のインナートリップである。

 

「こんな自分かっこいい」なんて死んでも思わないのであるが、じゃあもっと違った卑近で即物的なトリップ感を求めるなら、マリファナを吸った後、というか、それはただ吸うのではなくて、思い切り息を吐いてから、肺一杯に吸い込んで溜める。もう吐き出さないと窒息するというぐらいまで自分を追い込んで、思い切り煙を吐き出したい欲求を押さえて、酸欠状態になりながらもゆっくりと煙を吐く。

 

そしてチベット密教の声明やJon Hassellのトリッピーな、オリエンタリズム満載の音楽をリピート再生にして、葉っぱがただの黒い燃えカスになるまで、さっきの方法で、その葉っぱに感謝しながら、また死ぬ寸前まで息を止める吸い方をする。胸や食道が焼け付く感じがあっても、それも楽しみだと思って我慢する。

 

感謝の葉が真っ黒になって、もう何も吸えなくなったらベッドにダイヴする。そして目を瞑ると、チベットの山奥の寺院が表れて、それが七色に輝いてグルグル回りだす。それを見ているのだが、いつの間にかグルグルに巻き込まれて寺院と一体化している自分に気づく。聞こえてくる音楽がそれに同調して、リアルタイムに音素が何らかの恣意的なイメージと結びついて、走馬灯のようにそれが出てきては消えていき、新しいイメージがまた出てきては消えていき・・・というプロセスを繰り返す。いつの間にか傍観者からイメージと同一化しているイメージそのものになっているのだと気がつく。