行方不明の象を探して。その201。

調性音楽に耳を飼いならされた奴隷のようなリスナーが平気でこんな便所の落書きレベルのことを書いているのを見て

 

「世の中アホだらけだ。音楽リスナーも例外じゃないな」

 

と、ため息をついた。部屋の面々は、黙ってテープを聞いている。彼らは顔をしかめている。村瀬は唇を歪ゆがめ呆れたような様子でふんぞり返っている。相沢はカセットデッキのそばに立っていて、ときおり無表情に彼らに目をやる。スピーカーからは、少年の声が流れ続けている。

 

湘南から夜に東京に帰ってくる道は退屈な道だ。前の車のテールライトを見ながら、牛テールスープについての思いを巡らせた。最初に尻尾をスープにしようと思ったのは誰なんだろう。

 

よくある話だと、例えばウニを最初に食べた人は凄いよね、とか、それを言いだしたら食文化自体が色々な人間のチャレンジと死によって築き上げられたもので、我々は常にそういった文化の形成の礎になってくれた人たちに感謝をしながら「いただきます」と何かを食べる時に言わなくてはいけない。

 

「ウニを思い出せ!」

 

とは、例の占い師に言われたことだ。そうだ。ウニだ。あんなものを食べるなんてことはありえない。知っていたやつが食べたんだ。このモチーフは今後、俺の人生の中で何回も出てくるだろう。何かといえばウニのモチーフにしたりデザインにしたり、ウニの軍艦巻き三貫980円は安すぎる!って思ったり。

 

いただけるのか分からないものをいただいたことで、小さな哲学者の心には食のバリエーションが広がった。それは食材となった動物や野菜への感謝と同じくらい、命を捧げた先人たちへの感謝が一番大きいのだと考えていた。だけど、みんなは食べ物にありつけることや、料理を作ってくれた人への感謝が大事だと言うんだ。でも、心の奥には、食の先人たちへのリスペクトが隠れていると思っているんだ。

 

小さな哲学者はいつも黙っているときは話すことがないと信じていた。何かを言ったとしても、話すことがないならば、それはただの口ずさみに過ぎない。彼は思考実験が好きで、それでいろんなことを考えてみた。うん、了解、ごめんね。そして、彼は予想もしない咆哮が時折心を揺さぶることにも興味津々だった。彼がどんな方向に思考を巡らせているのか尋ねられて

 

「ないと思うよ!」と元気に答えた。でも考えると心が震えることもあった。

 

小さな哲学者の住む街には、便秘薬の店だけでなく、腸チフスのクリニックもある。そして、飢餓の四則演算の町の風景がある。演算がまるで嵐のようだった。小さな哲学者は、そんな風景の中で哲学的な考えを巡らせる日々を送っていた。現代の知識では、感覚の諸原因という問題の中心に立つのは、まるでカントの哲学のようだった。

 

小さな哲学者はカントの考え方を理解し、感覚は外的世界の中に原因を持つに違いないと確信していた。しかし、その原因は感覚的手段によって知り得ないというのがカントの主張だと知っていた。おまんこにしたってようはちんちんを挿入することでしか本来の手段を知りえないわけで、カントにはシンクロニシティ的な真理を感じる。エマニュエルなのにマンコなのもジーザスもびっくりだろう。でもマリアは処女なのにジーザスを産んだ。

 

小さな哲学者は感覚で知覚されるものは時間と空間の中で知覚され、それらの外では感覚で知り得るものは何もないと考えた。そして、空間と時間は感覚的知覚の必要条件であるというカントの言葉に深い共感を覚えた。彼は

 

「我々の知覚から離れては存在しないんだよね。だから、空間と時間は我々の知覚形式なんだよ。世界を見るのは、まるでのぞき穴から覗いているみたいなものなんだ」

 

と友達に教えていた。

 

小さな哲学者は、空間と時間が理性のカテゴリーであり、外的世界に与える特性だと理解していた。それらがないと、外的世界を理解することができないんだと。これらは自分たちが建てた指標、目印であり、それなしでは外的世界をイメージすることはできないんだと友達に教えて回った。 彼は言った。

 

「我々は外的世界に感覚の諸原因を投影することによって、空間の中に諸原因を作り上げ、一連の時間の流れという形式の中で継続する現実を見ているんだよ」

 

だがしかし!彼女の美脚があまりにも魅力的だったので、外の風景を見ながら、極力彼女のことを無視しようとしながらも、車内の暗がりの中で、その暗闇と同化している艶めかしい彼女の脚をチラチラと見ることを我慢することはできなかった。小さな哲学者はすでに去っていた、というと小さな哲学者というのは俺が頭の中に飼っている思考装置のようなものだ、という印象を与えかねない。そうではない。小さな哲学者というのはいる。ちゃんと小学校にも通っているから友達に文語体の、どっかからそのまま取ってきたようなことをドヤ顔で自分の意見のように言うことができたんだ!

 

彼女もそれに気づいているし、俺の性癖も知っているので、彼女にとってはどうでもいいことなのかもしれない。でも前に彼女とデートをしたときに、あまりに彼女の脚を見るものだから

 

「あたしの脚が好きなの?それともブーツが好きなの?それともあたし?」

 

と聞かれたことがあって、これには多大なる概念の分節化が必要で、その質問を受けたときに一瞬膠着した後に、頭が必死に回答をしようとしてフル回転し過ぎたおかげで、オーバーヒートしてしまって、右目の奥から後頭部にかけての妙な鈍痛と、片頭痛に襲われた。世の中には体調不良が起きるとすぐに頭痛を起こしてしまう頭痛持ちがいるものだが、決して頭痛持ちではなかった。でもこの時ばかりは非常に混乱していたのだろう。一気に口の中が渇いて、身体が軽く震えていた。

 

頭の鈍痛と片頭痛の中で、小さな哲学者は彼女本人の魅力と脚の魅力、そしてブーツの魅力について必死に考えてみた。結局、それらは組み合わさっている不可分の魅力なのであって、例えば脚が綺麗、ブーツも昨今リバイバルしているようなエンジニアブーツのようなセクシーさに欠けるものではない。ピンヒールかそれに近い、芸術品のような脚にピッタリフィットするようなブーツを履いていたとしても、履いている人間が好みの顔ではなかったり、顔は好みでのトータルのファッションセンスや、内面や趣味、例えば好きな映画とか好きな音楽などが合うか、それらを好まなくても、納得がいくようなものが好きだった場合に、そのエロスは成立する。

 

小さな哲学者は頭の中で思考実験を繰り広げた。彼は時間と空間の外にある物をイメージすることはできないが、小さな哲学者は時間と空間の外で絶えずそれらについて思考しているのだ。例えば、

 

「俺の自慢の彼女のブーツ脚」と言うとき、彼はそのブーツを時間と空間にあるものとしてイメージする。しかし特定のものではなく、一般的に「レザーでできたもの」と言うときには、それは世界中のあらゆる時代の、レザーでできたすべてのものを指す。っつっても元が動物だからヴィーガンのハードコアのやつらが襲い掛かってくるに違いないと小さな哲学者は考えた。子供をマネタイズの道具にするのはやめよう、と思った。

 

想像力に富んだ小さな哲学者は、至るところでこれまでに存在したすべてのレザーでできたもので構成された、何か巨大な物、いわば「レザーの原子」のようなものを思い浮かべてみた。

 

独断的観念論と批判的観念論の対立が彼の頭の中で交錯する。独断的観念論によれば、全世界、すべてのもの、すなわち感覚の真の諸原因は、彼の知識を除いては存在しない。それは彼が知っている限りにおいてのみ存在する。従って彼の想像する全世界は彼自身の反映に過ぎない。でもそうなったら金玉が空になるまでぶっかけ続けたブーツへの偏愛や、ブーツが好きなのか?彼女が好きなのかよく分からなくなっている俺ってのはどうなるのか?っていうことだとか、そもそも欲望ってのが俺自身の反映に過ぎないなんてことになると、俺が俺に精液をぶっかけている、なんていうイメージが浮かんできて色々とラリってくる。

 

批判的観念論によれば、我々が物の中に見出すすべてのものは我々自身によって生み出されたものである。我々には自分を離れて世界がどのようなものであるかが分からない。そして、最も重要なことは、我々が物自体について無知であるのは、我々の知識が不十分だからではなく、感覚知覚という手段によって世界を正しく知ることがそもそも不可能だからということである。だからまぁ簡単に言えばサイキック能力は世界を知るためにも宇宙を知るためにも真理を知るためにも必要なんだってことなんだ!

 

でも哲学者はサイキック能力の重要性などを真剣に語らないので、結局、哲学はどん詰まりになる。サイキック能力や超自然的現象なども含むものを考察しない限り哲学はただの言語ゲームに陥ってしまう。くだらない人間ぐらいの頭が考えるものなんてたかが知れているので、だから哲学は廃れた。20世紀ぐらいにオワコンになった。

 

痩せた男の家が見えてきた。彼女はあのブーツでアクセルを踏んでいると思うと俺はアクセルになりたいと思う。人間椅子なんて凡庸な人間が考えるステレオタイプな変態だ。マジもんは常人に理解できない発想をする。だから変態なのだ。

 

奇麗に区画整理された住宅地の中に痩せた男の家はある。建ち並んでいるのは高級住宅ばかりだ。そして時折、豪邸と呼ぶにふさわしい屋敷が見られる。このあたりはかつて雑木林で、それをそのままそっくり庭木として残している家が多い。塀の内側にはブナやクヌギが生い茂っていて、道路に深い影を落としている。

 

その道路にしても、さほど狭くもないのに、このあたりはすべて一方通行だ。安全性もステータスの一つということか。ブーツで蹴る?ひどいことをするもんだ。でもこの彼女なら本当にやりそうだった。いや、もしかしたら追い込まれているのだろうか。医者はこういった話を辛抱強く聞かなければならないのだから大変だ。

 

彼女の薦める医師ってどんな男だろう?素敵だと言い切っていたから顔がいいのかもしれない。励ましてもらってかのじょの症状が軽くなったということは腕もいいのだろう。個人医院を開いているくらいだからお金も持っているかもしれない。つまり非の打ちどころがない。

 

天気は快晴。空は青い。黄色のバスについてはのその後は、まぁ、はいはい大丈夫、僕はそれが契約に至るものとしたい。毎回、アンヌのヒスタミンアーティストの、そして一日一回だけ服用する必要があることによって、僕と医師の救済を考える。その女性が彼女。ところで、おもしろいなって思ったんですけど、イエス・フォーメーションとは言わないんですね。ああそうだ、有名な話だし、今夜は両方かなあと思い出した。泉さん、お時間を割いていただき、ありがとうございました。

 

振り向くと痩せた男に凝視されていた。もしかして同じ話を最初から繰り返すつもりなのか。物語はやめてくれ。見えない学問を探したが見つからなかった。俺は教養ある人間だと思っていたのに。才能がある?そんなものどこにあるのか?どうしてですか?物語は終わったからだ。

 

俺はこれらの出来事からストーリーを形成する能力がないことを認めなければならなかった。作家というのは、立派なことを言い理屈をこねるものだ、と固く信じているに違いない。作家というものは、自分が記憶している事実を語ることができるものだ。物語?いや、物語はだめだ、絶対に。

 

「こんにちは。娘を返してほしい。彼女は愛子という名前です。身代金は支払いました。娘を見つけたい。24時間以内に電話をしてください」

 

「悪くはないのですが、何時ごろに連絡がつくといいのか、相談することは可能でしょうか?」

 

「こんにちは、愛子です。昨日の試合の結果です。ちょっと戸惑ったので調べてみますね。電話番号もわかりました」

 

「家族で淫らな対話の時間がありました。よく仕事の関係者から電話がかかってくるのでわからないのですが、電話で会うと、あたしは全然似ていないのでいつも驚かれます、だから聞き取りにくいのです。1メートル70で褐色というのはさすがにね、人に会うと言うからにはそういうことなのでしょう。想像していたのと全然違うので、驚いています」

 

「2は会社、3は終わり。この名前をつけた母が大胆に見つかりますように。これは彼女の連絡先です。子供とあなたの電話」

 

診察室は拍子抜けするほどにガランとしていた。仰々しい医療機器もなければ消毒薬の匂いがするわけでもない。あるのはどっしりとしたマホガニーのデスクに革張りの椅子だった。先ほどの女性が僕にソファを勧めた。病院でよく見かける丸椅子ではない。上品で柔らかそうなソファである。医師の席にある椅子よりもはるかに高級そうだった。

 

安心して遠慮なくソファに腰を下ろした。見かけ通りに気持ちのよい座り心地だった。僕が腰掛けるのを見届けると彼女はデスクを回って白衣を羽織り革張りの椅子に腰を下ろした。

 

もっともインスタントにブーツと脚だけを見て欲情することは可能だ。でもそれはポルノグラフィー的なエロスなのであって、即物的で観念的ではない。観念的エロスが即物的エロスに優るのは言うまでもない。彼女は観念的エロスの全てを持ち合わせている人間だ。こういう女性はそう多くはない。