行方不明の象を探して。その213。

先回りして振り返り、彼女の手を取って握ってみる。声や声が遠ざかると、また夏か沈黙か。鳴るはずの音が、私の体から離れる。川面に広がる無数の煌めく筋が、ひとつひとつ中洲に揚がっていくのを眺めていた。彼はほとんど無言で去っていき、無言に近い音が去ると、美しい真の静寂が辺りを照らした。そう、光だ。

 

木漏れ日が明るく輝いている。すべてが澄んでいて新鮮だ。そして明るい。木々の茂みもなく、密集した枝の影もなく梢から射し込む陽光は、暗さと重さをわずかに甘くする。梢の重さがほんのり甘い。ゆっくりと分解される葉の匂いは、かすかである。人の手には触れていない。まばたきをすると、朝の湿気のような、かすかな、澄んだ、新鮮な香りがした。

 

ドアを開け半裸のまま車の外に出た。彼女は外に出ようとしないので、腕を掴んで半ば強引に外に出すことに成功した。そして新たな場で均等さ、基本的エロス、性欲にドライヴされない愛、を誓って彼女の乳首を口に含もうとした。その時、目の前にまた例のガス体が表れて、眠りに誘おうとしている。しかし外気を取り入れた怖いものはないと思いながら、ガス体を無視して彼女の乳首を口に含んだ。

 

その途端、頭に赤ちゃんが母親のお乳を飲みながら寝ているイメージが鮮明に現れたかと思うと、眠りに落ちてしまった。気絶したというほうが正しいのかもしれないが、気絶に関しては物申したいことが色々ある。よく不思議な話や怪談などで、心霊体験や怖い体験にあった人が「気絶してしまって」という描写に出くわすことがある。しかし気絶するというのは尋常ではないことである。何しろ気絶するのだ。

 

どれだけの恐怖が現前していようが、それが原因で気絶するというのは相当なものだ。もちろん気絶する人もいるだろう。しかし怪談では気絶する人が多すぎる。「Aさんは気絶してしまって・・・」これは語りにおける映像で言うところのフェードアウトみたいなもので、辻褄を合わせるのに便利なのだ。だから気絶したことにして話を進める。しかし語り手はAさんが気絶したことで、リアリティが著しく消耗したことに気が付かない。皮肉なものである。

 

気絶だけはしたくなかったし、例の謎の赤ちゃんのビジョンがあったので、眠ってしまったという風に考えたい。しかし実際は意識が混濁し始めたときに、彼女が土から出てきたときの「ゴゴゴゴゴ」という地鳴りがしていて、彼女の乳を咥えながら地鳴りがする中、彼女とともに土の中に消えていったのであった。

 

気が付いたらそこにいたというのはプライドが許さないし、実際に「ゴゴゴゴゴ」という地鳴りを体感しながら土に飲み込まれていく体感をしっかりと覚えているし、完全に寝ていたわけでも気絶していたわけでもない。しかしどのくらい「ゴゴゴゴゴ」が続いたのかは分からない。

 

意識が割と鮮明になってきたのは「ゴゴゴゴゴ」が終わってから数分のことだったと思う。そこは中央に寺院のようなものがあって、その中央から四方に数マイルも広がっている大空間だった。そこは寺院の真上に浮かぶ巨大な放射物質によって照らされており、この大光球は有害な放射線を全く投射せず、生命力を与える有益な光線のみを送っているのだと彼女は土を払いながら説明した。

 

「光あれ」

 

言葉の登場に固まった。頭に響いている?彼女が発した言葉ではないことは明らかだった。少なくとも物理的な意味での音声ではない。ただの言葉だ。純粋なデータとも言える。それが全くの無感情、無機質であったのかというとその期待も外れた。声は声でないというのに聞き覚えがあった。

 

彼女の声だ。馴染みがあるのに違和感も覚える。正直に告白するとこの時の僕は不思議な高揚感に包まれていた。ソファに寝て僕に手を握らせ、落ちる、落ちる、炎の中に落ちていくのをとめてくれ、と叫んだ。あざ笑ういくつもの顔が見える、壁から現れて恐ろしい悪口を言う。壁の向こうから手が出て、僕を指差している、とも言った。そして誰かと話しはじめ返事をし言い返し笑い泣き叫んだ。とても興奮して、僕にいろいろと書きとめさせた。そういうのも全部書くようにしてるんだー。

 

「光あるところに影がある。でもおかしな話。誰も光なんて見ていない。影の形を見ているだけ。そうなると光って何?」

 

彼女の声に問われ、ほとんど反射的に思考していた。光とはなにか。波でもあり、粒子でもある。奇妙な魔術で光量子として結ばれた。直進し反射し屈折する。そして絵でもあり、言葉でもあるのだから、つまりは物語である。

 

そうか、と察した。服を着替えるとき、ポケットにテープが入ったままになっていることに気づく。書斎の椅子に座って、ブランデーを飲む。僕は立ち上がり、本棚の一部を占めているデッキにテープを入れる。椅子に戻ると机の上にあったリモコンを手にし再生ボタンを押す。カチリ。テープは再び回りはじめる。雑音が続く。

 

それは思わず声になり、照れくさそうな顔をしながらすり抜けるように走る。ノイズはやがて膨れ上がり、座ったままの空を若々しく青白く見せて、またその輝きを散らそうとしていた。部屋の急な階段を上る途中、彼女は振り返って手を伸ばした。高い段差の上にいる彼女と同じ身長の僕は、手を伸ばすことができた。

 

僕の中で宇宙への意識の旅やさまざまなものの降臨が繰り広げられ、信じられないほどの過渡期に身を置いているのだと思った。まとまったことを書こうと思ったが、過渡期も書くべきだと悟った。だが、何が現実で何が非現実かの境界がなくなっているわけで、以前のように何もかもを書くわけにはいかない。それは出し惜しみというわけではないがね。

 

まず、タロットだ。ここ三か月、タロットの勉強をしているが、結局、ウェイダーやマルセイユなどによる解釈は固定されており、それを中心に解釈する限り、広がりがない。ただし、ウェイダー版は強烈で固定的な絵柄があり、ウェイダー版が軸になる派生タロットが量産されている。しかし、基本的にはアカシックにアクセスするツールとしての役割があり、絵柄などは関係ない。しかし、時折関連性がある。

 

話はここで面白い。当たっていなくても、占い師がそれぞれの役割を果たしているならば、タロットが当たっているかどうかはどうでもいい話になる。それは悪質な詐欺でない限り、救済や悩みの解消があるならばだ。だが、どうでもいいわけではない。同時にどうでもいいわけだ。歴史もまた面白い。ウェイダー版がなぜこれほどメジャーになったのか、マルセイユ版では理解できなかった小アルカナにビジュアルを与えたことが一因だろう。ホドロフスキーが批判しているが、分かりやすさからタロットの普及に寄与した。

 

さらに、ウェイト版で占いをする人が多いという無意識の領域のデータベースも重要だ。これは元々存在していたものではなく、作り上げられた可能性がある。しかし、一定の精度があるため、無意識の領域に残る夏の日差しが彼女の立ち姿をきらきらと照らしている。太陽が昇ったあともかすかに残るクチナシ色の光の中で、彼女は屈託のない笑みを浮かべていた。彼女は軽く手を振ると、笑顔で歩き出した。振り返ることはなかった。

 

燃やして汗をかくはずの光は、やはりどこか縮こまっていた。彼女は盲目の酔っぱらいのような状態であった光は地上に降り注いでいる。光は良心もなく、呵責もなく、地上に降り注ぐ。まだ明るい。きらきらしている。真夏よりもほのかに甘く、木々の緑を燻す。木々の緑は煙のように黄ばみ、目に突き刺さるまぶしさが薄れることで視界がクリアになる。その鮮明さ、あるいは鮮明さの痛みは、何度も何度も鈍く、甘くなる。朽ち始めた葉が落ちる。そしてまた、朽ち始めている葉の甘さが、間髪入れずに空気に消えていく。

 

今、自分がいるこの場所に光はない。見ていたのは画像だ。完全に静止した画像の中にいるのだ。写真家絵画に閉じ込められたようなものだった。それが後継ではなくただの画像だと悟ると、見え方が変わってきた。空間ではないのだ。一枚の画像デーだけしか知覚していない。そこにいないのではなく、具体的に把握できないだけだ。通常、人間は一対の眼球で読み取った情報を脳で立体として処理し、自分の位置と状態を知る。それができていない。頭は脈略のない妄想を組み立てていた。でもいつものことだとも思った。

 

要は夢を見ている。夢と分かれば不安定さも居心地の悪さも解決した。空間の存在しない場所に立つことすらできそうだ。夢、ただの夢、念じれば叶う。

 

木々の影が銀色に跳ね返り、水たまりのひとつひとつに波紋が広がる。都会の雨の中の舗道は、突然、田んぼの泥のように柔らかくなる。都会にいる人間の8割は田舎者だから、雨が降ると都会が突然、田舎に感じられるのだろう。都会育ちの俺には分からんことだけど。雨の湿ったしめったにおいがじわじわと広がり、足がすくむ。間に合うかどうか、不安だ。自信がない。こんな気持ちになるのは初めてではないし、足元だけでもない。

 

え?そんなことを言われてもなぁ……一人で笑ってしまうのだが、どうしたらいいのだろう。今まで何度も尋ねた質問が、彼女の口の中で、ただの淫らな言葉になっていたのだ。虐殺の文法じゃなくて淫らな文法だ。彼女は意味がないことを言っているのに、ひたすらエロい。思考が止まらない。言葉が散り散りになっていくより、リブラットの光線のように降り注ぎ、突き刺さっていく。突き刺さる光線の青さにさらに分解されるよりも、いくつかの言葉を繰り返した方が救われるのだろう。