行方不明の象を探して。その214。

むしろ救われたい、どんな苦悩に苛まれるのか。僕の人生には何の意味もない。赤土に押し流されるように、キラキラと冷えたミネラルウォーターの香りがする。光の加減なのか、青白い顔を見ながら踵を返した。一体、どうしたんだ?どうしちゃったんだろう?そうなんだろう。エレベーターの中、鏡の中にはまだ傘があった。骨の髄までギシギシと軋んでみたい。あんまり書きすぎたり読み過ぎたりすると頭パーン!ってなるぞ!って脅されたけど本当っぽい。

 

駐車場に足を下した、と感じたのはこれまで自分が浮遊していたという認識と「ゴゴゴゴゴゴ」以降の物事を現実として受け止めていないからだった。それもおかしいといえばおかしい。おかしいことだらけだけど、さらにその上におかしいことが起こったので、とりあえずちょっと色々とまとめる必要がありそうで。その場に存在してもいなかったにせよ、それでも脳が辻褄を合わせるために錯覚を与えた。

 

カチリ、という音がして、テープは自動的に止まる。僕は笑う。残っていたブランデーを飲みほす。ブランデーじゃなくてウィスキーだった。アードベックね。満員電車。毎日、同じ時刻の同じ車両に乗る。知らない人間たちの間で押し潰つぶされそうになっている自分の身体。どうってこともない。感覚をわざと鈍らせてしまえば、簡単に乗り切れる。この程度のことなら。仮に絶望と言ってみたところで月並みな結構な答え、僕の立場にいたらだれでも言えるような答えを出したような感じがする。

 

しかしそれでは僕の答えにならないと思う。そしてどんなに一生懸命になってみたところで誰かの口真似をする限り僕の答えにはならないはずだ。自分自身のものでない以上、それは結構な答えとはいえない。自分の実感に即しているならば、誰でもいえるような言葉でもいっこうにさしつかえないと僕は思っている。しかし事実はどうかというと際限なくこのオフィスにとどまる見込みだとしても、絶望に似た感じはまるでないし、それどころかまるっきり感慨が湧かないのだ。

 

クリーム色を基調にした、こぎれいなオフィス。パソコンの画面。キーボードに置いた指が動くたびに現れる文字と数字。自分自身がコンピュータだ。そう思うようにしている。おかげで、仕事ぶりを注意されたこともミスをしたことも一度もない。夢中になって働くと決心したときの気持ちは、今も変わっていない。悪夢だ。

 

「ゴゴゴゴゴゴ」以降、意味が分からなくなって、あれほど反発していた気絶をしていた可能性。多くの錯覚は人間が正気を保つためにある。見ただけで理性が消し飛ぶような何かを気づかずに済ませるため。でもそれが起こりすぎたからどっか行っちゃった説。見てみたけどダメだったようで、やっぱり寺院があるだだっ広い謎の空間にいるのが確かなようだ。それだけならまだいい。いや、良くないか。彼女の声がデータとして脳に響くというのがさらに困惑させているので、それだけでもなんとかならないものか。

 

「人は通常、なにもしたくないの」

 

辺りが影に包まれ始めこの一角が暗くなるとキッチンへ行きブルーベリーを食べた。それから2階に上がった。昨日の夕焼けは、抽象表現主義的な夕焼けだったな。

 

「死ぬほど分かるけど、それがどうしたの?」

 

「そのままの話、理解できないわけはない」

 

「理解しているつもりだけど」

 

「お前は何者だ」

 

「こっちのセリフだ!」

 

「あたしを忘れるのは不可能よ。だからその問いは自分にしてみるべきね」

 

「意味が分からない」

 

「分からないのは意味ではなくて、何を問えばいいのかでしょ」

 

「同じことだ」

 

問答を続けながら彼女は徐々に体勢を変えた。そして言う。

 

「違うと思うけど。問うべき相手を知っていて、その究極の正答すら既に分かっていても、適切な質問が用意できていないからなにも理解できないって・・・おかしいようで、生きるって実はそんなことばっかり出くわす」

 

「話をするのに、いちいち御託を聞かされないといけないのか」

 

「そうよ。それが役割だから」

 

「役割?」

 

「そう思ってるだけよ」

 

彼女は耳元に手を当てて、風でも聴くような仕草をした。

 

「アイヤー、わかってる、わかってる。ここにいても仕方ない。家に帰っても意味がない。でも、もし他に選択肢がなかったら?でも、そうせざるを得ないとしたら?見失ったのかどうかもわからないし、どこにも向かって一歩も進めない。次に何をすればいいと思う?それすらもわからない。次の行動が限りなく遠くなる。わかってる。それが幻想であることを僕は知っている。この勇者の恋は短い複数の怒号み等しい。僕は薄く目を開けた。何もかも見えるようになったが蜘蛛やミミズの声が滝の音に混じっていた。なんじゃこりゃ!さらにどうしたらいいのかわからなくなった!このまま家に帰ろうかな。ゴーン!遠くで金を打つ音と途端に無数の音に包まれた。波の音、車の排気音。」

 

「話が長すぎて頭がおかしくなりそうだわ。もうやめて!」

 

「光の時間、浮遊する忘却の時間が一定期間なく続いた。僕は物を見た。目を閉じて、まぶた越しに赤い濁りを延々と見つめた。頭がズキズキする。日に焼けた垢のような塩辛い味と匂いが顔から先についていて、まるで海の真ん中にいるような気がした。僕は海辺の防波堤の暖かいコンクリートの上に腰を下ろし、むせ返ってたんだ。最後に点滅して地面に叩きつけられるその光に照らされたものは暑さで会釈を繰り返す。その無機質な光の余韻が何もかもを麻痺させる!」

 

「きゃああ!!!」

 

長く論ずることによって彼女にハッキング返しができるとは思いもよらないことだった。こんな風に画面に指を突き付けて吠えまくり椅子に座ったまま足をばたばた動かすが胃のむかつきがおさまらない。頭も体もどんどんヒートアップしてゆく。いきなりで申し訳ないが想像してほしい。夢が叶うということを。思い続け願い続けてきた夢が完全に叶うということを。

 

「あるんだろ切望感が、絶望感が」

 

確かに。それはあるね。何しろ多かれ少なかれ人間というものはだれしも人生の多様な心理を明らかにしてくれる特定の物語、小説につながっているのだ。時として大いなる慄きの中に読まれるこれらの物語のみが人間をその運命との関連において位置付けるのだ。それ故にこそ我々はこれらの物語がいかなるものたり得るかを、さらにまたそれによって小説が更新され、いや、というよりも永久化されることになる努力をいかに方向づけていくかを情熱をこめて究めていかねばならないのだ。