期待と絶望。

mimisemi2008-04-15

前に家に1週間ぐらい滞在してたルーム名との友達がタバコをカートンでくれたわけじゃない?ただ俺はタバコはやめたし、何よりハゲが怖いし、DHTが増える物質なんて発がん性がある物質より俺にとっては怖いものなんだけど、まぁクラスメートとかでスモーカーを見るとタバコを薦めてるのね。あ、ようは「買わない?」っつって売るんだけども。まださばききれてないんだけどね。


そんなこんなでまぁサンプル代わりとしてタバコを一本上げてるの。マイルドセブンね。で、気に入ったら買ってくれと。で、そのサンプルに手を出しちゃうのはドラッグディーラーがブツに手を出しちゃうのと凄く似ているわけ。ってことで最近、またタバコを吸いはじめてるんだけど、いや、もちろんやめるよ。とっととさばいてやめる。俺はタバコをやめれる人間なので。


ところでタバコと人生というのは凄く似ているわけ。というのもタバコを吸うという行為自体は、はっきりいってゆっくりとした自殺みたいなもんなんだよね。まぁ色々異論はあると思うけど、明らかに健康に悪い。肺がんになったり舌癌になったり脳梗塞を起こしたり・・・はっきりいってタバコにメリットなんて一個もない。でもタバコを吸いたくなるのは一時的な快楽のためなんだよね。タバコを一回覚えてしまうと、実質は人ってのは一生タバコをやめられないらしいんだわ。というのもタバコをニコチンレセプターが覚えちゃうのね。だからやめたとしても、このレセプターは常にタバコを求めているわけ。だからやめて20年にもなるのに、友達の海外旅行土産としてもらったタバコを吸いはじめたらまたスモーカーに逆戻りしちゃうのね。まぁニコチンの依存性ってのがメインな理由なんだけど、とにかくまぁ脳は常に潜在的にタバコを求めているということね。


で、これがなぜ人生に似ているのか?というと、最近よく書いているように、生きるということは常に死に向かっているということで、常に死へ階段を駆け上がっているわけ。だったら最初から生きなくてもいいのに、なぜ生き続けるのか?っていうと、それは単純に死ぬのが怖かったり、生きるという本能が死を許容できないっていう人間のアンビバレントな感情によるものなんだけど、タバコも同じで、吸えば死に近づくというのが分かっていても吸っちゃうんだよね。一時的な快楽とかリラックスを求めるために、あえて死により近づいてしまう物質に手を出しちゃう。人間が生きるということはタバコを吸うことと同じで、死ぬってのが分かってるのに、生に何かがあるだろうと思うっつーか、まぁ主に快楽だの愛だのっていう欲望が人間の生に駆り立てているわけだけど、このコストは絶大なわけだよ。生きるために好きでもない仕事をしなきゃいけないし、常に生きるということに疲れないといけない。で、ストレスに代表されるような、生きることで生まれるものを排除するために、快楽なりなんなりを求めるんだよね。だったら最初から生きなきゃいいのに生きるんだよ。タバコも一緒。


吸えば死ぬと分かっているのに、タバコのためにお金を払って、なんの特にもならない快楽を得ようとするし、それをリアリティーから自分を遠ざけるモノのように使うわけ。タバコには何も無いどころか害しかないというのが分かりきっているのに、その快楽のために吸うんだよ。皮肉なもんだよね。で、吸った後はちょっと気持ち悪くなったり、食欲が無くなったり味覚が無くなったりするわけ。しかも体はその有毒物質を排除するのにあくせくするんだよ。それが分かりきっているのにあえてコミットするというのは本当に生きることと同じだよね。生きるってことは体に害しかない。老化があったりストレスがあったり疲れがあったりして、客観的に見れば幸せが2割ぐらいで残りの8割は苦痛みたいなもんでしょ?この割合がタバコも一緒なんだよね。2割は脳への刺激とか快楽とかリラックスとかっていう幸せで、残りの8割は体への害なんだよね。はっきりいって意味ないからやめりゃーいいのにやめないんだよね。それは人間の生への依存と凄く似ていると思う。人間は一端っつーか生まれた頃から生きるということを前提に生きるので、基本的にその生きるという本能からは遠ざかれない。ニコチンも一緒で、レセプターがニコチンを求めるということが本能的にあるので、タバコをやめたところで、結局はやめられない。


タバコを散々吸った挙句、体を壊して凄まじい苦しい思いをして死ぬわけで、人生もそれは一緒なんだよね。目先の快楽だの自分がやろうとしていることを常に追い求めた結果、最終的にはその生へのツケが死という形で回ってくる。だから死ぬ寸前に苦しみに悶えながら「あーこんなことなら生まれなきゃよかった・・・」なんて後悔したところで遅いんだよね。タバコも一緒。末期がんになってから後悔してももう遅い。だったら最初から吸わなきゃいいのにね。だから人生って常に短期的な快楽を求めるだけの永久的な無みたいなもんなんだよね。快楽がなけりゃ生きていけないというのは、快楽が無ければタバコなんて吸わないというのと同じだもんね。でもタバコのほうがまだマシかもしれない。タバコには必ず脳への刺激ってのがあって、確かトリプトファンだかだったと思ったけど、まぁ快楽は保証されてるわけだよね。でも人生ってタバコみたいに害だらけの割に人によってはその快楽すらも無かったりするんだよね。なんのメリットも無い、ただの有害物質を吸うだけのような人生ね。これって最悪でしょ?


黒沢清の回路じゃないけど、生きるってことがどう死と違うのか、実は分からないんだよ。死は死んでみないと分からないから生の観点から死を定義はし切れないわけだけど、あの凄く俺が好きなシーンね、回路での、小雪が自殺しちゃってさ、廃工場で。んで加藤晴彦がガソリンを汲みに行くときに死と出会うじゃない?工場にある開かずの間みたいなところで死と出会う。で、死は死が安らぎなんかではなく、永遠の孤独だったと言っている。そこで加藤晴彦は持ち前のポジティブ精神で「俺はそんなのは信じないぞ!」って死を跳ね除けようとする。「そうか分かったぞ、お前を捕まえちゃえばいいんだな!」といって死に掴みかかるわけだけど、驚いたことに死に実体があったのよ。これってのは加藤晴彦にとって、その死が語る死は、あくまで人間の観念の中で作り出された不安(死)の権化みたいなもので、だから「俺は怖くないぞ。お前を捕まえてやる」とその実体のなさを暴こうとする。ただそこで実体があったので、死は確実に存在するということに気がついてしまうんだよね。だからもうこの時点で彼は死んだようなもので、まぁ実際、気を失って倒れていた床に黒い影が残ってたでしょ?死を知るってことは、人間ってのが究極的に言えば誰との関わりのない隔離された状態の中であたかも他者との関わりがあるように振舞いながら生きているっていう虚無性に気がついてしまうことと同意義なんだよ。


まぁつまりみんな疎外されているっていう回路のテーマの一つみたいな話なんだけど(マルクス的な意味ではなくて)俺は回路をリアルタイムで見たんだけど、この頃は本当に人生に絶望しきっていて、しょっちゅう死のうと思ってたんで、ずいぶんとこれに癒されたんだよね。あ、こういう疎外感を感じてるのって俺だけじゃなくて、みんな究極的にそうなんだよなって分かった途端、解放されたというか、別に自分が特別不幸なわけじゃないんだなって痛感したわけ。だからね、絶望が現実への処方箋というのは俺の経験から言えることなんだよね。絶望、もしくは死を知ってしまえば、もう何にも裏切られることがなくなるわけ。最近、書いている恋愛についてもしつこいぐらい言っていることだけど、基本的に人間がありもしない理想的な人生像だとか恋人像だとか、そんなものを作ってしまうから現実という名のリアリティに破壊されてしまうんだよ。人間の人生の実態が人間の脳の中にしか存在しないのなら、人間ってのは現実に対して極めて無力ということになってしまうよね。でもそうじゃない。世界は現象している。で、自分もその現象の中の一つにしか過ぎなくて、それはビル・ヒックスも言っていたように、人生ってのは自分という現象を客観的に感じていることなわけで、そこに幻想も減ったくれもないんだよ。あるのは現実だけなんだから、あるのは実存と諸現象だけなんだよ。人間ってのは快楽だとか幻想だとかっていうものを作り出して現実に対処するというか、現実から逃れようとするんだけど、そういうことばかりしてしまうと、どんどん人間の精神というのが脆弱なものになっちゃうんだよ。どんどん現実に対しての免疫がなくなっちゃう。そうじゃなくてとことんリアリスティックでいるということが絶望への対処の唯一かはわからないけど、まぁ手段なわけ。加藤晴彦は死に実体があるのでそれに恐れおののいてしまったんだけど、死を理解しちゃえばそんなことはないんだよね。そんなの知ってるけど俺は生きてるんだよってことが死との共存であるし絶望とか現実との共存なんだよね。逃げることではなく受け入れることが大事なわけ。


ってことで俺がなぜこんなに恋愛に苦しむのかは明白だよね。明日、まぁリア二千とようやく会えるかもしれないんだけど、明日会えるということより、もう来月には会えなくなるだとか、今週は木曜のクラスが無いから今週は明日しか会えなくて、んでその後、一週間ばかりの春休みがあるんで、しばらく会えなくなる・・・っていう、別に会ったところで何が起こるわけでもないんだが、この俺の中で沸々と湧き上がってくる「期待」というのが絶望を作る材料になるから苦しいんだよね。会いたいと本能的に思うことで報われないという苦しみが生まれる。だから俺は忘れようとするんだけど、生まれて初めてマリンカリンされてしまったので、なかなか忘れるのが難しいんだよね。これも煩悩といえば煩悩なのかもしれないけど、本当に今俺は煩悩に振り回され続けているって感じなんだよね。だったら最初から期待なんてのはないほうがいいわけよ。だから前の学校生活が懐かしくなってきちゃったんだよね。特に一週間何かがあるわけでもないんだけど、まぁとりあえず学校でやらなきゃいけないことをこなして、んで週末はゲームやったり読書したりして、ゆっくり過ごすっていうのが今は出来なくなっているってわけでもないんだけど、学校に過度な期待が出てきちゃったんだよ。火曜と木曜が楽しみでしょうがないんだけど、先が見えているから、楽しみと同時に絶望が襲い掛かってくるんだよね。タバコで気持ちよくなってるんだけど、体は蝕まれているみたいな感じだよね。絶望ベースの俺の生活に凄まじく明るい恋愛なんてものが介入してきちゃったんで、化学変化が起こっちゃってるっていうか、自分の生活の中では元々何も無いから何も期待しないっていう生活があるんだけど、期待の要素が出てきちゃったってことで、それによる絶望というのが立ち上がってきちゃっていて、んでそれに俺はなかなか対処しきれていないという状況なんだよね。すでに知っている絶望の数々とはもう友達みたいなものだけど、知らない絶望というか、凄まじい期待の元に成り立っている絶望というのは存在が大きいんだね。コントロールしきれない。ましてや人間って今まで普通にあったものが失われると物凄い喪失感を感じるらしいんだけど、まさしく今のリア二千の存在だとか、俺の観念レベルでのリア二千の存在だとか、それへの期待ってのが完全になくなるってことが本当に辛いわけね。観念レベルでは存在するんだけど、実質、目の前からいなくなっちゃえば、ないと分かっていてもする期待もできなくなっちゃうから、それが物凄い喪失感になると思うのね。


だったら最初からそんなものは所有しないほうがいいんだよ。贅沢品なんて買わないで質素に暮らせば失うものがないっていう考え方と同じね。生活のステイビリティこそ最高の幸せなんだけど、それを脅かすものの一つに人間の煩悩があるよね。で、今回は完全に脅かされてる感じだよね。火曜と木曜が来るたびに怖くて、んでそれがストレスになっている。まぁ会うのに緊張するというのもあるんだけど、はっきりいって今、感じているのは限られた時間がどんどんなくなっていくっていう恐怖感が大きいと思うのね。リアルタイムに自分の幻想を喪失していっているっていう感じだよね。これから1年やら2年は同じクラスっていうのだったら、まぁこれも長期的に見れば一時的なものだけど、でもこれだったら幸せだよね。実らなくてもとりあえず会えるんでそれで十分っていうね。ただ今ってもう限られてるわけよ。会える時間が。それが無くなっていってるんだよ。余命を宣告されているようなもんだね。だからこそ残された日々をかけがえのないものとして楽しもうというよりかは、失うことの恐怖感しかない。先が見えるからこそ恐怖って感じられるんだよね。だから俺みたいなのが鬱になったりパニック発作になったりするのは必然的なんだよね。鬱もパニック発作も死も許容できる俺が受け入れられないのが恋愛だなんて本当に皮肉だよな。自分の理想とそれが合致しなくなった途端、それはもう凄まじい暴力に変化するわけだよね。だからまさしく恋愛ってのは暴力なんだよ。マジで。これってのは理性とかでコントロールできるものじゃないんだって本当に今回は痛感したね。最近、しつこくてゴメンね。この話ばっかで。でも俺の頭の中でこれがドミナントなものなんでつい書いちゃうよね。たぶんまだ続くと思う。


俺ってのは本当にマスカキ王子だから、例えば来週の1週間の春休みに読んでない本を一気に読んじゃおう!とかゲームやりまくろう!とかさ、そんな根暗で慎ましいものを楽しみにするのが好きなんだよ。前に書いたけど、これには絶対裏切られないからね。本は本だしゲームはゲームだし映画は映画だからそれには裏切られない。アクチュアリティがあるものに期待というか楽しみにするってのは普通だよね。でも恋愛は別でしょ。本来ならその来週の春休みが楽しみだったはずなのに、今ではそれが一週間会えないという苦痛でしかないわけ。これってのはいかに恋愛が俺の個人領域に侵略して破壊活動を行っているかっていう良い例だよね。まぁ俺にとってはそんなもんよくもなんともないけどね。俺の地味な生活を破壊してるわけだよ。酷すぎる。今では食欲とか物欲なんかもコントロールできるようになってきて、それこそ煩悩に悩まされることなんて無くなってきたというのに、こんな酷い煩悩があったとはね。予想だにしなかった。あーもうハッピーマンデーじゃねぇーよ。ホント。まとめるとさ、あれよ、今感じている感情というのは明日、リア二千に会えるかもしれないんだけど、また学校行く前に緊張するだろうなってーのと、会ってもまた何も無いんだろうなっていう絶望と、明日顔だけでも見れたとしても一週間会えなくなっちゃって、んでなおかつ、サイコロジーのクラスも終わりにガンガン近づいていくわけだよねっていう喪失への恐怖感が交じり合って凄まじいことになってるわけ。あともちろん期待もあるよ。何も無いのは分かっているんだけど、でも会う前は緊張するけど楽しみで、でも会っても何もないから、帰りにまた落ち込むんだろうなっていうさっき書いたような期待が生み出す絶望への恐怖感ね。


ところで笑っちゃうのがさ、哲学のクラスで発言しようと思うと緊張するとかって書いたじゃない?前に。で、今はそうでもないってのはクラスに慣れてきたってのも当然あるんだけど、何よりリア後の世界観というのは著しく変わったわけね。というのは今までの些細なことで緊張していたことが、リア二千がもたらす凄まじいパニック発作と緊張に比べると全然たいしたことないっていう相対化ができるようになって、まぁようは極寒を経験したんで普通の寒さがどうってことないみたいな感覚の変化ね。ちなみに俺もこっちに来てから結構経つんでこっちの気候に慣れてきてて、だからちょっとでも気温があると暑く感じるんだよね。実際、ニューヨークの連中ってのは日本人の感覚だったら、まだ長袖だろっていうような気候の時に夏場みたいな格好してるのが多いんだよねっていうのは夏が短くて冬が長いから寒さに慣れちゃってるんだよね。古い例えで悪いけど、ドロンズが帰国後に「5度もあんのぉー!あちぃー!」っつって真冬なのにも関わらず半袖で汗をかいていたのと同じね。それが今、不安の世界で起こっているわけね。哲学の授業の最終試験の一つで、まぁプレゼンとライティングのどっちかって選べるんだけど、知らなくて俺は両方やるもんだって勘違いしててプレゼンを選んじゃったのね。だからもうそれが不安でしょうがなかったわけ。ネイティブの前でしかも哲学のことに関してプレゼンするなんて楽じゃない。でも今となってはそんなもん全然不安でもなんでもない。リア二千の不安に比べると全然たいしたことじゃないんだよ。


ってことでまぁそんな感じですね。まぁ学ぶことは多いんだけど、でもちょっと気分がカオスね。ホント、だったら最初から話しかけてくんなよなぁー!って感じよ。ホント。罪な女だぜ。本当に。ゲシュタルト実存主義に関しても知らないほうが良かったな。マジで。ゴシップ雑誌でも読んでてくれたらよかったのに・・・。あ、そういえばライドウクリアしたんだよね。ラスボスがロボットで興ざめだった。元々冷めてたからまぁいいんだけどね。で、こないだFFXFFX-2を買ってきたんだけど、予想通りムービーとムービーの合間にボタンを押すだけってゲームで、ほとんどゲーム性がないのねっつってもまぁレビューとかによれば後半からまぁ面白くなってくるらしいけど、ホント、あれじゃあ映画見てるのかゲームやってるのか分からないよね。FFX。プレイヤーが傍観者になってるだけみたいな感じね。なんかどうもPS2とは今のところ一体感を感じないな。それにしてもまぁFFXって完全にダイアログは英語がベストだねっつーかキャラクターが欧米人っぽいってのもあるんだけど、まぁ日本語のやつも見てみたい気がするんだけど、ライドウは完全に日本語のほうがいいね。ライドウっつーかメガテン系は絶対日本語のほうがいいだろうなって感じがする。

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