未規定性への恐怖。

mimisemi2008-04-28

両親とスカイプで話すたびに思うのが経済的なことね。俺の留学が凄まじい犠牲の上に成り立ってると思うとホント、ちゃんとやらなきゃなと思うんだけど、お金がかかってる割に学校の学科はリベラルアーツっていう、まぁ根本的な矛盾があるんだよね。俺が出来る限るの努力をしたところで、それは両親の期待に沿えるものじゃないっていうね。いや、まぁ両親は具体的な期待はしてないか。俺が進もうと思っている道への援助だから、具体的にどういったことを期待しているとかっていうのはないわけだけど、まぁなんだかなぁー・・・って思うのがまぁリベラルアーツの無駄の多さなんだけどね。サマークラスではサイエンスのクラスを取ろうと思うんだけど、別に取りたいわけじゃなくて、リクワイアメントなんでこなさなきゃいけないんだよね。それにしても俺ってなんかの病気なんじゃないか?ってぐらい興味ないことに努力がいかないんだよね。ADHDとかアスペルガーなんじゃない?ってぐらいダメ。で、不謹慎ながら俺が本当のキチガイというと失礼になるけど「障害」だと認定されると社会的なサンクションが働くでしょ?もちろんそれは社会が障害者に対して免罪符を与えるっていう、障害への理解が無いと実質それはサンクションにはなりえないんだけど、まぁとりあえず権威的な認定はされてるんだよね。鬱とパニック発作に関しては認定されている。認定っていうとあれだけどまぁそう診断されているっていうのかな。心療内科に行って診断されたときはそりゃ安心したものだよ。親はショックを受けていたけど、俺としてはこの狂った精神的な症状が何なのか?っていうのが定義できないんで不安なんだよね。見えない敵は怖いわけ。でも敵は敵でも敵の姿なりバックグラウンドなりが見えれば敵と認識しつつも共存していけるんだよ。それはシャンタル・ムフのアンタゴニズムじゃないけど、俺みたいな筋金入りのキチガイはそのキチガイ性と敵対関係にありつつ共存していかないとダメなわけ。それを完全に無くそうと考えるのは無理だから、俺みたいな筋金入りはスキゾな多元主義を精神面で保っていないと恒常性が保たれなくなっちゃって本当の意味での病院送りになっちゃうわけよね。


で、俺の深刻な問題である、気分障害とか鬱とかパニック発作以外の由々しき問題として普通のことができないってのがあるんだよね。っていうのはこれは前にも書いたけど、バイトなんかでも普通の人が出来ることが出来なかったり些細なミスが常に起こってしまって、それは気をつけていても回避できなかったり、あとは興味が無いことに全く意欲を向けることができないというのがね、仮にそれが必要性のあるものであっても本当にできないんだよね。これは自分がワガママというかジコチューというか怠け者だからだと思っていたんだけど、どうも周りを見てみると、どんな怠け者でも必要性があれば嫌なことでもやるんだよね。んじゃあなんで俺はこんなにまで出来ないんだ?やろうと頑張れば頑張るほど精神的にキツくなってきて頭がおかしくなってきてスキゾになっちゃって自殺したくなっちゃう。このやりたくないことに対する嫌悪感というのが半端じゃないんだよね。その反面、好きなことには異常に集中するというか、それだけやってても全く苦痛じゃないし、他では発揮できないような集中力が発揮できるんだけど、これってこうやって自分の問題を羅列していけばいくほどADHDっぽいっていうか、まぁ自己診断なんて絶対しちゃいけないんだけど、ただホント、キツいんで認定されたいみたいなのがあるんだよね。物凄い甘えとして。だからね、キチガイってボーダーラインみたいな中途半端な場所にいる人間ってのが一番辛いと思うんだよね。白ビル送りになるほど狂ってはいないんだが、かといって日常的な問題はいっぱいある。ただ障害者とは認定されないんで、普通の人間らしく生活を送らなきゃいけないっていう、その狂気というとあれだけど、障害と普通の合間にいるってのは辛いんだよね。パニック発作なら自分はパニック発作なんだって認知することで、その症状を具体的に察知したりしつつ安定剤とかの暫定的な処置をして共存していけるし、それは鬱でもそうだし気分障害でもそうなんだけど、この俺のアスペルガーというかADHDっぽいところに関しては本当に分からないんだよね。なんでそうなの?っていう異常なぐらいおかしいんだよ。かといって自分では絶対認定できないし、まぁ仮に認定されたところで別にどうってことはないんだけど、たださっきも書いたように「あ、そうだったのか」と思うことで
それと共存していくことができるようになるわけ。興味があること以外のことに能力を発揮できなかったり失敗ばっかしたり苦労ばっかりしても過剰に自己嫌悪に陥る必要が無くなるというか、自分を責める必要がなくなるっていうか、自分はそうなんだからしょうがないな、だから共存していこうって思えるようになるんだよね。だから認定されると安心するんだよ。腫瘍らしきものがあって違和感があるんだけど何か分からない。で、検査したら良性の腫瘍で特に問題は無かったっていうね、それってその腫瘍を取り除くっていう処置ができたり、その腫瘍を作らないような対策が出来るじゃない?それが具体的に何かが分かると安心するってのはこういうことよ。何か分からないってときが一番怖いんだよね。


俺って過去に脳波異常があったりさ、小さい頃から変なことが頭で起きていたりして、まぁ放っておけばいいんだけど、でもなんだか気になるんだよね。俺のこのおかしさというか、自分でも嫌になるぐらいのダメさ加減っていうのはなんなんだろう?っていうね、それはパニック発作にしても鬱にしても、原因が分からなくもないんだけど、でもなんでこんなにおかしなことが脳で起こりまくるのかな?って凄く思うのね。パニック発作とか鬱の本を読んでても「鬱は治ります」とか「パニック発作は然るべき処置をすれば改善します」とかって書いてあったりするじゃない?だとすれば俺の鬱とパニックはなんなのよ?って話よ。難治性どころかもうこれが自分の構成要素の一部みたいになっちゃってるじゃない?で、オートポイエーシス的におかしいシステムが生成され続けるっていうか、生成というよりかはそれが構成要素なんだよね。俺の中の。だから治る治らないの次元じゃなくて、それが俺の精神構造なんだよってことに帰結しちゃう。だからもうこれは納得するしかないし、こういうハンディを抱えててもなんとかこの世の中でやっていかなきゃいけないんだけど、それにしても俺が普通だったらいいのよ。鬱とパニックを抱えている普通の人だったらいい。でもどうやら俺って性格というか気質というか中身までおかしいんだよね。まぁ何を今更って感じだけど、今週一週間休みだったじゃない?で、ゲームとか本を読みつつ内省する時間もあったりするからさ、色々と思うことがあったのね。だからなんつーかね、とりあえずあれなのよ、鬱とパニック発作とかって俺の異常性とは切り離して考えないといけないなって凄く思ったわけ。自分が変わっているというか狂ってるからこういう精神疾患に悩まされているんだというよりかは、鬱とパニックってのは何らかの根源的な要素を構成している二次的なものでしかなくてさ、もっと深いところに何かがあるんじゃないか?って思ったりしたのね。でもそれが何かが分からないんだよ。脳がもうおかしいっつーか脳に疾患があるのかさ、もしくは何かを機会に頭を打ったとかで後天的におかしくなっちゃった脳の場所があるとかさ、そういうのがあれば納得出来るじゃない?そういうのがあればいいって思ってるわけじゃなくて、原因を探りたいって凄く思ったのね。寝る前にも大量に薬を飲まないと寝れないし、鬱病の薬は常に飲んでるし、不安定になったら安定剤飲まなきゃいけないし、まぁこんなのもう何十年とやってるから別に今更惨めだとかって思わないんだけど、でも何が原因なのかな?って凄く思ったんだよね。色々なものが交錯してその症状が出てるってのはもう分かりきっているんだけど、何らかの根源的なものってのがあるんじゃないかな?って何回も書くようだけど思うわけよ。人と違うのは素晴らしいことだなんて普段から言ってるけど、こうやって自分の時間が有り余ってて色々考えると物凄い疎外感を感じるんだよね。それは一週間家に引き篭もってるからとかそんな表面的なことじゃなくて一週間一人でいるから自分の中で自分っていうのがドミナントなものになるでしょ?誰とも会わないし外にも出ないしやらなきゃいけないことが無いわけじゃないんだけど普段よりは無いんでずーっと自分主体の生活が送れるようになるとさ、自分の異常性に気がつくっていうのもね、今日みたいな明日から学校がまた始まるって思うとそこに社会っていうか普通が俺の中に介在してくるわけよ。で、その普通モードと自分モードが自分の中に混在するようになると、その自分モードの独自性というか自分が物凄く普通モードに照準を合わせないと普通にやってけねぇーなって凄く感じるようになるわけ。それは普段は無意識にやっていることなんだけど、今回みたいに休みが長いとそのスイッチの切替の存在性が顕著に現れるんだよね。それは普通の人がやるようなプライベートモードから学校モードへとか会社モードへみたいなそんな緩いもんじゃなくて、自分が不安になるぐらい凄いスイッチなのよ。だから明日から普通の生活が始まると思うとすげー不安なのよ。それは学校が嫌というよりかは自分のモードを保持しすぎたために普段保たれていたノーマリティみたいなのがどっか行っちゃってて、それを取り戻すのに大変と感じている自分の異常性に気がつくんだよね。


なんでこんなに大変なの?っていうね。普通の人の感覚ってのは分からないし、あまり自分が変わってると考えすぎるのも主観的過ぎてよくないんだけど、でもまぁーそれにしても
一言で言うとダメだよなっていうね。それは自分の世界にいる分には感じないことなんだよ。今回みたいに自分の世界と外の世界との境界線っていうのが露わになるような状態になると凄く感じるんだよね。いや、まぁなかなか伝わらないだろうね。休みが長かったから学校モードにするのが大変としか見えないよね。そんなの誰にでもあるよっていうね、でもそうじゃないんだよな。別に全ての異常性みたいなのに必ずしも定義が必要とは限らないんだよ。でもなんか今週はホントになんつーか定義が欲しいなって思った。別にそれでその症状に甘んじて生きていけるという意味ではなくてね、それが何なのか?ってのを明らかにすることで、何なんだ?っていう敵が分からない不安感というのは無くなるんだよね。で、それと共存していけるっていうさ、まぁ今でも共存していけばいいんだけど、ただどうもそういう自己診断をして共存していくというのはそもそものファンデーションを自己診断でやっちゃうとそれって危険じゃない?鬱とパニックはオーサライズされてるからいいんだけど、他の事で分からないことが多いんだよね。ただそれって常にアンタッチャブルなままなんだよね。そういう性格だからっていう妥協もできないってーのは妥協するほど軽度だからじゃないんだよ。重度なんだよね。本人はそれに苦しんでるわけ。普段は自慢してるっていうか違うってことが良いみたいに書いてるけどさ、それってニーチェ的なさ、そういう何かを打ち立てる人間ってのはダメ人間ってことなのよ。ダメじゃなかったらそんなことを思う必要は無い。普通にやっていけばいいんだから。でもどうもやっぱりどう考えても普通じゃ無いからその異常性というか違いを自分の中で肯定していくしかない。まぁ今までそれを自責し過ぎてきたから、もういいじゃないのっていう経験的な開き直りがあるんだけど、でもそれって自分の異常性が無くなったわけでもなんでもなくて、それを容認できるようになっただけなんだよね。でも完全に容認するためには自分の精神を完全に理解してないとそれは結局のところただの逃げというか回避にしかならなくなっちゃうわけ。アンタッチャブルなところがあるけどいいじゃないってのはそれと向かい合ってないでしょ?向かい合ってこその逃げるが勝ちなんだよね。だから俺はそういったニーチェ的な負け犬哲学も確立できてないっていう、すんげー中途半端でどうしようもないやつなんだよ。だからといってんじゃあそのほかの色々なおかしいところが社会的に容認というか診断されたところで逃げるが勝ちになれるんですか?っていうともちろんそうではないんだけどでもあれなのよ、自己満足的に安心するってのはさっき書いた診断されたときに親はショックを受けていたけど、俺は心底安心したっていう、そこなんだよね。だからやっぱそれと共存していくためにはその対象を明らかにしないとダメだと思うんだよね。でも日本の精神医学とかって相当遅れてるらしいし、カウンセリングとかいってもさ、素人に毛が生えたようなのが高い金取ってやってたりするじゃない?だからいつまで経っても根本治療が出来ないんだよね。って意味でもう俺の精神に関してはもう頼れるところが無くて、だからもう自分しかないんだよね。だからこそ知りたいって思ったわけ。でもそれって結局素人判断になっちゃうからさ、だから下手に定義したりできないよなって凄く思うわけで、まぁなんか凄くこういうのがジレンマなのよね。下手に人にこういうこと言えないしね。それは「甘えと怠けだ」って切り捨てられて終わっちゃうから。まぁ実際甘えにしか見えないのも分かるんだけどねぇー。いやームズイよ。マジで。「でもみんな少なからずそういうところを抱えながらも頑張って克服したり努力で乗り越えていくのよ」とかそういうクリシェはもう聞き飽きたって感じだね。こういうのを聞くたび普通の人への憧れってのが強くなっていくんだよね。「あーこんな暢気なことを言えるのは普通だからだなぁー」って凄く思っちゃうってことで普通ってのは本当に楽なんだろうなぁーって思うわけね。だからあれだよ、あんまあれよ、真剣に悩んでる人に一般論は絶対言わないほうがいいよ。予想以上に本人は傷ついてるからね。でもこういうのを精神科医とかが言っちゃうんだから問題だよね。あー北里大学病院思い出した・・・。また嫌な思い出が・・・・。もういいや、やめよっと。

Full English Breakfast

Full English Breakfast

http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=265346