カリスマ。

mimisemi2008-06-07

ドッペルゲンガーを見たと言ったけども、カリスマも買ったんだよ。ドッペルゲンガーを買ったときに。で、やっと見たんで、また耳蝉なりの勝手な解釈で色々とカリスマについて書かせてもらうことにするわ。これは基本的にまぁ国家というか国を森に置き換えた話なんだよね。ある国があって、そこにはカリスマと呼ばれる指導者がいる。ただその指導者は民衆のことを考えずただひたすら独裁政治を続けるわけだけど、その独裁政治によって人々はほぼ死に絶え始めているというね。

で、まず人々の役割を書いてみようかな。

まず木を守る男ね。

木を守る男というのは基本的に象徴としての独裁者である木を守り続けようとするんだけど、この木というのは恐らくこいつの親父の形見なんだよね。ようは親父が元独裁者で、その象徴として親父の残した木が残っていると。で、その未亡人の母は木が撒き散らしている毒によって病を患っているわけだけど、息子はそれを認めようとしないし、親父が正しかったと思っているし、自分のイデオロギー的にも国が滅びようとも一人の強い権力者が君臨していればそれでいいし、俺はそれが好きだと言うわけ。親父が独裁者だったというのは山菜を一時的に食べなくなったことで、いきなり病気が回復した(?)未亡人が主人公に語りかける病院についてのことから想定できるっていうのも、旦那は病院長だったわけだけど、自由ということは口にはしなかったし、考えもしなかったみたいなことを言うのがあるじゃない?そこから推測できるわけね。まぁこれが無くても十分、カリスマが毒を撒き散らしながらも君臨し続けるというその存在自体が独裁者を表しているので、まぁこれ自体に問題は無いんだけど。で、当然、森ってのは国で、木々というのは人々ね。カリスマが人々を苦しめているって、まるで小泉みたいだよね。独裁的だった親父が残した独裁者の象徴としての木を守り続ける息子ってのは、基本的に既得権益で政治をやり続ける金正日みたいなもんだね。分かりづらいかな?映画自体が分かりづらいから解説するのも面倒だね。で、別に療養所の院長だった親父(と思われる)が実際に独裁者として森に君臨していた
わけではなくて、独裁的なアイコンを持っている親父と、その親父が残したカリスマという木というのが映画のナレイティブになっているわけね。


次はふぶきジュンね。

で、ふぶきって変換出ないから以下ジュンにするけども、ジュンは国においての知識人を表していると思うわけ。ってーのは基本的にジュンはこの国というか森がカリスマの毒によって完全にダメになっているから、この生態系を戻すためにはすべてを根絶しないといけないって言っているわけね。これは恐らく物凄く合理的で科学的な根拠に基づいた判断なんだけど、やり方としてはかなり残酷というか、ようは全てを根絶やしにしないとダメなんて穏やかじゃないよね。そこを俗人を象徴するノンポリの妹は「姉は気が狂っている」というんだけど、これは俗人が知識人のラディカルな国家論なり政治理論を「狂ったもの」としてしか理解できないという浅はかな知能を象徴していると思う。その証拠に妹は歳の割に子供っぽいし、家でもファッション雑誌みたいなのを読んでいたりして、ジュンの知識人というか教授っぷりとの対比が凄いんだよね。姉がこれで妹がこれかい?っていうね。で、ジュンは森を一旦根絶やしにして生態系を戻そうとしているわけだけど、これはまぁ既存の国のあり方を一切排除して一から作り直そうというRPGとかによく出てくるような破壊的創造者みたいな役割を持っているわけね。


で、問題の主人公。

もう書きたくてたまらないから書いちゃうけど、彼は革命家なんだよね。しかも森とは違う場所から来た稀人的な革命家。毒が回りきっているはずの森に生えている大笑い茸を食べても平気な革命家・・・というのは基本的に森に生えているキノコというのはこれに関しては人々(森)の認証を受けているという風に俺は思ったね。で、後になると大杉漣だのなんだのっていうやつらはキノコを食べて死んでるからね。これは森からの拒絶なの。で、主人公は全く森についての事情は知らない外部の人間としてくるんだけど、カリスマを崇める木を守る人と生態系を含めた森全体を考えるジュンとの間を行き来しつつ、ニュートラルな立場を取り続けるんだよね。ただ外部からの人間がカリスマを持っていこうとするわけだけど、この外部の色々な人間は海外からの侵略者とも言えるんだよね。カリスマが邪魔なんで取り除いちゃって、んで新しい何かを森に作ろうっていうような、なんというか植民地的行動をしている海外の特派員というと変だけど、まぁ後日、軍隊を連れてきているのを見るとまぁアメリカのイラク侵略みたいなもんなんだよね。でも主人公はカリスマを守るんだけど、ただ味方でも敵でもないっていうわけ。元々、主人公は侵略者側の世界にいた人間なんだけど、森に住んでいることで変わってきているんだよね。それどころかカリスマを育てようとするわけ。


ただまぁひと悶着あって結局、ジュンとその娘がカリスマを焼いちゃって、全部パーになっちゃうんだけど、ここで主人公は主人公の分身とも言える新しいカリスマを見つけるんだよねといってもこれは以前の毒を撒き散らすカリスマではなくて、普通の枯れ木(主人公)なわけだけど、主人公はこの木をカリスマと見立てて育てようとするんだよね。ただ独裁者の息子であった木を守る人は、カリスマでもなんでもない木を守ることに何の魅力も感じないし、ジュンもこれはただの枯れ木だと分かっているんで、どうでもいいっていう。ただその木を1000万で買い取ろうとする外部のエージェントが現れるんだよね。これは海外のエージェントがこの木にカリスマ性を感じたんで危険を察知して買い取ろうとしてるんだよね。で、まぁジュンの妹が1000万奪ってドロンしちゃって、んでも金なんてどうでもいい主人公にとっては、木がどうなろうがこうなろうが、もう本人の哲学曰く、「なるようになればいい」ということで金には執着しないわけ。殺すということがあるから生きるということが成立するし、生きるということもまた殺すということで成立している・・・というパラドキシカルで相互的な考え方を主人公はジュンから学んだんだというんだけど、主人公の帰結的な考え方としては両方あっていいんじゃないか?ってことなのね。殺すのか生きるのか?という二者択一ではなく、カリスマも森も両方生かすっつってもそれがカオティックになっちゃうとダメだから、まぁその調停をするというかなんというか、それが政治だろうっていう。で、森(国)だの法則だのなんだのっていうのは基本的に人間が考え出した想像の産物でしかなくてっていうのはちょっとアンダーソンっぽいけども、まぁそれは置いておいてもだよ、我々はただの木だと。森林に聳え立つ一つの木というのを人間に例えているわけだけど、これは基本的にルソーっぽいっつーか、まぁ人間は生まれながらにして自由であるべきっていうようなのを俺は勝手にカンジタのね。


そんな革命的な帰結にたどり着いた主人公は独裁者の息子から「あんたがカリスマだ」って言われるんだけど、これはまさしくメインの話の表象の一つで、カリスマがいた森に新たなカリスマがやってきて、その役割を継ぐというか担うというか、ただ前のカリスマが独裁的であったのに対して、新しいカリスマ(枯れ木)は毒を撒き散らすこともなく、ただ生きるだけっていうその辺の木と変わらないカリスマなんだよねっていうのが表すのは、特別ではないパンピーが自由的な国家の指導者になるというような意味を持っていると思うわけ。ここでカリスマの定義が変わるんだよ。前は独裁的でパワーのあった木をカリスマと呼んでいたんだけど、今は枯れ木をカリスマと呼ぶわけ。枯れ木はそれ自体にカリスマ性はないものの、内部にウェーバーの言う縦の力みたいなのがあるという意味だとカリスマであるし、それは前のカリスマとは違ったまた別の形のカリスマってことね。


で、ジュンがただの枯れ木なのにそれを気に食わないってことで空気のボンベだかなんだかで木を爆破しようとするでしょ?そこで主人公は「そんなにただの枯れ木が憎いですか?」みたいなことを言うんだけど、これはジュンの権力への欲望を表しているわけ。ジュンはただの大学教授というか国で例えると知識人でしかないわけだけど、地味な活動と見た目とは裏腹に自分が森を変えるんだというような一種の誇張されすぎた野望を持っているんだよね。自分としては合理的なことをしているつもりだし、それは一般的にも認証されやすいようなことなんだけど(科学的・自然学的な事実に立脚した行為であるので)根底には野望があるんだよね。自分は特別だというか、自分はメシアなんだと。だからジュンはカリスマを焼くし森を全て死滅させて生態系を戻そうとしているんだよね。で、自分が一からの国家の指導者になるんだ・・・って思ってた矢先に新たなカリスマが出てきてしまって、その夢が壊されちゃうというか、自分の思い描いていたビジョンとは違うものが出てきちゃうわけ。ただこのカリスマは以前のカリスマとは違って人畜無害なんでどうでもいいはずなのに、ジュンはそのカリスマのカリスマ性に嫉妬をして、爆破しようとするんだよね。私がカリスマなのよ!と言わんばかりに。その意志の強さはボンベを直接ハンマーで叩く行為によって読み取れる・・・というのは、ジュンが正気を失っていたとはいえあれが爆発したら大変だっていうのは分かっているのに、自分はカリスマと一緒に爆死しようとしてたんだよね。


で、主人公が止めに入るんだけど、主人公にとってカリスマである木はただの枯れ木なんで、そんなにぶっ壊したければぶっ壊せばいいと言わんばかりに銃でボンベを撃って爆発させちゃうのね。それはこんな木なんてありふれているんで破壊したってどうってことないという考えの表れだと思うんだけど、これをきっかけに主人公がカリスマに栄養剤だかなんだかを注入して生き返らせていたのが実って大地から芽が出てたんだよね。これは自由の芽と解釈していいと思う。独裁者もいなくなった枯れきった森に咲いた芽・・・というのは退廃した国に生まれた希望の芽・・・というと陳腐だけど、まさしくまぁこれが自由の芽というわけだ。で、また例によって海外からのエージェントがその芽を奪おうとするんだけど、主人公はそれを守るんだよね。守るというか、成り行き任せで阻止するというか。またこのあっさり銃を撃つ感じがたまらんよね。で、終わりでは主人公が「そちらに戻ります」っていうんだけど、カリスマが育てた自由の芽は街にも飛び火してクーデターが起こっているっていうね、自由を知った国民が既存のシステムの破壊に躍り出ているというわけで、まぁクーデターというよりかは暴動なのかな。


で、話は前後するけど、木を守る人は俗人であるジュンの妹をあっさり殺して1000万を手に入れて、そのお金を元に亡命しようとするんだけど、軍隊らしき車から拒絶されるんだよね。これはまさしく亡命の拒絶を表していると思う。信念を持ってカリスマを育ててきた一見、高尚に見えるようなこの木を守る男も実は普通の人間だったっていうのが痛々しく後半で描かれているよね。カリスマを失って自分の生きる目的がなくなっちゃったんだからさ、で、亡命しようとするわけよ。で、たぶん新たな軍事的で独裁的なカリスマの下につこうと思っているんだけどダメなのね。で、絶望すると。


繰り返しになるけど、大杉連ともう一人がキノコを食べて死ぬっていうのは人民の反抗を表しているわけね。お前らはお呼びでないので出て行けっていうような、物凄い拒絶なわけ。これと対照的なのがさっきも書いたけど序盤で主人公がキノコを食べても死なないっていうのは稀人である革命家への人民による認証なわけ。まぁトリップという名のおもてなしとでもいうのかな。


うわーなんかごっちゃごちゃでわけわからないね。書きたい事だらけでまとまらないわ。ただ色々とロジカルにまとめるほど俺は頭が良いわけじゃないからさ、これで我慢してよ。

で、序盤のフックについての解説をするね。恐らく世の中の法則を取り戻せという世の中で言えばキチガイ的な犯人が代議士を人質にとってるよね。これは犯人がこういった世界革命的なステイトメントを出しつつ人質が代議士というのが政治臭さをプンプン匂わせていると思うんだけど、結局、主人公は両方助けようとして両方死なせてしまうんだよね。でもさっき書いたように後半では両方とも共存していけばいいという以前は失敗してしまった哲学を成就させるんだよね。犯人は森で言う最初のカリスマ的素質を持った人間で、代議士は既存のありふれた政治家というわけ。で、ポイントなのは毒を撒き散らす木であるカリスマが大陸から来たレアな種類の木ってことね。これはカリスマが主人公と同じく海外から来た稀人というのを表しているわけ。で、次のカリスマ(枯れ木)も森とは別の場所から来た関係の無い稀人ってなわけね。


なんかすんげーごちゃごちゃだな。ただまぁ俺の勝手な解釈だとこの映画は凄まじく政治的っていうことね。森から大笑い茸によって認証された主人公がトリップしながら軍隊風の曲を口ずさみながら森を一人で行進するシーンとか、ホテルを見つけたときに「なんたらホテェール?」なんて英語風な発音になりつつ、廃墟と化したホテルにたどり着いたときに「エクスキューズミー?」なんて言うシーンはまさしく主人公が外部から来た稀人で、森は稀人にとっての全く違う外部の世界というのを上手く表していると思ったね。これらに見られるように序盤では稀人フラグがビンビンに立ちまくっているわけ。ジュンと木を守る人とのニュートラルなやりとりは右翼と左翼のイデオロギーを行き来するように解釈できるし、稀人が敵対しあうもの同士の間を行き来するという役割は黒沢の用心棒を彷彿とさせるっつーのは関係ないかもしれないけど、木を守る人は国粋的ナショナリズムを反映するかのごとく、外部からの侵略者に刀で応戦するし、コメディ的な、木を守る人と大杉連らによる気の抜けた殺陣っぽいシーンもあったりしてね、映画自体がオートポイエーシス的にシーンがシーンを生成している感じね。でも基本的にシーンが新たなシーンを構成するというのはハードゲイおしどりカップルコンビのマトモスの2002年のどっかの大学の講義でもあったようにっつーか何が言いたいのかっていうと、マトモス本人達としては音楽にコンセプトは無いっていうわけ。ただ例えば相方がラテックスのTシャツをムギュムギュさせる音を使って何かを作ろうと思ったとしたら、そのムギュムギュと鳴っている音自体が音楽のヒントになっていて、で、例えば次にラテックスTシャツを弾いてドラム風の音にしてみようだとか、んじゃあアフリカ風のドラミングにしてみようだとか、最初から論理的で構築された構造があるわけではなく、ワークインプログレスという状況自体が次の状況を作り上げていくんだよね。だからそういった意味で黒沢清の映画はある特定の解釈なりコンセプトがあるというよりかは様々な解釈ができるし、抽象的なところが多い分、鑑賞者に解釈が委ねられているところみたいなのもあって、それはなんというか鑑賞者が能動的に映画鑑賞にコミットしていけるような下地を作っていると思うのね。


あと政治の話じゃないのに、あえてとしか言いようがないような政治臭さについてだけど、木を守る男に特に顕著なんだけど、このカリスマの生態系が好きだと言うこの男が「本当に賢い人間は服従を求める」だの「木を守るためには軍隊が必要だ」だの、カリスマという映画自体は全くといっていいほど政治臭さを感じさせないのにいたるところに政治的メタファーが隠されているっていうのが俺がカンジタ政治臭さなんだけども。あえて軍隊だの服従だの自由という言葉が抽象的な概念として出てくるのも、その背後にある政治的コンセプトを示唆する記号的存在としての役割だと思うのね。


あと書かなきゃいけないのがジュンと主人公の生態系に関する会話ね。主人公はカリスマの生態系の事実をジュンから聞かされて、懐疑的になるっつーのも、カリスマという木一本のおかげで森が殲滅するというのがどうも納得がいかないんだよね。というのはまぁこれは普通考えると思うんだけど、仮に一本、そういった毒素を発するような木があっても、森全体ということを考えると、例えば木の生態系がその毒素を発する木に対して防衛的な反応を示して、例えばその毒素にやられないような生態系を作り出すとか、その木が邪魔なのでその木を枯らすために森全体が抵抗するとか、そんなのがあってもいいはずなのに、カリスマ一本によって森が全滅しかけているんだよね。で、ジュンは「なぜ森が何も言わず死んでいくのかが分からない」という。これはまさしくカリスマという独裁者に対する森(人々)の盲目的服従を表しているわけ。普通に考えればカリスマという一本の木というか、一人の人間如きに人々が全てコントロールされて死んでいくなんて合理的じゃないんだけど、人々はそれを受け入れるかの如く、何も抵抗せずにそれを受け入れているんだよね。だからジュンは「人々がなぜカリスマに抵抗しないのか分からない」と言っているわけ。まさしく今の日本を表しているというかなんというかさ、全然抵抗しなくて、んで生活のクオリティが下がっていって、んで飢え死にする人とかも出てきてるのに誰も抵抗しないんだよね。これはこの映画でどんどん木が倒れていく様子と全く同じだと思う。まぁこれを独裁的政治への服従と捉えることもできるし、全体主義的政治への服従とも捉えれるんだけど、まぁ両方だね。抵抗しない森というのがポイントね。


大体書きたいことは書けたかもしれない。全くまとまっていなくて支離滅裂としているけども。まぁまとめると、木を守る人はカリスマを守る側近みたいな感じで独裁や軍国主義なんかを肯定するようなイデオロギーの持ち主で、まぁあえて比較として言うならジュンはリベラルな知識人で、全体主義というか独裁によって国は完全にダメになってるから毒を撒いてでも一旦国を壊しちゃって、んで本来の自然的状態を取り戻そうとしている、まぁ結局はラディカルな革命家なんだよね。映画ではそうは見えないけど、やっていることは相当ラディカルで、ある意味でメシア的。そこに表れる主人公は稀人的な革命家で、イデオロギー云々というよりも、人々が生きるということを前提に国家を考えているような人間で、ある意味では究極的な自由主義者かもしれないし、ある意味ではアナーキストかもしれないし、ある意味では究極的な個人主義者かもしれないわけ。ただとにかくアナーキズムというタームでのアナーキーということではなく、なるようになればいいという自然状態ではカオスになってしまうので、そこに調停役が必要だと言っているんだけど、それがまぁカリスマの役割なんだよね。で、大杉連とかあの外部からの人間は海外からのエージェントね。まぁ無政府状態の国を植民地にしようとしているか、もしくは指導者を消して植民地化しようとしているような、まぁアメリカ政府みたいな連中ね。ジュンの妹は俗人を表していて、国家がなくなった後は、横取りした1000万を元手にどっかに行こうとするんだけど、成り行きで木を守る男に殺されちゃうのね。この妹の主体性のなさというのは、まさしくルソーの言う超越的な存在としての一般意思が必ずしも文明社会を築くわけではないというのをよく表していると思う。いや、ルソーは一般意思が超越的な存在として信じていたんだと思うんだけど、今の日本みたいな体たらくな国を見てみると烏合の衆が集まったところで民主主義もへったくれもないというのはよく分かるよね。そこでルソーが立法者という神みたいな存在を出してきたことが結果的に一般意思というのは必ずしも正しくはないというのを逆説的に証明してしまったわけだし、これらの考えが何気に独裁政治に繋がってしまうというアイロニカルな状況を作り出してしまったんだよね。だから今回のカリスマという映画にしても、帰結は主人公というかまぁ枯れ木が革命を起こすわけだけど、その後の国というか森の行方に関しては分からないんだよね。でも最初のカリスマが焼かれたときに、確か物凄くデカイ木が空に届くかのごとく育っているシーンがあるじゃない?主人公が見ている幻覚というか未来というかさ、あれはたぶん新しいカリスマ(枯れ木)の何万年後だかのビジョンだと思うんだよね。あれが見えた主人公はリテラルにVisionaryなわけだよね。


あとはなんだったっけな?もう無いかな。書くことは。まぁとりあえずそんな感じです。俺の解釈は。自分としては全然飛躍してないのね。全然これで満足しちゃってるわけ。

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↑俺アンセムです。原曲は普通のボーカルハウスなんだけど、ケニー君のリミックスが凄まじいのです。プエルトリコを知ってるかい?