近状報告などのエトセトラ。

mimisemi2008-06-09

近状報告を。


あれね、前のセメスターが先月末に終わって、んで一週間ぐらい間があって、んで今はサマークラスっていう、まぁ夏期講習みたいなやつを取ってるんだけど、単位にならないリーディングクラスね。補修の。で、コースが始まる初日に実力試験みたいなのを受けるんだけど、なんかさ、それにパスしかけてたんだよね。出来は良くなかったし、何より無理やりコースを取らせるかのごとく、明らかにテストをやる時間が少ないんだけど、それでもパスしてたんだよ。で、なんでパスできなかったかっていうと、テストのやり方間違えててっつーか、先生のインストラクションが悪くて、んで多数の生徒がテストのセクションBってのを空欄のまま出しちゃってね、俺もまぁそれで落ちたってわけ。なんでこんなことが起きたのか?ってそりゃ説明するのが面倒だからいいや。


まぁとにかくね、あれなのよ、んでまぁ簡単に書くけど、簡単な自己紹介みたいなのをやるのよね。クラスが始まる前に。で、まぁなんのために大学で勉強するのか?みたいなのが先生からの質問であったりするんだけど、そこでまぁ俺は革命家って答えたのね。そしたらまぁこっちはアメリカだからジョークは通じるんだけど、それにしてもこの先生っつーか女の先生なんだけどね、インド系っていうか、親が移民で本人はアメリカで育ったっぽいけど、なんか自分が学生だった頃は相当左翼だったらしいんだよね。それこそプロテストとかね、あと学校の授業料が高くなったとかで反対運動をしたりだとか、まぁ色々やってたらしいんだけど、まぁそれが70年代の後半から80年代の前半までだったらしいんだけど、あれなのよ、先生が勝手に盛り上っちゃってっつーかすんげートーキーな先生でさ、すんげー声がでかいんだけどね、俺は結局、革命家のままなわけよ。「自分のリーディングにおける問題は、興味が無い文章に対して、一切集中が出来ないということです」なんて説明したらね、「革命家っていうのは過去を見ても分かるように、幅広い知識を持っていないとダメなのよ。それこそ知識に対して貪欲じゃないとなれないのよ」みたいな答えが返ってきたりして、まぁ別に訂正する必要も無いかなと思ってずーっとクラスの始まり以来、革命家のままなんだよね。俺。


で、なんかあれなのよ、俺の英語が上手いらしいんだわ。っつーか音読とかさせられるんだけど、スラスラ読むもんだから、先生が唖然として「貴方のIQはいくつなの!?」なんて聞いてくるわけ。まぁ俺は嬉しかったけどね。ずーっと馬鹿だと思ってきたし、馬鹿だといわれ続けてきたから、嘘でもちょっとした天才扱いされるのは嫌な気分ではない。で、「こっちには何年ぐらいいるの?」って聞かれたんで「二年です」って答えたら、これまた驚いててさ、なんかまぁ他にも色々あって、勝手に天才扱いされてるんだよね。基本的に算数のクラスとかと変わらないね。補修クラスのヒーロー耳蝉。あくまで補修クラスというのがポイントね。で、何が書きたかったかっていうとあれなのよ、二年ですって言って驚かれるのってさ、若さとかと一緒で「18歳です」とか言うと「若いのに色々とよく物事を知ってるねぇー!」なんて褒められたりするじゃない?でもそれって18だから言われるんであってさ、二十歳過ぎちゃったら言われなくなるわけ。英語も一緒ね。まぁ今までもそうだけど一年とか二年とかって答えることで「その割に上手いね!昔、アメリカに住んでたとか?」なんて聞かれるんだけど、それはなんつーか一年とか二年の割にはってことなんだよね。文字通り。親にも言われるからね。サイコロジーと哲学のクラスの成績がAだったんだけど、そうすると親も「二年しかそっちにいないのに学科でそんだけいい成績を残せるなんてたいしたもんだ!」ってもっと子供の頃にこんな風に褒められたかったなんて思うんだけど、まぁ褒めてくれるんだけど、ここでもキーポイントは二年なんだよね。あくまで二年の割りにだから、仮に四年いたらもっと凄い結果を残さないと「たいしたもんだ」なんて言われなくなるんだよね。まぁね、あれだけどね、自分でも褒めてあげないといけないのよ。確かに二年の割にはよくやってると思う。ただでも常に恐ろしいんだよね。あくまでこういう評価ってこっちにいる年数が低い割にっていうことで高くなっているだけで、別にやってること自体が凄いわけじゃないんだよね。いや、繰り返しになるけど、褒めてあげないとダメだけどね。俺って異常に自信が無いし自分で自分を褒められない人だし、その割に褒められたいとか他者から認められたいみたいな意思がやけに強いみたいな、最悪なコンプレックスの持ち主なんだけど、まぁ二年だろうが四年だろうが褒められてるんだから、それはそれで認めればいいんだよね。


ただどうもね、冷めてるっていうか、所詮二年だからってことだからでしょ?とか、他の人には失礼だけど、二年制大学だからでしょ?とか補修のクラスにいる人間の割にってことでしょ?とかっていうような分析というと大げさだけど、ある意味まぁリアルな概念というのが常に頭の中にあるから浮かれることが出来ないんだよね。ちょっと頭がいいやつが浮かれられるっていうか、ちょっとした結果を残しただけで有頂天になれるのって、基本的に凡人だからなんだよね。凡人がちょっと頭が良いっていう場合のケースはよく勘違いをするし、クラスで褒められたってだけなのに、それが自分のステータスになったり、最悪、そういうのを死ぬまで自分の自慢にしてたりだとか、あとちょっと物事を知ってるだけで、自分は誰よりも物知りだみたいに勘違いしたりね、自信を持つことってだから馬鹿じゃないと出来ないことだよなって凄く思うのね。井の中の蛙というのも大海という概念が頭に無いから井の中の蛙でいられるんであって、大海を想像できる脳があったら、基本的に自信なんて持てないんだよ。だって世の中には優れた人なんていっぱいいるわけでしょ?いや、いっぱいいるわけじゃないよ。人口の3パーセントとか5パーセントぐらいかもしれないけど、でも世界人口の・・・って考えるとまぁいっぱいいるよね。ただね、まぁそんな風に考えていたら、いつまで経っても自信がつかないから、だから自分を認証してあげるっていうプロセスを踏むためにも、例えばこうやって褒められたりしたら、それはそれで褒められたんだから素直に受け止めようと思っているんだけど、これがまぁ難しいんだよなぁー。コンプレックスを持てるってことは自分が能天気な馬鹿じゃないってことは分かるから、馬鹿かもしれない・・・という恐怖感は無くなるんだけど、逆にそれはコンプレックスが強すぎるからホメオスタシスが保たれないんだよね。ちょっとは能天気なところがあってもいいのに全然無いんだよ。なんかこれって俺のドライな恋愛観とか人生観とかとすげー直結することだと思うんだけど、でも別にニヒリズムに陥っているわけじゃないのよ。リアリスティックだからこそこういう風になりがちになっちゃうわけ。だから結局、セルフエスティームは「自分はたいしたことない」っていう状態をキープしたまま進まないわけね。これはホント、打開していかないといけないなって凄く思うわけよ。ここ最近。褒められるのはいいことなんだけど、褒められて有頂天になれない自分が悲しいんだよね。「あなたIQいくつ?」なんて聞かれるなんてもうあれよ、毎日聞かれたいぐらい嬉しい質問なんだけど、質問を聞かれたときにもうすでに自分は質問を受けている主体ではなくて、質問を受けている自分を観察している主体になっちゃってるのね。だからそこで色々な条件がその場で一瞬で浮かんじゃって有頂天になる間すらも無いわけ。その条件ってのがさっき書いたことね。所詮補修クラスだとか二年制大学だからだとかっていうようなことね。でもその先生は驚いてくれているわけだから、それはそれでいいじゃないかって思うんだけど、俺のゴーストがそれを許さないんだよね。だからいつまで経っても自信が持てない。


まぁいいや。この話はちょっとまた今度にしよう。最近、あれなのよ、また本を色々買ってきちゃってね、で、ダメなのよ。あんま他の事ができない感じになってるんだけど、まぁあれだ、色々書くと長くなるんであれなんだけど、ウケたのがね、いつも行くイーストヴィレッジの本屋あるじゃない?で、そこでまぁ何冊か本を買った後にね、本屋の外にあるディスプレイの前でまぁウォークマンのCDが終わったんで変えようと思ってんでまぁディスクを変えてたらね、ディスプレイってーのがあれなのよね、セールの本が並んでてね、で、なんかあれなのよ、それがハリーポッターとか脳内革命みたいなやつじゃなくて、普通に良さそうな本ばっかなのよ。で、なるほどねぇー・・・とかって眺めてたらね、ラカンのエクリがさ15ドルとかになってるわけ。結構分厚い本で40ドルぐらいするやつなんだけど15ドルって安いな!と思ってゲットしなきゃと思って本屋に戻ってさ、んで店員の姉ちゃんにセールの本をくれって言ったらまぁ奥に並んでるっつーんでセールの本置き場にいったら平積みされてるのね。ラカンのエクリが。なんでウケたかっていうとたぶん内容がわけわからないから誰も読まないんだろうなって思ったからなのね。しかも高いしね。ましてやアメリカって大陸系の哲学とか概念っていうのがあまり好きじゃないっつーか理解しようとしないっていうか、あとあれなのよ、ビッグワードが大嫌いだし、前にも散々書いたけどシンプルなフォームの文章が一番だと思っている国民だからフランス近代思想系なんてもってのほかなんだよね。それでもまぁこの本屋は哲学とかがすんげー強い本屋でね、デリダとか本の列の二段分ぐらいあったりね、まぁ良い本屋なんだけど、それにしてもまぁーあれなのよ、こうやって買う本って多いよね。とりあえず今の時点では英語力が無さ過ぎるんで読めるわけないんだけど、いつか読めるようになるだろうと思って見かけたらとりあえず買っておくみたいなやつが前から結構あるのよ。


で、結局、今も読んでないって本がかなりあるんだよね。で、こういう本って難しいのが多くて、結局それって英語力どうこうってより俺の脳どうこうって話になっちゃうんじゃない?最終的に?っていうような本も多いんだよね。前に書いたっけ?ドゥルーズスピノザについての本とかね、面白いんだけどややこしいんだよね。で、途中でやめちゃったんだよね。こういうのが結構あるんだよね。英語ってよりかは俺の脳のキャパを超えているから無理なんじゃない?っていうような感じの本ね。まぁ俺は英語さえなんとかなれば読めると思っているから諦めるつもりはないんだけど、っつーかあれだわ、ちょっと自由に使えるお金があったからDVDも勢いで買っちゃったんだけど、何を買ったかっつーとピアニストと中国女と死者の書っていう人形劇とクリス・マーカーのサンソレイユともう一本の短編が入ってるやつ買ったんだけど、サンソレイユってすっかり忘れてたわ。今回買ったやつなんて死者の書以外は全部実家にVHSでダビングがあるやつなんだけど、それにしても結構内容忘れてるなと。サンソレイユは大好きなのは分かっているけど、イマイチ内容が思い出せないっつーかね、たぶん映像見れば思い出すんだろうけど、とりあえず印象としては物凄く自分が好きな作品っていうのがあってね、で、まぁ買ったわけ。あ、でもなんとなく思い出してきたな。まぁいいや、んで中国女なんだけどね、たぶんこれは俺がゴダールの中で一番好きな作品だと思うんだけど、改めて見るとあまりの青臭さに呆れてしまったね。初めて見たのが18ぐらいの頃だったから、とりあえず何かのイデオロギーにかぶれながらアパートでなんやかんややってるっていうだけでワクワクしたものだけど、今見ると酷いな。これ。初めて見た後は一瞬で毛沢東語録を買ってきて読んだりしたけど、思えば俺の共産趣味の出発点ってゴダールなんだよね。キッチュなモチーフとしての共産主義っていうかね。


で、これってさ、改めて見て思ったんだけど、ゴダールってマルクス・レーニン主義だとかマオイズムだとかを皮肉ってこれを作ってたのかな?ってことね。アンヌなんたらがさ、それこそ世界中の青臭い若者が考えていたような薄っぺらいイデオロギーを電車の中で披露するじゃない?で、作家だか大学教授だかに論破されるっていうのが後半のシーンであるじゃない?あれって象徴的だよね。とりあえず中国みたいに大学封鎖してみるとかさ、ロシアの革命がそうであったように、何かの行動が革命に繋がるので、自分は爆弾をしかけるだのテロを信望するだのさ、子供がイデオロギーっていうおもちゃを与えられて遊んでたっていうようなのが過去の学生運動とか世界での左翼的な運動の数々だったと思うんだけど、そういう60年代的な薄っぺらさがすげー上手く出てるんだよね。これ。で、最終的にロシアの要人を殺すとかでさ、んで文字を読み違えて他のやつを殺しちゃったとか、これまたアホなミスをしちゃったりしてさ、んで「ひと夏の恋は終わった」かの如く、ブルジョワ家庭で育った子供達は解散するわけじゃない?あの盛り上がりから虚しい終わりまでがすんげー象徴的なんだよね。それこそポストモダンで言うところの「大きな物語」だよね。共産主義っていう大きな物語の中で戯れていた若者達っていうさ、その空虚さがすんげー上手く出てるわけ。ましてやブルジョワっつーか中流で育ったガキどもがさ、アパート借りてブルジョワチックに優雅にお茶を飲みながら本を読んでたり、言葉遊びをしてたりするわけじゃない?すんげーアイロニーだと思うんだよね。これは反共産主義映画ですって言われても納得できるぐらいアイロニカル。


ただ思うにゴダールってそこまで頭良くないから、あれは素でやってたんだと思うんだけどね。革命的な映画を作りたかったとかって言ってたような気がするんだけど、まぁマジだったのかな?結果、ゴダールの青臭さがあの映画の表れだとするなら、逆にゴダールが意識的に共産主義やら革命に燃える若者達を皮肉ってたりしたのだとすれば、そこまで上手くいってたかは分からないよね。ゴダールが素でやってたんで、当時の薄っぺらい共産主義に燃える人達ってのの青臭さがモロに映画に出ちゃってて、今見るとアイロニカルに見えるっていうね、そういうような鑑賞者に対する再解釈というか脱構築的というかそんな鑑賞のアプローチの隙間があるような作品に見えるんだよね。だから当時、学生運動をやってたようなおっちゃんがこれを見ると恥ずかしくなるとかさ、そういう効果があると思うんだよね。で、俺としては明らかにアイロニー的な解釈と共産趣味的観点から鑑賞しているわけで、最高のコメディ映画という風に見れるっていうね。で、ちなみに俺と似たような中国女の見方をしているんだろうなって思える人の一人に駕籠真太郎がいるんだよね。駕籠真太郎の作品には共産趣味的なものがあったりするんだけど、それの一つに明らかに中国女がモデルになってるような話があってね、しかも万事快調も混ざったりしてるやつなんだけど、なんてタイトルだったか忘れたけど傑作なんで見てみて。万事会長みたいなセットの中で革命だのなんだのって言ってる若者達がいるんだけど、結局、セックスしてるだけとか喧嘩してるだけとかっていうようなやつなんだけど、これ読んだときに本当に感動しちゃってね。あー俺と似たような見方をしてる人が世の中にいるんだなぁーってね。もちろんそりゃいるんだろうけど、その辺歩いててゴダールの中国女のアイロニカルな鑑賞について話せる人とかっていないじゃない?まぁだから間接的に似たような人に出会えたなって感動したわけだけども。そういう意味だとまぁアイロニーという意味だとウィークエンドも傑作だね。これはまぁ自明的なコメディだけど、まぁでも退屈だよね。


あとあれ、死者の書ってのはまぁググってみてほしいんだけどNHKでやってそうな人形劇なんだけど、こういうのがアメリカでDVD化されてるって凄いよね。まぁある意味で文化を享受するという点から言えばそれこそポストモダンじゃないけど、鑑賞者からしてみればもう国境なんて無いんだよね。俺だってフランス製のメガネしててさ、ウォーホールのバッグとさ、キクチタケオの服を着つつ、ジーンズはリーバイスで、んで靴はジョーダンっつってもAJFっつージョーダンとエアーフォースが混ざった、それこそハイブリッドな消費を象徴するかのようなモデルのスニーカーを履いててさ、んで日本の扇子で自分を扇ぎつつ、言語学の本を読んでるとかさ、何もかもがごちゃごちゃで、んですんげー消費的だよね。俺はそんな過剰な消費をしているつもりはないんだけど、自分が好きなものを着たり読んだり見たり聞いたりしていると、物凄い強度のハイブリッドなものに囲まれているっていうような状況が生まれるのね。で、こんなんでバーガーキングとかでバーガーを食べつつコークとか飲んでたらそれこそポストモダニズムそのものだよね。ましてや環境がニューヨークっていう特殊ば場所で、必要に応じて日本の食材とかも買えたりしつつ、んでもめっちゃアメリカンなファーストフード店がいっぱいあったりしてさ、英語の本も買うんだけど、でも紀伊国屋もあったりするわけで、これってすげーミックスアップだよね。


ようは自分が求めるものに対するアクセシビリティとアバイラビリティが半端じゃないから、自分の傾向性というのがダイレクトに物質的に見た目とか生活とかっていうライフスタイル全般に表れるのね。しかもそれが相当顕著な形でさ、ましてや俺みたいに流行とか全然気にしないで勝手に色々やってるやつとしては余計にそういったものが極端に表れるんだけど、でもこっちの場合、周りに合わせる必要なんて無いから、まぁそれが出来る環境っていうのもあるんだけど、それにしてもまぁすげぇーなってDVDを買った後にウェンディーズでバーガーを食べながら思ったりしてたね。ましてやこっちでそこまで拘束されきらないようなスケジュールで学生やってるとこういったハイブリッドな生活というのが自然な形で送れるんだよね。何を今更って話だけど、それこそ黒沢清のDVDを買えたりさ、ピアニストとか中国女と同時に死者の書のDVDを買えるなんて凄い状況だよなって改めて思ったんだよね。で、別にこれはニューヨークに限った話じゃないんだけどね。別に日本でもそれは出来るんだけど、俺っていう勝手な人間とそういうのにウェルカムなニューヨークって場所が、俺の勝手なコスモポリタニズムに拍車をかけてるなって思ったわけ。何かから価値観なりライフスタイルなりをインポーズされることはないので、主体性さえあれば、これほど良い場所ってなかなかないと思うんだよね。これでこっちで仕事を得て人生逃げ切ればオッケーじゃんってすげー思っちゃった。人生の意味とは??死とは???なんて考えたりするのも全部逃げ切りのプロセスに入ってるっつーか例えばウェンディーズでバーガーを食った後、久々にソーホーのウェンディーズのすぐ向いにあるスタバでアイスコーヒーを飲みつつ4時間ぐらいずーっと本を読んでたんだけどっつーか奥の席があってね、そこがまぁ前にCanalストリートの近くの英語学校っつーか例の姫がいた英語学校の帰りに寄って理解できようが出来まいが英語に慣れるために英語の本を読むために時間を過ごす場所ってのがあるんだけど、なんか妙に懐かしいっつーか、すんげー自分の場所なんだよね。ましてやいつも何時間といるんで、自分の家みたいな愛着感があるっていうかさ、まぁホント、この席で本を読むのって久々だったんだけど、ホント、勝手な生活だよなぁーって思っちゃったね。ましてやスタバの搾取に加担しているわけじゃない?それはナイキの靴を買ってもそうだしねっつーとそもそも先進国で生活なんて出来ないんだけどね。


で、本を読んだ帰りっつーかもう11時ぐらいだったんだけど、夜のソーホーっていうとかっこいいけど、まぁ夜のソーホーを歩きつつさ、こういう生活の強度って凄いなぁーって改めて感じてたんだよね。そりゃ些細なことで嫌なことはたくさんあるよ。今のルームメイトとかね。でもさ、本を読んでも必ずしもその本の内容が全部頭に入ってるってわけじゃないし、いつかは忘れるんだろうなーとかって考えると全てが虚しくなるんだけど、でも集中して本を読んでるときとか、集中して本を選んでるとかDVDを吟味してるとか、体に悪いと思ってても食べるジャンクフードの味とかさ、居慣れた席でコーヒーを読みながら本を読んでる時間とかさ、もうそれ自体がそれでいいじゃんって思っちゃったのね。んじゃあ今日の結果は?っつーと無いんだよ。まぁピアニストのDVDを買えましたとかさ、前から欲しかった本が買えましたとか、本を読んで勉強になりましたとかさ、一個一個見ていけば意味が無いことばっかりなんだけど、でもこれが楽しいんだよね。読んだ内容がどっか行こうが、DVDを買ったことでお金が無くなろうがさ、それらが本当に自分の好きなことで選んでやってることなら、それでいいんだよね。むしろこういうのを確保するために仕事しなきゃいけないんじゃないか?ってすげー思ったわけ。糧というよりかは、こういった強度のある時間を過ごすための元になるお金っていうか、そういう時間を作れる仕事に就くっていうかさ、それさえ出来ちゃえば後は逃げ切れるじゃんってめちゃくちゃ思うわけよね。例えば俺のこの日みたいな生活をもちろん週末だけでも出来ればもう人生に勝ったようなもんだよね。読んでる本がややこしかったりとかさ、やりたいと思っていることがややこしそうなことだったりしても、強度の確保というのは意外にシンプルだったりするんだなって思ったよね。だから読書なんかもその知識が役に立とうが立つまいが、知りたいことを知れたとかさ、英語にしても英語の本を読んでまぁ恐らくまた改めて英語に慣れただろうなとかさ、語彙を覚えたなとかさ、そんな自己満足でもいいから、何か自分を満たせるものというのがあるというのは幸せだよね。


常に自分の実存の欠落を埋めてくれる何かというのが存在するわけでさ、それに対して向かって強度のある時間を過ごしつつ、結果としてはさっき書いたような英語に慣れただろうなとかっていう自己満足的な意味合いをつけたりして、自分の諸行動を合理化するんだよね。それが傍から見て時間の無駄であっても、自分にとって意味があったりすれば、もうそれはそれでいいんだよね。誰かが口出しできる問題じゃない。これってのはあるところで自分を騙さなきゃ成り立たないことなんだけど、でも全てをあまりに現実的に見すぎるとさっき書いたような、例えば「あなたのIQはいくつなの?」って言われたことに対して本当は嬉しいのに嬉しく思えないみたいなさ、そんな自動的な認識の癖がついちゃうんだよね。じゃあそれ自体を受け入れればっつーのは、例えば誰かから発せられた言葉とか、過ごした時間によって得られた充実感とかっていうのを自然に受け入れることでよい気分になったりできるのであれば、とりあえずそれはそれで受け入れていけばいいんじゃない?ってことなんだよね。これって行き過ぎるとセックスは気持ちよければいいみたいな話になるんだけど、でも何かの享楽的な感受性に対して考えすぎないということは人生の強度を確保する上でかなり重要だよね。生憎、俺はこういった享楽を自然に享受する癖が身についてないんで、あえてやっていくということが必要かもしれないわけね。簡単に言うと「楽しかったなぁー」ってことをに対して野暮ったい分析をしなくてもいいじゃないってことね。昔から俺ってそうなんだよね。前にも書いたけど、子供の頃とかにさ、ディズニーランドのエレクトリカルパレードみたいな、楽しいことの象徴みたいなのを見ると、どうもその裏側が気になっちゃって悲しくなっちゃうっていうのがずーっとあって、だから今、書いたスタバの帰りで思ったことは、これって子供の頃から何気に
地続きなんだなってことと、それに対して悲しい感情を抱かないことが俺には必要だなってことね。子供の頃はそうだったけど・・・じゃなくて、今でもそうだから、どうも悲観的というかニヒルになりがちなんだよなって思ったわけね。スタバで本を読んでいたことが、ディズニーランドのパレードほど楽しいものでは無いんだけど、ただどうも「楽しい」ということの裏側にある虚無性というのを見抜いてしまう癖というのが昔からあるから、それはそれで楽しかったんだったらそれでいいっていう風に、なんというかあることに対して意志が反応したことに関しては、まずそれを認めるってことが大切だなってことなのね。特に悦楽みたいなことに関しては、それに対して素で受け止めるような心が無いと、どんどん内面が荒んでいくだけのような気がしてるんだよね。


なんかあれだわ、結局あれね、書こうと思ってたことが全然書けないどころか相変わらず話が脱線しまくって長くなったんで今日はこの辺で終わりでいいや。


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