攻殻機動隊イノセンス。

mimisemi2008-06-11

英語の補修のクラスは相変わらずグダグダっつーか、3時間以上、休みなしでずーっと続くわけで、ダラけるのも当然だし、なによりこんな長い時間をかけてやるほどのものでもないんだよ。基本的にやることといったら語彙だのなんだのっていうやつをドリルでやるとかね、そんなもんばっかなの。俺としてはとっととACTテストだかを受けさせてもらえればいいんだけどさ、ホント、狂ったシステムだよ。で、しかも最近ね、こっちは南からの熱波が来てるとかで、いきなり気温が35度とかになってて死ぬほど暑いのね。母親が元秋田美人だったというのは書いたけど、コーカソイド系の血が混ざってる俺としては当然肌が弱いんで、昔から直射日光には当たれない皮膚の持ち主なわけだけど、夏の能天気な直射日光には本当に呆れてしまうね。だから目立つけど日傘をしてるんだよ。俺。そうしないと肌にブツブツが出来てさ、酷いときは水ぶくれみたいになっちゃうんだよね。「コーカソイドだぜ!」って自分のホワイトネスを自慢しているわけではなくて、物理的に肌が弱いんだよ。


ってことで様々なエクスキューズによって今日は学校を休むことにした。教室は微妙な冷房が効いているだけだし、ただですらユーズレスなクラスなのに、ましてや暑いと来たらさっぱり集中できないわけだよ。そういえばこの補修のクラスに割と綺麗な人がいるんだけど、ロシア人なんだよね。ロシア人っつーかあの北欧系ってやっぱ綺麗な人が多いよね。ポーランド人とかさ、なんか突き抜けたクオリティを持っている感じがする。で、この人ね、すげーロシア訛りの英語を喋るんだけど、特に可愛いのが「I think」っていうまぁ「私が思うに・・・」っていうようなさ、まぁ何かを喋るときの頭になるようなのってあるじゃない?まぁI thinkなんだけど、この人ね、ここで「I think so」って言っちゃうんだよね。何も言ってないのに頭で勝手に終わっちゃってるわけ。もちろんI think soの後にあたかもそれがI thinkのように喋りだしたりするんだけど、このロシア訛りの英語がたまらんのよね。シュルシュルしてるっていうか。スペイン語訛りの人達はケパサっぽいんだよね。rがラになっちゃったりして。日本人は言うまでもないけど、あとイタリア人とかもすんげー訛りが酷い。それに比べてドイツ人とかフランス人とかポーランド人は母国語との関連性があるのか、まぁ発音が似ているのかっつーかまぁ前にも書いたように特にドイツ語とフランス語なんて英語の親戚みたいなもんだからさ、まぁこれって訛りとは関係ないけど、そこまで酷くないんだよね。まぁウンツェゲンドゥランクっぽい訛りではあるけども。フランス語訛りの人達はpとかが可愛い。特に姫が"ポリティカルサイエンス"って発音したときの訛りっぷりは可愛くてその言霊を食べたくなったぐらい。オドレイの2001年ぐらいの英語でのインタビューみたいな感じね。笑えるんだけど可愛いんだよね。でもこれって顔が可愛くないと成立しないから不公平だね。


あとロシア人は名前ね。まぁ本名書いても別に問題ないだろうから書くけどっつーか別に友人のロバートがとかさ、マークがとかさ、ジョーがとかって書いたところで散々アマゾンのやつでも書いたように、これってただの誰かを表す匿名的な記号なわけじゃない?これ自体が固有性を持っているわけではないので、個人を特定するような条件を含んでないんだよね。まぁいいや、で、この今のクラスのロシア人の女の子っていうか女の人なんだけど、名前がコステンコとかって言うんだよね。コステンコ!なんつー名前だ!すげーロシアっぽい名前。もうこの名前自体が大好きね。いや、顔は別にそこまでタイプじゃないんだけど、まぁ綺麗な人なんだけど、名前がコステンコでロシア訛りってすげー得点高いよね。


まぁいいや、んでさ、鳥居みゆき風の背徳感を味わってるわけよ。外は死ぬほど暑くて、しかもそんな気温なのにも関わらず数名はクラスに出てるわけよ。そんな中、俺はクーラーの効いた部屋でアイスコーヒーを飲みつつ読書をしてるんだからさ、この背徳感は凄いよね。すんげー悪いことしてるような気分になるんだけど、特にこの夏場の背徳感はたまらんね。ましてや読んでる本が日本語だったりすると余計に興奮するね。だってクラスではつまらない英語のリーディングを強制させられているわけじゃない?そんな中、俺は自分の部屋に篭りっきりで日本語の本を読んでるんだからね、もう凄いよね。いや、こんだけ暑くてもクラスが哲学とか心理学だったら当然行ってるよ。でも英語の補修のクラスなんて糞の役にもたたないので、意味無いんだよ。そうそう、留学とか検討してる人ね、大学のESLコースとかELSとかね、絶対行かないほうがいいよ。それだったら俺は個人的に好きじゃないけど、日本の徹底的に文法とかを学べるようなゼミナールみたいなところに行って、んでTOEFLパスして学部に入ってから実践的な英語を学んだほうがいいよ。マジで英語学校って無駄だらけよ。本当に。そもそも英語の学校なんてシステム的に成り立たないわけ。どの先生も授業でなにやっていいか戸惑ってる感じだからね。そのぐらいガイドラインが無いようなアブストラクトなものなんだよ。


あ、んで今回書きたかったのは攻殻機動隊2についてね。これってホント、アニメとか関係無しに映画史に残るような名作だと思うんだけど、悪く言えば不親切な映画だよね。物凄く教養的なリテラシーを必要とする映画っつーかさ、俺みたいな観念的な世界にどっぷりはまるのが好きなやつにとっては最高の映画だと思うんだけど、そうじゃない人にとってはただの退屈な映画だよね。いや、退屈ではないか。映像が凄いしね。で、最近のちょっとまぁウォール伝の傾向というかさ、映画を勝手に分裂病的な文章で解説したりしてるじゃない?その勢いに乗ってっつーか勢いも下痢も無いんだけど、イノセンスについて色々書いてみるわ。


っつーのもこれってさ、特にバトーデカルトの話が象徴的だけど、なんつったっけ?あの身体機能論だったっけ?人間という現象は様々な諸運動によってもたらされている機能的で機械的なものであり、そこにロボットと人間の差など本質的には存在しない・・・みたいなテーマでしょ?これ。でね、英語でディスオーダーって言葉があるでしょ?日本語にすると障害とかなんだけど、これってすんげー人間を機能する生き物として捉えている言葉でさ、Disってprefixでまぁネガティブな意味になるじゃない?で、ディスオーダーってのはアウトオブオーダーなんだよね。オーダーが機能していないという機械的な発想なの。特にそれはメンタルディスオーダーという言葉に顕著でそれは心の病みたいな哲学的で観念的な発想ではなくて、ただの脳障害という意味を示唆しているんだよね。というのもメンタルのファンクションがちゃんと機能していないという風な言葉なんだからさ、これってすんげーロボット的発想だし、ここ最近の俺のADDだのなんだのっていう、自分のメンタルディスオーダーをまさしく機能不全として捉える客観的でドライな発想と物凄く近いっつーかほぼ同意義なんだよね。


だからね、まぁよくこれは言われてそうなことだけど、社会とか社会的立場とか、もっと言えば人間の実存の流動性って物凄く高まっているわけじゃない?それはベタに言えば別に貴方に代わる人なんていくらでもいるっていうようなことで、本来、人間の実存の根底を支えるような、自己性というか固有性ということを根底から否定するかのようなものが流動性なんだよね。それこそプレイスされているものがディスプレイスされたところで、代用品はいくらでもあるっていうね、それこそ今使っているPCのあるパーツがダメになっても、そのパーツの固有性というのは無いので、新しい同じパーツを買ってくれば機能は戻るっていうね、そんなドライな機械的な現象が社会で起こっちゃっているわけだよね。もしくは本来的というか本質的にはそもそも社会なんてそういうものだったんだけど、特に近年はそういったことが顕著に見えてしまっていて、例えば別に特に物事を深く考えないような人達にでも、その現象がむき出しになっているので感じざるを得ないというね、そんなのが昨今だと思うんだけど、イノセンスに話を戻すとこれって徹底的にそういう話なんだよ。ようは人間と人形との差なんて本質的には存在しない。人間が感情とか記憶みたいな、人間が持っている固有のものに関しても、それ自体は特に意味が無い脳の機能によってもたらされているだけで、人間が考えるような、存在としての感情や記憶なんてものは存在しないってことなんだよね。記憶というのも過去のイメージからもたらされるもので、それ故に、イメージの改ざんなんてのも行われるし、ましてや記憶のアクチュアリティなんて、デジタルデータに比べたら相当あやふやなものなんだよね。ニーチェが言っていたように過去というものは必ず美化されるんだよね。ニーチェはその哲学や概念などのヘリテージされてきたものの権威性というか正確性への批判として、歴史もしくは長い時間によって美化されてきた過去のものを取り除いて、ただ単純に現在の観点からそれを本質的に見極めることの必要性を説いていて、それはフーコーの歴史は人々の解釈によって作られてきた・・・というようなものに直結する話なんだけど、これが示唆しているものは基本的に人間の認識や判断の恣意性であったり曖昧さであったり正確性の欠如だったりするわけ。だからそもそも記憶に対するリライアビリティなんてものは存在しないんだよ。


そこをイノセンスに出てくる人形達は膨大なメモリーをシェアすることで、その恣意性や正確性の欠如などを意識的であれ無意識的であれ回避しているわけだけど、それはただのデジタルデータの集積であるわけだけど、そこに人間の記憶とデジタルデータとしての記憶の差なんて無いんだよね。むしろ正確性で言えばデータのほうが確実なわけでさ、だから孔子からの引用も聖書からの引用もその膨大なデータベースによって正確に引き出されるわけだよね。それは人間が曖昧に記憶している教養という名のただのデータなんかよりよっぽど正確なわけだ。そこで見えてくるものはやっぱり人間というものはただの諸現象の塊でしかないということね。例えば知識一つ取ってみても俺がこういうのを書いているという行為ですら、過去の記憶の連続からもたらされたものであるし、日本語という母国語で何かを書くという行為もまた過去の記憶の連続性によって保持されているだけの話で、今、何かが現れてそれをアウトプットしているわけではないんだよね。過去からの諸運動の連続性によって保持されている自分という基盤が何かを出力しているだけで、そこには意味は無いんだよね。だから俺が表面的な知識から引用する哲学者の言葉なんかも、俺のアマチュアな濫読によって得られたディレッタント的でアマチュア的な知識のデータベースから引き出されるもので、その言葉や思想自体は俺のものでは無いんだよね。何かのコンテクストの中でそれを引用するというのはリアルタイムに活動している自分の脳がそのコンテクストに合ったような哲学者の言葉や過去の自分の出来事なんかを無意識的に参照しているだけで、ようは「I *****, theresore, I am」というセンテンスを見て、そのセンテンスの周りから隠された言葉をデータベースによって引き出すというある意味での暗記的な行為と変わらないんだよね。だからこのセンテンスから隠された言葉はthinkだという風に思うことが出来るんだけど、それは記憶とか知識というデータベースありきの話なんであって、俺が隔離されたロバ小屋みたいなところで育ったとしたら、いくつになろうがこの隠された言葉を埋めることはできないんだよ。


そういう意味だと俺自体は俺の過去の様々な環境によって影響されて蓄積されて強制されてきたというデータベースの結果でしかないわけ。もちろん結果といってもそれはリアルタイムに変わる常に規定できない結果なわけだけど、常にワークインプログレスな状態で俺という存在がここにいるわけ。でもそれ自体はただの過去からの出来事の集積によって形成されてきた脳にしか過ぎないんだよね。だから実質、俺の脳というのが完コピーできるのだとしたら、そのコピーした脳もまた、俺という意志を持つことになる。そこですでにオリジナルの重要性なんてものは相当危うくなるんだよね。イノセンスは徹底的にこういったことを示唆しているよね。ロクス・ソルス社の人形のクオリティの高さは、ヤクザ経由で得た人身売買による子供の脳を直接、人形にコピーすることで保持されてきたわけだけど、それはプログラムよりかは人間の脳のほうがより人間らしさを持ったプログラムということを証明しているわけで、そこにオリジナルの価値は無いんだよね。だからオリジナルは尊いのだ・・・なんていう示唆は一切無いし、実際無い。


そんなことに気がついてしまった草薙素子は肉体なんてものはただの脳という機械が機能するためのものでしかないので、そこに価値なんてのはない・・・というようなことを悟ってしまって、だから人間の代替可能な肉体なんてものに縛られることなく、ましてやその物理的な肉体と、物理的な現象にとってもたらされている、ある意味で悲劇とも言える人間の意志との間に生ずるパラドキシカルな葛藤をこの二者を超越することで克服してしまうんだよね。意志というのもデータベースの集積によるものでしかないのであれば、その意志を膨大なネットワークと結合させてしまえばその意志の拡張というのは計り知れないものになるし、肉体を捨てて意志として機能するただのデータとしての自分というものによって自分の実存を実感することというのものをメタ的実存であるということの肯定にすることで、自分の存在を問うことなく、ただ同時に疑うことも無く、ただ浮遊するものかの如く存在していけるという超越的自我としての実存として生きていけるというよりかは現象していけるということが素子にとっての存在意義なんだよね。まぁそこに意義なんてことも無いけどね。


こういう風になると身体性なんてものがいかに張子の虎であるということが分かるよね。バトーがハッキングされて自分の腕をぶち抜いた後、バトーのクローンによって作られていた腕がバトーの腕になるわけだけど、バトーは吹き飛んだオリジナルの腕に愛着を示しつつも、科学者から「それは忘れろ」と言われ、その合理性からクローンの腕を使うことにするわけだけど、そこに決断も無ければ苦汁も無いんだよね。「使い込めばそれも自分にものになる」という言葉に象徴されるかの如く、肉体の固有性もまたただの人間の幻想でしかないというのを示唆していると思う。ようは肉体もただの機能する身体のパーツにしか過ぎないので、痛んでしまえば新しいものに替えるということが可能ということなんだよね。それは移植手術みたいなものに対するアイロニーというかメタファーというか、別に機能すればそれがサルのDNAから出来たものでもなんでもいいってことだよね。ただオリジナルにこだわるというのが人間的なこだわりなんだけど、ロボットと人間の差が徹底的に相対化されている攻殻機動隊みたいな世界観においてはその人間性なんてものもただのアイロニーでしかないし滑稽なものでしかないんだよね。その滑稽さは、例えばドグサだかドクサだかトグサだかが機動隊の1で、あえてリボルバーを使うということに対してバトーがオートマにしろというようなダイアログに顕著に現れているわけね。それは2にも引き継がれていてバトーは「お前のリボルバーに自分の命を救ってもらおうなんて考えていない」みたいなことを言うわけだけど、こういったものにはバトーの徹底的に合理化された人間的人形の存在と人形的機能を兼ね備えた人間とのコントラストを引き立てているよね。もちろん鑑賞者は今のところみんな人間だから、ほぼ全員がトグサに感情移入するというか、トグサに共感を覚えるわけだけど、ただ曖昧ながらも大きな恐怖としての存在であるバトーに畏怖の念を感じたりもするんだよね。キムが言うような、ダーウィン的進化論の進化の結果が人間のマシーン化なのだとすれば、生身の人間の実存の価値や存在性の意味なんてものは全て無くなってしまうか、トグサがあえて使うリボルバーのような、認識の実を貪る人間が生み出す人間達が信じている人間臭さでしかなくなっちゃうわけだよね。あ、んでちなみにバトーの腕を交換した後、バトーの犬がバトーの膝の上に乗って体の匂いを嗅いでいるシーンがあるんだけど、肩から新しい腕にかけて匂いを嗅いでいくと腕の匂いがしないので「おかしいな?」というような反応を犬が見せるんだけど、本当によく出来てるなと思ったね。細部でも本当にテーマが一貫してる。


キムのような存在も進化論の結果として捉えることができるというよりかはマシーンになることも出来る環境の中で世捨て人のような人生を選んだとすれば恐らくキムみたいになる。哲学的で美学的な観点から、究極的に美しいものは魂を持たない生身だというキムにとって、魂を持つ生身なんてものは不完全の象徴でしかない。なのでキムは超越的で虚無的な存在としての神のような立場を選んだんだよね。その結果が電脳化した意識を持った廃人というわけ。それはキムの哲学から言えば神的存在なんだよね。人間に完全性は求められないし、その不完全性の表れが人間の生きる環境なのだから、世の中が不完全で不条理に満ちているのは必然的というわけね。これは養老さんの脳化社会と全く同じロジックね。で、完全性があるものといえば、人形か神しかないというわけ。この辺もデカルトと繋がっているね。ただその神や人形の存在と並びうるものとして動物があるんだけど、動物達は不完全な認識を持たない代わりに、その本能によって行動が起こされているので、無意識的な世界観の中を生きれるんだけど、これは不完全な認識という意識が存在しない分、無意識と意識の差が無いので、本能と無意識の世界観を享受できるというわけね。まぁちょっと解釈を広げると仏教的な悟りの境地に自然状態ですでに到達しているというのが神や人形や動物だと言うことが出来るかもしれないね。死を理解する人間やその悟りの境地を理解する人間はごくわずかなんだよね。大抵の人間はその不完全な認識とその表出に苦しめられ踊らされながら死んでいくわけだから。


そういう意味で言うと人間というのは本当に情けない。下手に理性や認識や強い自意識があることによって、それに全てが主観レベルで束縛されてしまっているんだよね。今日、俺が学校を休んだ理由は、授業が意味無くて、んで外は暑くて、行っても集中できないから意味が無いし、クーラーの効いた部屋で読書をしているほうが建設的と判断したからなんだけど、これらのものはもちろん様々な認識のプロセスによって出された結果が欠席なわけだけど、機械的に考えれば、俺という主体が暑さと非合理性を逃れるために部屋に閉じこもっているということなわけで、これはPCのCPUが暑くなってきたら冷却装置が働くのと同じようなもので、PCに意識があれば、あえてCPUにダメージを与える割に何も得られないような非合理的な行動はしないというようなことと一緒なんだよね。これは結局やはり本能的なものだと思うね。色々説明すれば合理性とか理性なんてものが出てくるわけど、根底にあるのは、俺という主体が持っている身体を異常な暑さに晒さないということと、それによる疲労や時間の浪費などを避けているというだけで、動物が日景で寝ているのとなんら変わりないんだよね。そこを動物は認識で日景で寝るということを選択しているのではなく、無意識と本能によってそれを選択しているので、人間の不完全な認識を介するそれよりかはよっぽど高次元のものだという風に言えなくもないんだけど、やはり人間の存在は不完全さがあるからこそそこに実存が生まれてくるのだと思う。常に何かが意志のレベルでも身体のレベルでもコンフリクトが起こっていて、それを回避したり解決することに大半の人生を費やすわけだけど、その意志と身体のコンフリクトこそ実存を規定しているものだと思うんだよね。そこには動物や人形では感知できない意志のレベルがある。いつも書くようにこういった人間性を肯定なり受け止めていかないと人間って生きている意味がないからね。そもそも生に意味がないからね。だから俺は自殺は悪いことだとは思わないんだけど、でもそれは人の勝手だからね。まぁ人を巻き込んだりしなければ死のうが死ぬまいがかまわないわけ。


ただ人間の自殺という行為が悲しいのは、例えばロクス・ソルス社に拉致されて、オリジナルの脳が焼けてしまう可能性があるようなゴーストのコピーのプロセスを機械によって晒されている子供がバトーに助けられた後、何かの事件を起こせば誰かがおかしいと思って気がついてくれると思っていたとあややみたいな声で必死に語るんだけど、これは子供の意志のコピーによる自殺や事件を起こすという行動によって人々の関心を集めるという行動が自殺や殺人の理由になっているわけだけど、秋葉原の無差別殺人が良い例なんだけど、子供はバトーの言う「犠牲が出るとは思わなかったのか!!」という悲痛な訴えを理解できないんだよね。あややは人形になりたくなかったからと言う理由で自分の諸行動を正当化するわけだけど、アノミーに陥った人間が起こす無差別殺人や自殺というのは、これのオリジナル版といっても差し支えないと思う。注意を集めるための逸脱した行動・・・とは言っても、それがあくまで主体のオリジナルと身体によって行われているものなので、自殺をしてしまえば、仮に人に自分の苦悩や葛藤がその行動によって伝わったとしても、それが伝達したと主体が感じることは出来ないんだよね。それは当然、主体が死によってそれを伝達させようとしたわけだから、主体は結果を知りようがない。無差別殺人も同じね。オリジナルのコピーが殺人を犯すのと、オリジナルが殺人を犯すのとでは全然わけが違う。ただ主体は自分の苦悩や葛藤を無差別殺人という理由で他者に伝えたかったからという理由で殺人を正当化するわけだけど、これは自殺と違って他者には一切その悲痛さが伝わらない、一方通行的で独りよがりなコミュニケーションなんだよね。それはバージニア工科大学とかコロンバインのような無差別殺人も同じね。あれはなんらかの社会や他者に対するメッセージをその行動によって知らしめたものなわけだけど、主観の世界にどっぷりとハマってしまっている殺人者にとって、他者がその行動をどう受け止めるのか?ということを想像しないんだよね。それが無意味どころか他者を巻き添えにして大損害を被るということを一切想像しない。もしくは自分の悲痛さを伝えるために、あえて他者を巻き添えにするということなのかもしれないけど、殺人によって殺人者の実存なんて誰にも伝わらないんだよ。だったら自殺をしたほうがいいわけ。そのほうがまだ伝わりやすいし、他人に迷惑をかけないし、もしかしたら社会や知人や家族などは今までしてきたことに反省するかもしれないわけだよね。殺人者にとって自殺も殺人も差はないのかもしれないけど、伝達方法としての二者択一を迫られているのであれば絶対自殺を選ぶべきだね。もちろん全く誰にも迷惑をかけないような形でね。自爆と殺人は違うからね。で、殺人者というのは明らかに自爆を選んでいると思う。だから誰からのシンパシーも得られないし、明らかにマイナスな結果しか残らないのに、それをあえて選ぶというのはもう本当に愚かとしかいいようがないね。仮にそれが精神障害や発育家庭での諸問題によってトリガーされたものであったとしても、殺人というのは一切正当化されるべきではないんだよね。それはそれを様々な理由でそれを正等であっただの、不可避であっただのという理由で認められてしまうと、モラルの原則が全てひっくり返ってしまうということが大きいわけで、そのモラルの転覆のリスクを考えれば、一人の人生なんて考慮されるべきではないわけ。仮に俺が将来狂って全く自分の意志とは無関係に人を殺してしまったとしても、それは一切同情されたくないし、終身刑でも死刑にでもしてほしいと思う。自分の命なんてモラルや他人の命と比べたらノミ以下だからね。あ、で、その自分の命というのは殺人を犯してしまった自分の命ね。


これらも全部、不完全な認識による産物だよね。不完全な人間が主観的に合理的だと思ったことをコミットした結果、社会に大惨事しかもたらさなかったとか、人々に悲しみしかもたらさなかったとか、そんなものは歴史が何回も繰り返していることだけど、でもやはり歴史というのが人類によって作られてきたものであるとすれば、歴史それ自体は不完全の産物の連続体という風に定義が出来ると思う。秋葉原の無差別殺人はそんな不完全の歴史に皮肉ながらも名を残してしまったわけだよね。それを死の王の朗読ではポストモダニズムの殉教者であると言っているけど、彼らの主観では恐らくそうなのだろう。ただ他人にとってはただの迷惑だからね。人間の主観が他者的で客観的なモラルや秩序という風なものに意識が行きづらく、世界を不完全な主観で捉えてしまって、行動もまたその不完全な認識にとって生み出され続けているというアイロニカルな永久状態というのが人類の歴史なんだろうね。人間がそういった存在である以上、やはりそこには統治が必要なんだよね。アナーキストの俺が言うのもなんだけど、やはり人を束ねる国家は必要であるし、また国家から独立した無数の自治体というのも物凄く必要。そういう意味での中間的集団の確立としてのアナーキズムを俺は信望しているわけね。反国家だの国家転覆だのっていうような意味でのアナーキズムではない。俺としてはアナルコ・サンディカリズムも組合連合主義としては考えてなくて、あくまで中間的集団主義のモデルとしてしか考えてない。まぁでも大体のアナーキズムって性善説に立っているわけだけど、今日のウォール伝のテーマから言うと一番正反対なのがアナーキズムだよね。だから俺はあくまで理念のレベルでしかアナーキズムを信望しないわけね。現実的には無理だからね。自治ということを説明しだすとまた長くなるからやめるけど、それは間接的に教育であるかもしれないしセーフティーネットかもしれないしょ職かもしれないし・・・ってなことなわけで、やはりまず社会がアノミーを生み出さないようなシステム的な構築を保持する必要があるよね。完全には無理だけど、でもやれるところはいっぱいあるはずだよね。


人間は不完全・・・ということが帰結になってしまうと、人間の存在意義って無くなるんだよね。だからもちろん不完全だというのを認識しつつ、その欠落をどう埋めるのか?ということに葛藤したり、社会システム的にそういったことをどう回避できるのか?というような設計をすることが人類の役割だと思うのね。だからグラムシが言うように哲学というのは最終的に政治に行き着くわけ。本質的に必要なものって内面の葛藤ではなく政治の考察なんだよね。社会というものが人間の不完全な認識による産物だとすれば、そのツケを人間が払わなきゃいけないよね。もしくは表れてしまう不完全性は不可避だとしても、それを外的な社会のシステムでリダクションしていったりすることは出来るわけ。だからこそ不完全な主体の拡張の結果である社会というのを人間それ自身が設計していかないといけないわけ。だから秋葉原の無差別殺人なんてのもその社会に生きる人達には無関係な話ではないんだよ。それは戦争も同じで政治も同じね。ましてや先進諸国でアノミー的な無差別殺人が起こっているという現状を見ればそれは社会的な現象であるということが言えるわけでしょ。まぁ要素の一つとしてね。だからそういった現象をその国固有の問題として捉えるのではなく、大枠の俯瞰した社会像の病理として考察することが必要で、それはグローバル単位で行われるべきであるし、研究のプロセスなどは世界中でシェアされるべきなのね。思うに知識人の役割というのはこういうところにあるわけ。まぁグラムシの有機的知識人みたいなもんだね。で、それが啓蒙的な形ではなく、自然な形で社会に浸透していくのがベストね。それがダイレクトな知的ヘゲモニーの獲得という形ではなく、道徳や社会の枠組みのアーキテクチャとしてのヘゲモニーという形で自然に表出してくればいいわけ。だからそれは固有の何かによって啓蒙的に立ち上がるものではなく、人々が認識することで立ち上がってくるシステムの枠組みね。そういったものの構築を知識人が先導していく必要があるんだよね。


今日は休んで大正解だったな。ずーっと書きたかった攻殻機動隊について色々書けたんで自己満足ね。ってことで今日はこの辺で。

PS。

アノミーによる無差別殺人が様々な理由によって仮に正当化されるのであるとすれば、それはハッキングされたバトーが無差別殺人を行うのが正当化されるのと同意義だよね。だったら他者としては、ハッキングされたバトーは人を殺さずに最初から頭をぶち抜いて死んでほしいと思うでしょ。そこに意志が介在していなかったとしても、ハッキングによる無差別殺人は正当化されるべきではないわけ。それは人間が意志や主体といったものだけで存在を規定されているのではなく、人間である以上、身体が介在しているわけで、モラルのレベルでは身体と意志を分けるべきではないのね。仮にそれがエラーだったとしても、主体は身体の責任も取らなきゃいけないわけ。それは不完全な認識の表れである社会に対して人間が責任を負わなきゃいけないのと同じことね。

アマゾン繋がらないので、今日はオススメ無しで。