引越し完了。

mimisemi2008-06-26

とりあえず引越しはできたんだけど、なんだかまだ落ち着かないのでアレだわ、もうちょっと新しい環境に慣れたら書くわ。意味分からんけど。まぁ半地下ってことで窓はあるんだけど、日は入ってこないので、基本的に暗いです。俺の性格のように。よくある話では、その安さに惹かれて地下を選ぶんだけど、部屋にいると昼と夜の区別がつかなくなって、すぐ引っ越すみたい。まぁいいや、ちょっと詳細は後ほどね。それにしてもまぁーあれだ、通学は面倒になった。これだけは言える。まぁ前のところが便利すぎたってのもあるんだけどね。駅まで3分とかって恵まれすぎ。


ってことであれだわ、引越し記念ってことで、前の家の近くのスーパーで買ったカレーについてきたCDの音源を低音質でお届けするわ。


http://mushroom.cage.to/mp3/curry.mp3


引越し先はフォレストヒルズっていうところなんだけど、前にも書いたっけ?ブルジョワが住んでるような場所なんだよね。その一角のタウンハウスの地下。ちなみにもう一人、日本人が地下に住んでいて、キッチンはシェアなんで、完全に一人暮らしってわけじゃないんだよね。トイレとシャワーは部屋にあるけどキッチンはシェアだから、部屋が半地下なら一人暮らしっぷりも半一人暮らしって感じだね。これが意外にもシェア感たっぷりなんだよ。一人で暮らしてるって感じじゃない。あとね、地下っつって日本的な地下を想像してたけど、さすがはアメリカの家だね、全然ふつーに上の大家さんの生活音っつーか足音とかが響いてきててさ、あと向かいの部屋に住んでいるほかの住居人の生活音っつーか、まぁキッチンの音と部屋のドアの音はモロにするんだよねっつーか俺ってやっぱり頭がおかしいなって思った。ケージみたいなサイレンスは、もはや現代社会ではありえないのにも関わらず、ケージ的なサイレンスを求めていたようなところがあって、それこそそれを求めるなら人里離れた場所か、めっちゃ気密性の高いマンションに住むしかないんだよね。


それこそそんなに家賃が高くないマンションっつーかアパートなんて日本でも普通に他の住人の生活音するよね?いや、俺のね、実家の自分の部屋ってーのが凄いんだわ。いや、そうでもないか?俺は何を求めてるんだろう?こんなに音に対して神経質だとは思わなかった。音に対して神経質だから音楽に向いてるのかな?聴覚が繊細っつーかなんつーか繊細すぎて困る感じだね。外もヘッドフォン無しじゃ歩けない感じだもん。うるさすぎて。


ところで大家の家の犬が馬鹿な犬で、とにかくめちゃめちゃ吠えるんだけど、なんで躾けないんだろうか?って感じなのよね。夜中に吠え出して、大家の家の家族の誰かが吠えさせるのをやめさせなきゃいけないっつーリスクっつーかコストを考えたら、躾けておけばそんな苦労をしなくていいのになぁーってね、特に犬の躾けのエキスパートの俺としては凄く思うね。まぁあと実家の犬は2人とも地頭がいいってのはあるんだけど、でもやっぱそれってのも環境によって作られるものだと思うんだよね。それこそ人間と同じで、地頭がどうであれ教育によって作られる知性ってのは絶対あるよね。大家の家の犬にはそれが無いんだろうな。それにしても世の中ノイズだらけだね。それに比べたら俺の作るノイズなんて些細なもんだよ。ノイズという音色を使って作る音楽は、ノイズが音源になってる音楽なわけで、ノイズではない。本当のノイズと言うのは、人間の認識によって作られる感覚的なものなんだよね。ところで最近読んでた、どれだったか忘れたけど、句読点が丁寧に打ってある本があってさ、それを見習おうかなって思って、句読点を増やすことにしてみてるわけね。普段より句読点が明らかに多いはず。


まぁいいや。で、ノイズだけど、ノイズってのは雑音でしょ?雑音というのは、人間の脳が特定のある音として認識していない音のことを言うわけで、仮に雑音に音のフォーカスを絞ったら、それはもうノイズではないんだよ。例えば街のサウンドスケープに耳をかたむけていたら、それはもうすでに文字通り、その人の頭の中ではそれがサウンドスケープとして認識されているんだよね。ただその耳をかたむけている人と同じ環境にいる耳をかたむけていない人にとっては、街のサウンドスケープはただの雑音で、それはまぁ文字通りただのノイズなわけだよね。特にネガティブな意味でのノイズという意味ではそういったことが顕著に現れるってーのも、雑音としてのノイズは、その人が求める求めないに関わらず、
勝手に耳に入ってくる音なわけで、これがやっぱ広義の意味でのノイズだと思うんだよね。パンピーにとって、ノイズミュージックが不快な音の塊っつーのはそれが音楽として認識されていないノイズだからなんだけど、ノイズファンにしてみたら、それは音楽なんであって、ノイズというよりかは電子音楽だとかミュージックコンクレートだとか実験音楽なんだよね。これがまさしくその音を認識するものにそれがノイズが否かというのが委ねられているということの良い例だと思うのね。


だから俺にとっては、どんだけうるさいノイズ音楽もそれは心地よい音なんだけど、自分が求めていないのにも関わらず、勝手に耳に入ってくる音ってのは少なくとも俺にとってはハーシュノイズよりうるさいわけだよ。だから前の家にしてもルームメイトが作るノイズの数々は俺にとってはもう拷問でしかなかったわけで、家にいるときは大抵耳栓をしていたんだけど、それは今の場所でも変わらないんだよね。今のところは静かだけど、でも大家の家の生活音だとか向かいの住人が作る雑音だとかが、俺の耳に勝手に入ってくるわけで、例によってこれらのノイズは俺にとってはハーシュノイズ以上のノイズなんだよ。だから改めて俺はとことん気が狂っているのだなって痛感しちゃったわけね。今の場所なんて、それこそマンハッタンとかに比べたらまず、街の騒音が皆無に近いから、ノイズ度はガヤガヤしている場所に比べたら全然低いんだけど、どういうわけか、今の場所の静かさってあんまり好きじゃないんだよね。これって他の生活音ありきのサイレンスなんで、これはサイレンスじゃなくて、生活音が基本にあるその隙間のサイレンスなんだよね。だからサイレンスを感じているときも常に人生における死みたいに、なんらかのノイズが発生するというのが怖くてしょうがなくて、だから常にサイレンスな時間も、雑音の発生という恐怖感に支配されているわけで、全然楽じゃないんだよね。むしろ雑音という意味では前のアストリアの街の雑音は好きだったよねっつーのは、例えば夜中の通りでの喧嘩とか、パトカーの音とか、マトリックス・カフェっつー近所のカフェで行われてるクラブイベントみたいなのの轟音とか、それこそアイコン的な「ニューヨーク」っつー一種のサウンドスケープだったんだよね。俺にとっては。まぁクイーンズってニューヨークであってニューヨークじゃないんだけど、でもクイーンズの割にはニューヨークっつーか、マンハッタンっぽい雑音がある場所なんだけど、今のところはもう全然違うね。いや、悪くは無いんだけど、でも俺にとっては例えばアストリアのスタジオで、ルームメイトももちろんいなくて、マンションの住人の生活音もほぼ聞こえないという状況下でアストリアの街のノイズがあるという環境だったら、それは俺にとってのサイレンスなんだよね。だってアストリアの街のノイズは俺はノイズとして認識していないわけでしょ?それは俺はニューヨークのサウンドスケープとして認識している。で、仮にルームメイトもいなくて、他のアパートの生活音とかも聞こえなかったら、それはもう完全にサイレンスでしょ?って繰り返しになるけど、俺が求めないのにも関わらず勝手に入ってくる雑音というのは存在しないわけだから。


アストリアの雑音はもちろん、俺が再生しようと思って作れるような雑音ではないんだけど、そういう操作できないランダムな音も含めて、俺は全部サウンドスケープとして捉えているわけだよね。だからノイズは存在しないわけ。まぁもちろんノイズはあったよっつーのはルームメイトが作るノイズね。ただ今の状況の場合、アストリアの雑音が、閑静な住宅街のサウンドスケープっていうサイレンスに変わっただけで、俺にとってのノイズはまだまだ存在するんだよねっつーのが、大家の家の生活音とか向かいの住人のドアを閉める音だとかキッチンの音だとかね。もちろん環境的には今の場所のほうがいいよ。キッチンはシェアだけど、ルームメイトがいないっつーのは本当に楽。ただかといって自分が好き勝手にキッチンを使えるかっつーとそうじゃなくて、当然、夜中に料理とかはもってのほかね。そういう意味だと一人暮らしじゃないんだよね。そういうところは大文字の他者に気を使わなきゃいけない。誰でもない他者に気を使わなきゃいけないという意味では本当にラカンチックに気を使わないといけないんだよね。それはまぁ普通に生きていく上での必要なことかもしれないんだけど、俺にとってはジジェクも言ってたような、全く人と会わないような、完全に隔離されたような家に住みたいわけね。でもまぁそれは無理だし、贅沢は言ってられない。むしろここみたいな家賃で、これぐらいの広さの部屋に住めるなら、まぁマンハッタンからは遠いし、何より駅まで遠いけど、そんなに悪くはないんだよね。「スタジオっつったら1000ドル以上からですよ」みたいな、クレイジーな家賃の高騰という現状での今の場は格安過ぎぐらいかもしれない。少なくとも絶対高くない。俺が「引っ越します」っつったらすぐ応募者が殺到するような条件だからね。今の場所。だからノイズがどうとか言ってられないんだけど、でもまぁー気になるっつっちゃー気になるね。街のノイズがない分、余計の家のノイズがエンハンスされるのかもしれないっつーのは例えばオフサイトみたいな状況だよね。「シーン」と静まり返ってる中で、ギターの音が「ピーン」って鳴っただけでも、それは物凄い存在感があるわけじゃない?それはサイレンスによってエンハンスされた微小の音ってなわけで、その存在感は街で下手糞なギターを弾きながら「君だけを愛している」みたいな、どうしようもない歌詞の歌を歌っているストリートミュージシャンの音楽よりよっぽど存在感があるわけだよね。それはまぁ音楽のどうしようもなさもあるけど、街のノイズってのがあるから、ストリートミュージシャンの音楽もノイズに同化しちゃってるって意味で、全く何も無いサイレンスの中で爪弾かれるようなギターの音は、それよりよっぽど音楽で耳に響く音なんだよね。杉本拓のギターが凄いのは、そのサイレンスを全て自分の音楽に入れちゃってるっていうところにあるんだよね。それは数え切れるぐらいのギターの音が存在する音楽ではなく、サイレンスの中で鳴るギターの音なわけで、それはサイレンスを含めたギターの音なんだよね。だから杉本拓の演奏はCDで聞いても、その演奏時間の中にサイレンスが存在してるんで、そのサイレンスがそのままCDを再生している場にインストールされるんだよね。だからそこに音が無いのではなくてサイレンスが存在するわけで、無駄に色々なもので隙間を埋めようとする音楽よりよっぽど鋭くて表現力が高いわけ。フェルドマンを弾くギタリストとはよく言ったもので本当に言いえている表現だと思うけど、フェルドマンのピアノ曲のような音数の少なさと、杉本拓のギターの音数の少なさが、同じ少なさかどうかは分からないから一緒にはできないけどね。同じサイレンスでもサイレンスなりが違えば、それは全く違うものだからね。


なんかすげーな。引越しの話からノイズの話になったね。俺って元々やっぱ病気だね。音に対して繊細すぎるというのは現代社会ではもう病理でしかない。普通の人なら耐えられるノイズを俺は耐えられないわけだからさ。あと人が怖くてしょうがない。外に出ると基本的に今でも人の視線が気になりすぎて、頭がおかしくなりそうになる。だからいつもの行きつけのスタバのあの俺の席っつーか完全に死角で、極端な話、オナニーが出来るぐらいの死角なんだけど、まぁそこで読書をするってのが、俺にとっての究極のサイレンスの場での活動なのね。それはスタバのノイズも客の会話も「ニューヨークのカフェ」というサウンドスケープとして脳で捉えられいるから、その店に溢れるコーヒーの香りも相まって、俺の中では常に最高の音として存在しているわけだよね。そんな場だから落ち着くのは当然で、動きたくなくなるし、そこに長く居たいと思うんで読書がはかどるのも必然ね。実際、完全なサイレンスというのは存在しないんだよ。スポンジみたいな耳栓をして、その上からシリコンの耳栓をかぶせても、聞こえてくるのは「キーン」っていう神経音ね。それはケージの無響室での経験と全く同じことね。むしろ音がそれだけだったら、ずーっと高い周波数のサイン波を聞いているようなもんで、逆にうるさいぐらいなんだよ。だから適度な雑音と感じないサウンドスケープが存在しているほうがむしろサイレンス度はもっと高いわけだよっていうのはさっき書いた認識としてのノイズという意味ね。


まぁあれだわ、あれから色々あったから書かなきゃいけないことが山ほどあるんだけど、今日はこの辺でねっつーか書かないっつーって書いたね。書かないとダメだわ。脳に膿が溜まってる感じだもん。ウォール伝で抜かないと気分が悪くなる。今は若干スッキリした感じだからね。あ、んで自分でも病的だなと思ったのがね、なるべく部屋から出たくないんで、水の浄水器とピッチャーが一体になってるようなやつがあるんだけど、それのタンクみたいなやつを買ってきてね、んでそれをシェアしている冷蔵庫の俺のテリトリーに設置して綺麗な水を作るわけだけど、大量に水が用意できるんで、しょっちゅう水を入れなおす必要がないし、部屋に持っていくために大き目のボトルに水をたっぷり入れておけば、水を飲むためにいちいち台所に行く必要がなくなるし、前にも書いたけど、この半地下はすげー涼しいんで、部屋に水を置いておいてもそこまで温くはならないんだよね。夜中なんて半袖じゃ寒いぐらい涼しいんだよ。前のアパートだったらクーラーが必要だったけど、今のところは全く必要ないね。一時的に暑くなったら扇風機で十分。あとは帰ってきたらシャワーを浴びればオッケーな感じ。暑さがダメな俺としては最高だね。問題はノイズだけどね。それを問題として捉えるかどうかが認知療法的なことになるんだけど、それができたら苦労しないって。あと飯を作るのは相変わらず億劫だし、向かいの住人とは顔を合わせなくないしっつーか嫌いなわけじゃなくて、大文字の他者が全部例外なく苦手というのがあってね、大文字の他者と大文字の雑音が存在する社会の中で生きるってことは、俺にとっては常に社会側から例外状態を強いられているようなもんなんだよね。今みたいな環境で贅沢を言っても俺の求めるサイレンスは住宅レベルでは存在しないってことで、理想的な住宅というのが常に来るべきものとして観念レベルで存在するわけだけど、俺の実存は常にこの例外状態によって宙吊りになっていて、剥き出しの生を形成するわけだよね。俺が考えれば考えるほど、俺の生は剥き出しになっていって、「でもそれはわがままというんだよ」と俺に語りかけてくるような社会的コモンセンスが常に一方的な父権的なパワーとして俺を抑圧するわけだよね。こんなパターナリズムは少なくとも自分では成熟したって思っているような俺にとっては害悪でしかないわけだよ。だから俺は社会とも大文字の他者とも付き合いたくないわけ。だってやつらは一方的な介入をしてくるでしょ?ってことで俺の夢はやっぱり必要最低限の外部とのコンタクトをキープしつつ、自分がやりたいことをとことんやるっていうような生活形態なわけだね。


思うに必要性によってのみ強いられる人間関係ほど辛いものはなくて、それはノイズと同じなんだよね。だから俺は好きなサウンドスケープと、好きな人とだけ関わって生きていきたいわけ。というのが隔離されたノイズの無いアパートで、外部との最低限のコンタクトを続けながら生活するっていうライフスタイルなわけ。こういう動機付けがあるから、俺の亡命という目的とも相互的に作用して、若干の不便なら我慢できるような忍耐力が保たれているわけだよね。ここで諦めたり負けたりしたら、もう醜悪としかいいようがない無駄だけで形成されているような人間と必要性によってのみ人間関係を続けなきゃいけなくて、なおかつ、まさしく文字通りの労働を強いられるような低賃金のアルバイトでしか生きていけなくなると思うと、どんなことにでも耐えられるんだよ。それは日本への帰国とレベルの低い人間と人間関係を続けていかなきゃいけないということと単純労働っていう自分にとっての3S(3つの最悪)というような、ようは昔の暗黒期のバイト生活に戻らなきゃいけなくなるという状況をすでに経験しているから、あんな生活に耐えられないから練炭だなって確信している俺にとって諦めることは死を意味するわけだよね。だから俺はこっちで常に死と隣り合わせなんだよ。いくらフォレストヒルズの街が綺麗で、自分の好きな本をいくらでも読めるっていうような、ブルジョワチルドレンチックな生活が送れていたとしても、これが無くなれば一気に崖から落ちちゃうわけで、だからいつでも俺の気は休まることはないね。ある意味で昔よりオブセッシヴになっている読書とか知識への渇望は、生存という本能的な感覚から惹起されているものだと思うんだよね。死ねないからやるしかないっていうね。知識欲と生存欲を一つのまとまりとして脳にインプットするっていうのは俺が一貫してこっちに来てからやってきていた生活のモデルだけど、身にしみすぎていて、もはやゲームすらもやらなくなっちゃったね。全てが読書になっちゃって、背骨は昔より曲がっているし、目はどんどん悪くなっていってる。こないだ美容院にいったら「背骨が歪んでますよ!」って驚かれちゃったんだよね。たぶんずーーっと猫背でどこでも本ばっか読んでるから、昔よりもっと猫背が酷くなってるんだと思うんだよね。あと昔作ったメガネが全くワークしないっつーのもね、視力が悪くなってる証拠でしょ。「ゲームすらもやらなくなった」というのはちょっとした最近のテーマでもあるんで、これについてはまた今度書くね。


まぁね、最後になるけどね、生存欲と自分の目標を一緒にしないと達成できないぐらい俺は怠惰ってことなわけよ。だからそういう生活のアーキタイプを自分でデザインしないと生きていけないってことね。まさしくアウトノミアだね。あー若干スッキリした。んじゃあまたね。


SPIRITUAL VIBES

SPIRITUAL VIBES

↑神経音がうるさくてもここに住めれば最高なんだけどなぁー。将来、何かでガッポリ儲けたら自分の家に無響室を作ろっと。あ、んで補足だけども、神経音はともかくとして、無響室は完全なサイレンスを提供してくれる場だよね。ただリアルな社会の場合、ノイズをノイズを感じないノイズがある場所で生活することが、無響室か、もしくはそれ以上のサイレンスを提供してくれるわけで、良いノイズがある環境に住めるに超したことはないわけねってことでやっぱりあれだ、最高の環境は常に来るべき存在として観念的に存在するだけなんだろうね。まるで人生みたい。