神話的擬制(俺には感じる無数のバクテリア)。

mimisemi2008-09-11

トイレが詰まっちゃってもう大変だったよ、二日前だけどね。それにしてもさ、あれなんだよね、例によってっつーか、床下浸水ですよ。便器から水があふれてバスルームが水浸しに。太宰より神経質で病的な俺としては銭湯の排水溝の比じゃないぐらいの凄まじい数のバクテリアを自分の足下全体に感じたのであった。水が足にかかってきたときの体を浸食されたような凄まじく気持ち悪い感覚はもう言葉では言い尽くせないぐらい最悪だった。で、結局まぁ1時間以上もかかって掃除したんだけど、なんかね、俺ってすんげー貧乏性だから、何らかの酷いことがあったら、そこから何かを得ないと本当の無駄になっちゃう!みたいな強迫観念が凄いんだよね。まぁ元々強迫観念全般が異常な俺だけど、今回はまぁ全然トイレと関係ないんだけど前から嫌だった俺の部屋に敷いてあるデカイ絨毯を外しちゃおうってことだったんだけど、「うわー!もう最悪だ!!!気持ち悪い!!細菌がぁぁぁぁぁぁ!!!!!」っていうようなね、それと片付けなきゃいけないっていうような、どうしようもない状況から来る負の怒りのオーラみたいなのを何かに役立てるんだよね。で、このイライラして誰かいたら殴ってしまいそうなパワーが有り余ってる状態で一気に部屋にある絨毯という絨毯を全部取り除いたのね。部屋から。こっちは日本と比べればもう全然涼しいんだけど、それでも玉のような汗が出る運動量だったわけよ。凄まじく大変な作業だった。絨毯をやってる間に面倒になったら次はトイレでトイレが厭になったら絨毯で・・・っていうようなね、厭になったら行動を変えるっていうパターンを俺は普段から徹底しているわけだけど、まぁ今回もそれを短期間に実行したわけね。そしたらまぁ凄いよ。普段体を動かさない俺だけどもう凄いよ。バスルームはきれいになったし、絨毯は取り除けたし完璧だったね。


で、まぁその後学校だったんだけどね、行きのバスの中で思ったのは基本的に人間にとって何かを感じたらもうそれはその感じている人間にとっては認識的には「ある」んだよね。つまりね、そこまで神経質で病的じゃない人ならね、あそこまでバスルームに満ちあふれた下水に恐怖感を覚えないはずなんだよね。いや、覚えるか。でも度合いは俺の場合半端じゃないんだけど、でもそこに無数のバクテリアが「ある」と強迫観念的に感じているからバクテリアがそこにあるんであって、そこまで気にしない人にとっては「ある」のかもしれないけど、主観的にはそこまで無いんだよね。いや、独我論ってことを言いたいんじゃなくて、現象的に「ある」ものはまぁ客観的な物事の観点なんてのは究極的には存在しないにしても例えば俺がよく比喩で使う誰もいない山の中で鳴った音は果たして「ある」のか?っていうことなわけでね、人間にとっての「ある」ってのは極めて人間的主観からもたらされている独我的なものなんだよね。もちろんそこで想像力を働かせればいろいろなものが「ある」ように思えるかもしれない。でもそれらが「ある」というのを根拠づけるのが例えば間接的な情報であったりね、フランスにパリが「ある」ってのは行ったことが無くても分かるんだけど、それを「分かる」のは情報や写真によるもので、直接的な感覚によるものではないよね。何かを通した感覚で得られているものから「ある」と感じているわけだけど、それを言い出すとね、「大量のバクテリアがそこらじゅうにある」と思ってしまうのも後天的な情報によるものなんだよね。「汚いからそんなのに触らないの!」っていうような子供の頃に植え付けられた情報から、トイレ=汚いだとか、下水=汚いだとかね、そういうのを学ぶわけだけど、全くそんな情報が無い人にとって水はただの水でしかないよね。よく犬がさ、喉乾いてると散歩中に水たまりの「汚い」水を飲もうとしたりするじゃない?でも犬にとってまぁそういう感覚が無いわけじゃないんだが、人間ほどの汚いものとそうでないものの区別って極端というか厳密じゃないよね。ケースバイケースみたいなアバウトな感じっていうか。だから例えば犬は外で拾い食いして腹壊しても原因と結果が繋がらないんでそこから何も学習しないじゃない?でもその原因っつーのもね、後天的に植え付けられた情報からもたらされる原因、例えばあれがあたったんじゃないか?とかあの時のおなかを冷やしたんじゃないか?とかさ、まぁ馬鹿犬と一緒で馬鹿な人間のそういうのを考えない人はずーっと馬鹿のまま生きていくし、失敗から何も学ばないんだろうけど、まぁそれはさておき、原因が分かるのは情報によるものだよね。


んじゃあその例えば汚染度ってのが分かるのか?っつーと生物学者とかじゃない限りそこまで分からないわけよね。例えば汚染度っつっても実際はパソコンのキーボードは便座より汚いとかさ、そこまで汚くないって思ってたやつが汚かったり逆もまた然りで、そういうのって思い込みとか先入観で規定されてるものが多いと思うんだよね。もしかしたらね、バスルームもずーっと
実は洗ってなくて下のタイルとかはその辺の下水っつーかあれね、流すとき用の水より全然汚かったりするかもしれないわけ。でも俺は「便所から溢れ出た水」を見ているから、そこから伝染病のごとく菌がバスルームに水を伝って蔓延しているって想像するわけだけど、そのアクチュアリティってのは結構曖昧だと思うんだよね。もちろん掃除するに越したことはないけど、少なくとも触れる部分が足ならね、普段、素足で踏んでいる何かが便所の水より汚いことなんていくらでもあるわけだよね。具体的な例えば無いけどさ、それは予想だにしないところでいっぱいあるでしょう。でも俺は思い込みと先入観でトイレから溢れ出た水は汚いと思っている。だから俺にとってそこに凄まじい数のバクテリアが「ある」んだよね。


精神病というかね、だからようは幻聴とか幻覚とかもさ、当然、現象的には存在しないけど、主体の主観レベルでは確実に存在しているんだよね。だから他者が「それは幻覚だ」と言ったところで本人には見えているんだからしょうがないよね。俺が感じる部屋のノイズとかもね、極端な話、こないだのスピーチのクラスとかもまぁ本当にやっぱね、死ぬほどパニック発作が出たんだけど、あれなんだよ、「普通」はあれほど緊張したり死ぬような思いはしないんだけど、俺にとっては人の前に立って、しかも英語で喋るなんてさ、尋常じゃないことなんだよね。「なんで?」って感じかもしれないけど、俺にとってはそこに恐怖が「ある」。だから主観レベルの話って究極的に言えば、他者が口出しできることじゃないんだよね。俺にとっては他の人には無い恐怖があるし不安があるし、まぁ半ば笑い話だけど、まぁバクテリアもあるわけ。だから「大丈夫だよ」と言われてもその「大丈夫?」って何?って話なんだよね。他人にとってのそれが大丈夫でも主体にとってのそれが大丈夫じゃなかったらそれは大丈夫じゃないんだよね。だからその大丈夫じゃない主体にとってのそれらとのつきあい方を考えなきゃいけないわけで、「普通」に照らし合わせて無理矢理治そうだとか、「異常」だとレッテル貼りをするだとかってどうなの?って感じだよね。もちろん病的なレベルでは治療をしたほうが楽になることっていっぱいあるとは思うんだけど、でも果たしてそれってどうなのかな?っていうね、ある意味でまぁ主体を滅殺しなきゃそれって治せないわけだよね。いやね、本当に病気とそうじゃない境界線って曖昧だよね。本当に。で、俺の場合、薬でどうにかなる問題じゃなくて、俺がこうだからもうしょうがないんだよね。おそらくもっと研究が進めばおそらくまぁ脳の先天的な異常かなんかってことで話が落ち着くとは思うんだけど、やっぱりメンタルなもんって見た目では分からないから大変だよね。足が悪い人が車いすに乗っているっていうそういう身体的なものじゃないからね。だからこそね、そういう疾患がある人も隠さないで「自分はこうなんです」って言っていかないとダメだと思うんだよね。それを隠さなきゃいけないってどういう社会なんだ?って話でしょ。それが言えて認証されることで救われる人は大勢いるわけよ。逆を言えば、言えない人がいっぱいいるから大変なわけで。


あ、話がだいぶ逸れたな。まぁスピーチクラスの話はまた今度ね。今日あんま時間無いから。んーどうなんだろうなぁ・・・。でもねぇ・・・・パニック発作が「ある」ってことで「ある」んだからしょうがないってことで引きこもるよりかは積極的に治していったほうがよっぽど良いわけでさ、幻聴にしても幻覚にしても、それらが「ある」状態が本人にとって辛いものだったらっつーかまぁ大半が辛いものだと思うんだけど、それもまぁ治るに越したことはないよね。ただどうも俺としてはその世の中という基準に合わせるために治さなきゃいけないっていう、そういうマイノリティを排除しているような治療の動機が嫌なんだよな。最近、ずーっと似たようなことを書いてるけど、マージナルな人たちのことを認めつつ、じゃあどうしていこうか?ならまだいいんだけど、「あいつらおかしいから治さないと」っていうね、そのなんつーか普通への同化政策っつーのかな?それがどうも気に食わんのよね。


これってどうなんだろう?個々の主観で感じる「ある」を「あるべき」標準みたいなのを規定して個々の「ある」を再確認するプロセスなんて必要なのかな?まぁもちろんね、世の中ってこう見えてるでしょ?こう聞こえるよね?なんて他人がどうやってそれを感じてるか分からないのに、まぁあたかも同じように見えたり聞こえたりしているっていう風な前提で回ってるじゃない?でもまぁ実際はそうじゃないんだよね。フィクション的基盤というか神話というか、様々な擬制にとって近代社会って成り立っているって考えるとさ、そもそもの根本を「それってどうなの?」って問い始めると社会が崩壊するよね。だって元々フィクションなんだもん。だからやっぱメタレベルの認識的思考が必要なんだよな。「とにかく擬制ですね、ハイ」という前提からはじめるみたいなね。


そう思うとね、「違う」人たちが排除されるのってまぁある意味で必然的だよね。だって彼らの主観なり考え方とか行動とかさ、彼らにとって「ある」ものだとかが大半の他者とはだいぶ違うわけだからね。神話的擬制をあえてっていう態度ですらもシェアできないんだもんな。おそらくこういう人たちの人生ってマルクス風の言い方をすると、過剰な同化闘争の歴史なんだと思うんだよね。頑張って「普通」にアダプトしようとする努力の歴史がマージナルな人たちの歴史なんだよな。それはこないだ書いたようなセクシャルマイノリティも含めてね。自分のおかしな部分を隠すっていうのもまぁある意味でアダプトしようとしているってことなんだよ。なるべく普通の人たちと普通に接することが出来ないと生活が成り立たないんで、それを必死に成り立たせようとするんだよね。でもそれってすんげーパワーのいることなんだよなぁー。


どうなんだろうね?思想の自由ならぬ感覚の自由ってのがあってもいいんじゃないかな?「普通」の感覚というのがあるから「異常」な感覚が規定されるわけで、本来的に異常な人たちにとって彼らの異常な主観というか精神状態というのは彼らにとってはそれは普通の精神状態だからね。それを「普通」の観点から見て過剰に「普通」にアダプトさせる必要があるのか、俺にはよく
分からないなぁー。「普通たれ」というメッセージがなんつーかね、「普通になってちゃんと働け」っていうようなメッセージに見えちゃうんだよね。なんでそこで普通にならなきゃいけないのかが本当に分からないんだよ。おかしい人にもおかしい人なりのちょっと変わった能力があったら、むしろ社会がそういった能力を活かせるような枠組みを作っておくべきだよね。どうしても彼らを労働力としたいならね。過剰に普通に同化させられるよりかはそれは幾分マシだよ。


あーダメだ。タイムアップ。一応学生だから学校行かなきゃいけないからね。今日は寝ますわ。