週4生活。

mimisemi2008-09-18

いやー今日はヒドかった。6時前から7時までの1クラスのために学校に行ったのにまぁね、駅前のビタミンショップっつーか、例のM字対策のブルーベリーサプリを吟味してたら遅くなっちゃって遅刻して行ったらなんかね、授業をライブラリーでやるとかって書いてあるわけ。黒板に。俺は遅れて行ったからみんなもう移動しちゃったんだろうね。んで、ライブラリー行ってもいないんだよね。このクラスの人々が。で、もう面倒になって探すのやめたんだけど、このために学校に来たのにクラスに出ないって凄いよね。で、いつもの調子で何かしらの悪いことというか、無駄なことを有用なことに変えるべく、図書室というか自習室で本を読むことにしたんだけど、たまたま持ってきてたのがジジェク師匠の「Conversations with Zizek」ってやつだったのね。ホント、ここ最近全然英語で本を読んでなかったから無理矢理というかさ、この本しか無くて自習室でってことになると他の本に行けないじゃない?だからもうあれなのね、自動的にそれを読むしか無いっていう状況に自分を追い込んで読書をするわけだけど、それにしてもね、やっぱり英語の本ってまぁジジェク師匠みたいなのだと特に分からないところが多いわけよ。単語もあるけど、普通に言い回しが分かりづらいところが多かったりするんだけど、そこで「あー分からないからやめだ!」って思わないのが洋書を読むコツなんだけど、詳しくは「本をどう読むか」っていう読書についての本があるんだけどね、清水幾太郎って人のやつなんだけど、これ凄くいいよ。読書のバイブルというか。このひと曰く全てを理解しようとか全てを読もうなんていうことが「ケチ」な行為なんだそうで、特に洋書においては慣れていない段階では何かを得ることより読むことが目的なんだから、とにかく立ち止まらないで読破することが重要って言ってるんだけど、本当にそうだね。理解しようなんて思ったら違う言語の本なんて読めないよね。


だってその言語をマスターしてない状態で読むわけだから分かるわけないじゃない?そこで分からないとか理解してないからダメだっつって諦めたら読書が成立しないもんね。ってことでまぁ「理解しなきゃ」って思いながら本を読むのって俺の悪い癖なんだけど、そういうプレッシャーを与えないで読むと意外にそっちのほうが読めたりするっつーか理解できたりするんだよね。これまた清水幾太郎の本に書いてあることだけど、たいていの作家なり哲学者が書いた本なんて「ガーッ」っと思念の塊みたいなのを出力しまくってるわけだから、その出力の勢いに読者も乗らないとダメだっつってるんだけど、これまたあたりね。前にここに書き込みしてくれた人がウォール伝は読みやすいって言ってたんだけど、これはおそらく俺の「ガーッ」っつ書き方そのものだと思うんだよね。下手に上手く見せようとかストラクチャをしっかりさせようって考えないで、本当にサルトルの嘔吐の如き独白が続くわけじゃない?これがまぁ独り言なんで読みやすいんだろうね。読むというよりかは独り言を聞いてる感じでしょ?おそらく読書全般そうだと思うね。まずは「ガーッ」って読んで、必要があるものに関しては精読すればいいんだと思うんだよね。一個一個ちゃんと読もうとするから読書の敷居があがっちゃって生活に組み込みづらくなっちゃう。そうじゃなくて楽なもんっつーか活字の上を飛び回るような娯楽なんだよってコンセプトでコミットしないと長続きしないんだよね。そんなこんなでジジェク師匠の本はほとんど読み終えてしまったよ。3分の1ぐらいはもう読んでて、んで残りは全部図書室で読んだ感じ。いや、ホントに楽しかった。ジジェク師匠のノンストップな喋りっぷりが目に見えるようで、速読にピッタリっつーかね、本当に「ガーッ」っと読むのにぴったりだったな。もちろん全部は理解してないんだろうけど、でも内容は頭に入ってるんだよね。あと本って手元に残るじゃない?あ、俺って本を借りてくるやつの気が知れないんだけど、ようは手元にアーカイブとして残れば将来のもっと英文の読解力がついた俺がまた読む可能性があるわけで、だから本を所有することって重要なんだよね。これまた清水さんの本にも書いてあることだけど、その時々によって理解って変わるんで、だから本って持ってればまた違う観点から将来的にそれを読める可能性があるってことで本を所有する意味ってのがあるって言ってるんだけど、それこそ勝手に脱構築するなりなんなり違った視点でエクリチュールってのは読めるわけだからさ、だからいいんだよね、その読んでいる時に全身全霊を込めなくても。無くなりゃしないんだから、むしろ疲れないように飽きないように読む方がよっぽどいい。浅田彰マルクスなんて寝転びながら読むように書かれているって言ってたけど本当にその通りだと思うよ。難しい本こそラフに読むことが重要。


ところで全身全霊を込めないって話だけど、俺の学校のサイクルがニート並に楽なのは羞恥の事実だよね?週四でね、もう絶対金曜からは3連休なの。で、一日も大体6時間ぐらいで、日によってはクラスとクラスの間に1時間以上もの空きがあるんで、賞味のクラスの時間と言えば4時間とかそれ以下みたいなね、それが週四なんだけど、勤勉な日本人のみなさんにはなんて怠惰なんだ!って思われるかもしれないね。それこそ日本人の勤勉さというヴァーチューを真っ向から否定するような生活をしてるからね。俺。でもね、こんだけ無理の無い生活をしていると逆にさっきの読書じゃないけど持続性は高いんだよ。いきなりメンタルブレイクダウンを引き起こしてダメになるみたいな可能性が相当低い・・・・ってのは切羽詰まってないというか、生活にゆとりがあるからなんだよね。それは金銭的なゆとりではなく時間的なゆとりね。実はこれって凄く生産的で、こういう生活をしていると、まず学校をズル休みするような動機が無くなるのね。だから当然出席率は完璧。で、クラスも最低限しか取ってないんで、まぁ教授にもよるんだけど、無駄に宿題みたいなやっつけ仕事に生活をオキュパイドされることもないわけ。だから今のフランス語の授業みたいなのにも出れるわけよ。物凄いストレスだけどね。ようは「やらなきゃいけないこと=厭なこと」という図式を自分の生活をアーキテクトすることで壊しちゃうのね。だからそれは俺がよく書いているような、自分の自由時間を輝かしい価値のあるものにするためにやらなきゃいけないことを生活に組み込むみたいなね、それはアメリカ人が週末のために平日頑張って仕事をするようなもんだね。だからあとね、このペースだといわゆる夏休みとか冬休みみたいな長期の休みがいらなくなるのね。普段から余裕があってやりたいこともそこそこ出来ているから、逆に長い休みなんていらないわけ。だって普段から十分な休みが取れてるんだから。だからおそらく普通の人が感じるような、日曜の夜の憂鬱みたいなのも酷くないわけね。これは長期的に考えれば、無理して普段からやらなきゃいけないことばっかするよりも、スローペースながらも厭にならない程度にやったほうが逆に効率がいいっていうのは、ようは生活の恒常性というか持続性だよね。さっきの読書と一緒で、頑張って読もうと思うほど読書の敷居は高くなるし、ましてや難しい本なんて読みたくなくなる。だけど別に頑張らなくてもいいんだよね。適当に読んでもいいわけ。でもその適当な読みからも何かを得られるものがあるし、そこからその本への入門が始まるわけでさ、本格的に読むのは適当に読んだ後とかでもいいわけね。逆に難しくて高尚って言われてるような本が、実は無駄の塊みたいなので、要約すれば新書一冊分ぐらいで終わっちゃうみたいな、そんなのもあるからね、最初から頑張って読もうとするなんてバカバカしいことなんだよね。「あれ読んだ?」「えー?読んでないの?」っつー知的スノビズムがあるじゃない?ああいうのって「俺はあんな難しい分厚い本を読破したんだぜ!」っていう優越感を人に見せびらかしているだけなんだよね。内容を理解しているかしていないか?というところで勝負すると、実は無駄が多い哲学書みたいなのは優れた学者の要約書みたいなのを一冊読めば済んじゃうかもしれないわけで、その「見せびらかし」のために頑張って難しい分厚い本を読むなんてただの時間の無駄なんだよね。理解しちゃえばいいんだから、その理解の方法は色々あっていい。何も原書を精読するということに限った話ではないわけね。


生活も同じで「残業込みで12時間も一日に働いてます。休日出勤もあります」なんていうのを「俺は忙しいんだ」って言いたいがために自慢するやつってのは、さっきのペダンティックな知的スノビズム丸出しのやつと原理は一緒ね。実際に重要なのは自分の本質的な生活に必要なお金を稼げているのか?とか、なるべく嫌じゃないことを仕事にしているのか?とか、仕事の生産性なわけで、時間とか忙しさじゃないんだよね。仮に俺の今の生活を仕事に置き換えた場合、俺は一年中睡眠不足が無くて体調が基本的にはいい労働者なわけよ。で、自由気ままに一日4時間とか5時間ぐらいしか働かない。週4ね。で、残りの3日は好きなことをして暮らしている。でも仕事している間ってのの体調は万全で嫌々やってないんで生産性は高いわけ。で、有給とかいらないし長期休暇とかもいらないわけだから、このペースを一年続けているほうが、ミッチリと週5で死ぬほど働いている人より効率がいいかもしれないんだよね。みっちりの人はストレスも疲労も凄いだろうし、ろくに脳やら体が仕事している間に働いてないかもしれないじゃない?で、忙し過ぎるからしょっちゅう調子悪いわけよ。休みもいるし。だったら俺の生活モデルのほうがいいよね。まったりしてて効率やら能率がいいわけよ。もちろんフランス語のクラスみたいなすんげー厭なこともあるんだけど、それは普段の生活のゆとりによって、許容されるレベルにその脅威がとどまるわけ。逆に普段がパンパンだったらもうフランス語の授業には出なくなるかもしれないね。


アーレントが「自由な活動の空間」と呼んだのは、労働=必要という契機を下げることによって生まれる個々の多様なる活動のことだったわけだよね。お金もそこそこある。休みもある。んじゃあどうしようか?という時に生まれる人間の必要性にかられない自由な活動ね。それが文化を形成するわけ。今の日本みたいな国の文化の空間が貧相なのは、人々が忙しすぎて文化なんかに関わってる暇が無いっつーのはあるよね。文化を享受するって精神的な余裕が必要だったりするし、何より時間がないと無理だよね。だから時間が無いんじゃコミットできない。んじゃあ短い時間の間で日々の労働の成果を目に見える形で提示できるものは何か?っつーとアイロニカルなのが消費なんだよね。一気に高いブランド物とか買って自分を満たすことでしか日々の自分の生活を肯定できない。だから資本主義ってのは過剰な生産と消費を生み出すわけだよね。まぁ逆にそういうのに立脚したものだから、それが無いと成り立たないってのはあるかもしれないけど。それだったらそんなに無理して働かないで、質素な生活でもして趣味を持ったほうがよっぽどいいわけだよ。まぁでも今ってその忙しさに身を置くことでしか自分の身分が保証されないっつーのがあるから微妙なんだけどね。むかしのフリーターみたいな生活はできないんだよね。今、フリーターというと働いても働いてもまともな暮らしが出来ない人たちって感じじゃない?まぁワーキングプアってやつだよね。だったら同じ働きっぱなしのコンディションでも正社員なりなんなりっつーちゃんとした形体のほうがいいってことになるわな。これが若い人の保守化を招くんだよね。好きなことやるとか自由なことをやるというよりかは、リアルに自分の地盤を固めたほうがいいってことになって、会社の歯車の一個になっても安定できればそれでいいとかって思っちゃう。これってのは自由のアイロニカルな構造とよく似ていて、完全に自由って言われて、んでやるのも自由、だけどリスクを背負うのも自由っつーんで自由過ぎるのが怖くなっちゃって、ちょっと束縛があってもいいから、何かしらのレールに乗ってた方が気が楽ってことになって、自由という立場からコントロールされるということを求めちゃうんだよね。だから実際的な自由というのは、それこそボンボンみたいなやつらにしか享受できるものじゃないってことになるよね。彼らには経済的なバックグラウンドがあるから、そこに労働=必要という契機が無いんで、コントロールされようとする動機も無いわけよね。でもパンピーは自由を謳歌するための金銭的なベースってのが無いとダメだから、それを得るために労働をするわけだけど、その労働ってのが必要以上に個々の生活を食い破ってきて自由までもなくしちゃうんだよね。自由意志で労働を選んでいるんだけど、労働するということがつまりは自由を破棄するということになるんだけど、でも労働無しの自由はありえないっつーかそれじゃあホームレスになるっつーんで、だからあえて自由を捨ててでもホームレスにならないために労働という下僕の道を選ぶわけだよね。これはもう完全に構造的なことだよね。労働=必要という契機を選ぶことでしか人生を生きられないわけだから。それが結果的にさっき書いたような文化の衰退の原因の一つにもなっているんだよね。時間がないということがもたらすダメージというのは予想以上に大きいわけだよね。そんな意味でまぁ今の俺の生活ってのはもちろん俺も経済的なバックグラウンドがあるボンボンという枠でしか自分を語れないけど、仮に今の生活モデルのまま仕事が成り立って、そこそこやっていけたとしたらもう完全に俺の勝ちだよね。労働よりも文化のほうが必要性が高いわけだから。俺にとっては。その文化を享受するための基礎作りの労働というだけで、契機はあくまで文化=必要のままなんだよね。


いや、うちは金無いよ。前にも書いたように親の収入が激減したからヤバいんだよ。ただなんつーかね、もちろん仕送りがあるし学生だからこういう生活が出来るってのもあるんだけど、仮にこのモデルを将来的な普通の生活にも当てはめることができたらもう最強じゃんって思うんだよね。その代わりと言ってはなんだけど、まぁ貧乏だろうけどね。最低限の生活は出来るけど贅沢は出来ないね。ただ俺としては自由な時間に文化を享受するというのが一番の贅沢だと思うんで、忙しい中の贅沢ほど貧しいものはないって思うしね、だから今の俺の苦学生活ってのは悪くないんだよっつーかこれが一生続けばいいなって思うぐらい完璧なわけ。相変わらず俺の生活の設計の仕方は完璧なんだよね。学校がほどほどというのが本当に良い生活のスパイスになっているわけ。だから仕事もこんな感じでほどほどに出来れば最高だなって思うわけね。


思ったより長くなったな。いや、毎週三連休いいよ。まぁ週4生活というのかな。金はないけど本当に贅沢な生活だよ。ってことでヴァーチューの切り替えが必要ね。労働に生活をオキュパイドされているのが偉いんじゃなくて、文化的なものに生活をオキュパイドされているのが「良い」とされたほうがいいわけね。だから経済ゲームなりマネーゲームもone of themとして考えなくてはダメね。あんなのが全てじゃないんだから。金って必要だけど必要以上になると、金に内面的な何かを吸い取られるような気がするね。過剰に金を得たり使った分だけ内面的な、観念的な概念としての魂を吸い取られてるみたいなね。結局だからマネーゲームってのはゼロサムだよね。過剰に得たお金の分を自分のソウルを満たすための何かに使うんだけど、普段からマネーゲームによって吸い取られた魂の分を消費なりなんなりで補充しているだけで、実際は何もプラスになっていないんだよね。だったら最初から魂を売らずに、そこそこのお金を持ってソウルのために人生を費やした方がよっぽど建設的だよ。いや、妥協でもなんでもなくて実際にね。