ノクターン de エポケー。

mimisemi2008-09-20

プレステと言えばオベリスクで挫折してやってなかったノクターンを久々にやったんだけど、もうこれダメだ。昔のニート生活してないからもう無理。Time consuming過ぎる。テツ・イノウエの作曲プロセス並に手間が掛かりすぎる。いやね、そうなんだよ。主体って恣意的だから、その環境とか経験によって意見なりね、考え方ってのが変わるわけ。昔のニート生活な視点から見れば、時間がかかっても内容が重要だから、あえてゲームをライトユーザー向けに作るべきではないなんて言えるんだけどっつーかまぁ本質的にはそう思うけど、今みたいな半ニート生活だと
それは無理だね。時間がかかり過ぎるゲームは普通に無理っつーかイライラする。


あと何かね、前に音楽に関する話でこんなことを書いたかもしれないんだけど、ある程度歳を重ねたんで、オーディナリーというか、既存というかすでに経験している刺激に脳が反応しなくなっているのかもしれないね。経験によって主体の倫理なり道徳なりが形成されていくっつーのはまぁそういう意味だと納得だな。そのゲームの善し悪しというよりかは、それを受け取る側の感受性に良さが委ねられているという意味だと、なんというか芸術にしても映画全般にしても同じことが言えるよねっつーのは、基本的にそれらを感じるのが主体である以上、客観的な作品の良さなんてのは存在しないんだよね。だから一般的な評価というのはあくまでパンピーという大衆に広く支持されているという意味で「一般的」なのであって、それが本当に優れているかどうかなんてのは分からない。むしろ作品と主体ってのはビトウィーンな関係でさ、ここで言うビトウィーンってーのは歯磨きの意味なんだけど、歯周ポケットに歯ブラシの先端が上手く入るわけないんだよね。歯並びだのなんだのなんてのは千差万別なんだから、人間全てがビトゥーンを使えば歯周ポケットに歯ブラシが入るってわけにはいかないんだよね。もうさすがに売ってないだろうな。あれ。いや、分からん。特にあのギザギザのやつは本当に馬鹿だよね。素人がセンセーショナリズムで作ったようなポピュリズムの塊みたいなもんだよね。多くの人々の歯周ポケットに歯磨きが入るからそれが良い歯磨きなのか?というと、それはあくまで相対的というか、多くの人の歯周ポケットに歯ブラシが入ったという結果、多くの人に支持されたからあくまでもそのポピュラリティーが「良い」ものとしての価値を規定しているのだろうけど、合わない人にとってはあんなものゴミだよね。そういう意味でちょっと俺はデカルトのことを誤解してたかもしれない。


おそらくデカルトの言いたかったことは独我論でもなんでもなくてっつーかまぁそういう要素はあるにしても、究極的に言えば、何かを知覚するものというのは主体というか主観でしかないわけで、そういった意味で世界観が主体によって形成されていると考えるのはある意味当然なんだよね。だから客観性というのも主観性からの想像でしかない。おそらくこうなんだろうなっていう想像によって客観性は成り立っているという意味で、本質的な客観性なんてのは存在しないんだよね。そういうことから考えてみても、昔と比べて状況が変わってしまった今の俺に取っては時間のかかるRPGはもう迷惑でしかないわけだよ。おそらくRPG自体の価値は変わっていないんだろうけど、それを知覚する主体の考え方が変わってしまったので、主観的な価値というのが変わってしまったんだよね。だから糞ゲーなんじゃないんだけど、糞ゲーのように感じられるっつーのは無駄に長いダンジョンとか分かりづらい進め方なんかについていけないっていうのがあるんだけど、そんなのも含めてゲームの価値を考えてしまうのであれば、ある意味で本質的なことからは遠ざかっているよね。それ自体の価値というか良さというよりかは、恣意的な評価でしかない。本質的なものというのはたぶん普遍的な価値を秘めているものなんだろうけど、さっきも書いたようにその価値を感じるのが主観である限りにおいては、もうそこに普遍性なんてのは存在しないんだよね。むしろ普遍性を支えているのは主体の一貫した価値観や美学かもしれないし、社会的に与えられた権威的価値によるものかもしれない。そういったいろんなものが合わさって作品なり物の価値って相対的に一時的に主体によって規定されているわけで、それは極めて脆弱で流動的としか言いようがないよね。


ありふれたことの繰り返しのように人生が感じられるようになるってのはまぁ成人したと言えなくもないんだけど、でも一喜一憂でもいいから、その時々を思いっきり楽しむっつーか、感性をビンビンに働かせて生きてた方が人生の強度は高まるよね。いや、そこで刹那的であれと言っているのではないんだけど、俺みたいな歳を重ねたっつってもまだ若い青二才みたいなやつですら、こんなに人生が虚しくてつまらないことの繰り返しだって思えるのであればもう将来なんてもっとそうだろうなって思うわけね。今はそういう意味で社会的引きこもりだったのが、今は熟成した引き蘢りになってしまったのかもしれないなーなんて思ったね。面白かったものが経験によってどんどんつまらなくなっていく。そんな楽しいことなり幻想なりをリアルタイムに引き裂きながら焼き畑みたいに生きているのが人間なのだとすれば、基本的にハイデガーが言ってたように、人間ってのは死に向かう存在なんだけど、でもその被投性みたいなのに「君は限られた存在なのだよ」って思い知らされることで、「はぁー退屈だ」なんて呑気に思える日常性というのは壊れるかもしれないよね。日々、経験によって様々なことがつまらなくなっていく上で、主体はバリバリ死に向かって行進していると。そこでニヒリスティックになるのもいいけど、逆に限られているんだと思うことで、その時々の価値というのを噛み締めないといけないのかもね。幻想を焼きながら死に向かって歩いて行く存在ってのは別な言い方をすれば、主観性を焼き捨てながら、死という存在論的超越性に向かっていっている意識だよね。「楽しい」という感覚も恣意的で相対的な感情の現れにしか過ぎないのだとしたら、それは今ずーっと書いてるように経験によって様々なことは既知のものになっていくよね。それが今書いている幻想を焼き捨てる主体なんだけど、ただね、つまらないかもしれないけど、物事を現象論的に受け止められるような認識的基盤が出来ていくということは、たぶん一般的な定義における「成長」の意味に一番近いかもしれないよね。ただの現象を恣意的な意識によって知覚しているただの主体だと思い込んでいるただの意識の連続体が人生っていうね、そうなんだとすれば、経験すること自体がもうすでに成長じゃんね。そういう意味で様々なことを知ったり経験することが成長に繋がるっていうようなクリシェなんだとすれば、このクリシェは素晴らしいクリシェだな。だってそれは身体的成長みたいな陳腐なものじゃなくて、意識の主体の成長なわけじゃない?それって凄いことだよね。だから今もね、ゲームをやったりして昔ほど楽しく感じられてない俺って凄いなって思っちゃうわけ。内面が変わっているんだなって身を持ってっつーか、意を持って感じているわけじゃない?で、よりもっと本質的な自分の実存に関わるようなことのレベルにおいての「喜び」なり「楽しさ」を求めているわけで、そういう意味ではやっと成人できたってことなのかな?聖人したいけど変人な俺としてはそれは無理だろうな。それは聖人のようにあがめられることを求めるんじゃなくて、聖人のようにストイックに生きたいってことなんだけど、まぁそれは高望みし過ぎだし、それはある意味で俺の女性の理想の高さより高いもんかもしれないな。


物事を「楽しかった」とかっていうような主観的な判断で理解するよりも、人生という死に向かう道を歩いているにあたって、その瞬間で最良の判断が出来たなーみたいなね、ちょっとスピノザチックかもしれないけど、スピノザ的な意味での「喜び」という観点から物事を理解した方が、ニヒリズムに陥りやすいような今の絶望しきった世の中を生きていくにあたって良い判断かもしれないね。だから俺は今回ね、だからっていうと変だけど、自分なりにノクターンをやっててエポケーを感じたわけよ。まぁまだまだ大変だけど、ようやく純粋意識が見えてきたかもしれないなぁー。これは俺にとっての「喜び」だし、それは面白いゲームをやってることをより少なくとも自分にとっては「善い」ことだね。


ってことで今日はこのへんで。

追加。

↑出たんだね!邦訳!!やったね!っつーか目新しいことは無いんだけど、ムフの一連の理論の要約というか、他のに比べて比較的分かりやすいものになってると思うわけ。これ。いや、分からん。「The Political」の邦訳だったらの話ね。ネグリへの痛烈な批判が最高だよ。マジで。特にムフみたいなのは既存の左翼への良い特効薬になると思うのね。左翼病の治療に最適みたいな。マルチチュード的な考え方に関しては例えばサイモン・クリッチリーなんかも批判してたよね。繋がってるでしょ?クリッチリー・ムフ・ラクラウ・あと一応ジジェク師匠みたいなね、大陸系哲学を経由したプラグマティズムみたいなのね、俺も最近本当におぼろげながらその形がつかめてきたんだけど、あとリチャード・ローティーなんかも一応はそこそこ良さそうね。あと文脈ちょっと違うけどウィリアム・コノリーね。この辺が一番ラディカルでプラクティカルな気がするな。そう思うと政治学全般って大陸経由じゃないとダメって感じがするね。アメリカとか単純過ぎるからな。プラグマティズムっつっても元々のイギリスのやつとか俺全然好きじゃないし。あ、あと前にも薦めたけど脱構築プラグマティズムって本はめっちゃいいよ。この辺がマジで集まってる感じだから。ラクラウのやつってあんま邦訳無いから貴重だよね。あと一番良いのがラクラウね。この本の議論の中で。自由を制限するものが自由を可能にするみたいな、最近の俺の民主主義への懐疑的態度と権力志向みたいなのがね、まぁラクラウが権力志向かはともかくとして、考え方が凄く近いのよ。だからあれなのね、自分がおぼろげに考えていることをちゃんとシステマティックに見事な文章で書かれているのを読む時の感動というのが読書の醍醐味で、特にムフとラクラウは俺にそういった刺激を与えてくれる数少ない思想家なのね。ただあんま影響されすぎると「そうそう!そうなんだよ!」という感動からそれがミメーシスへと変わってしまって、ただの受け売りみたいになっちゃうのが怖いんだよね。まぁムフ・ラクラウ的な思想に対してドグマティックになっちゃうっていうね、そこが読書の怖いところでもあるから、そういうところには常に気をつけなきゃいけないんだけど、まぁそれがクリティカルであるということだよね。その辺はまぁ俺って俺自身が常に懐疑的だから心配はしてないんだけど、ただ議論なり思想が見事だとミメーシスしちゃうんだよね。滅多にいないけど、ムフ・ラクラウは俺にとってはやっぱり強烈。あと今読んでるヤニス・スタヴラカキスの「ラカンと政治的なもの」も相当強烈。この人はムフの弟子みたいな人なんだけど、議論と構成の見事さから言ってもうムフ・ラクラウそしてスタヴラカキスっていう三羽烏って言っても見劣りしないぐらいなのね。あ、んでまだ読破してないからオススメにはいれないね。読んでないやつを薦められないから。まぁー世の中には頭が良い人がいるもんだよね。感心しちゃうよ。そしてその思想で妊娠しちゃうっ。あ、プラグマティックなプレグナンシーってことね。

脱構築とプラグマティズム―来たるべき民主主義 (叢書ウニベルシタス)

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