Serial experiments lainについての覚え書き。

mimisemi2008-09-28

lainというアニメをご存知?別に俺ってそんなアニメファンじゃないんだけど、前から書いているように、特にジャパニメーションみたいなじゃないと表現できない表現物の媒体というか形態みたいなのがあって、俺が好きなアニメっていうのはとことんそういった要素を満たしているものが多いんだけど、lainもそんな中の一つなんだけどね。以下は所謂ネタバレになるんで見てない人は見ないでね。まぁ逆に読んでみて面白そうだったら見てみるってアレもあるんだけど。


基本的にまぁこのアニメの大枠を語ると、まぁなんつーかね、ネットみたいな要素を社会的な要素と上手く絡めたやつのハシリみたいなやつなんだけどね、ワイアードっていう「繋がれた」世界と、ワイアードで繋がれた人たちが想定して生きている現実世界があるんだけど、まぁブニュエルの映画みたいに現実とワイアードの境が微妙なんだよね。で、最終的に分かるのはlainという主人公の女の子は人間ではなく、ナビと呼ばれるコンピューターのソフトウェアが物理的肉体を持っていたってのが最後の方で分かるんだけど、んじゃあ現実世界はナビの中にあるワイアードだったのか?ワイアード自体が現実世界の本質的なフォーマットを規定しているものなのではないか?みたいなまぁ色々な考え方ができるいい素材なんだけどね、まぁ話自体は凄くポストモダン思想チックというか、lainはソフトウェアだったんだけど、その肉体を持ったソフトウェアの存在自体は「ソフトウェア」と呼ばれる物が実存レベルでは語れない存在であるように、lainもまた実存レベルでは語れない、あくまでそのlainを知覚した人々によって作られる存在であって、そこに主体は無いみたいなね、存在それ自体は他人と繋がることで規定されるみたいな感じでさ、まぁなんつーかアリストテレスだかが言ってたような、人間ってのは政治的動物だっていうね、本来的に社会性というのが備わっているというか、それが無いと活きていけないみたいなことなんだけど、特に俺がlainを見て感じたのはそこの政治的動物というところなんだよね。いや、社会的動物だったか忘れたけど。


lainの物語の筋書きっつーか内容はまぁ見てもらうとして、俺が感じたのはね、最近俺が色々考える老いにも繋がることなんだけど、例えばうちの父方のじいさんの話なんだけど、うちの親父が高齢出産で生まれた子でね、じいさんが40過ぎの時の子供なんでえらい歳の差があるんだけど、それはまぁともかくとして、90過ぎまで生きてたんだけど、階段から落っこちて大けがをしたのをきっかけに体が弱っちゃってね、で、元々ちょっとボケもあったんだけど、入院生活になってからはもう本当に進んじゃってさ、死ぬ間際ぐらいは奥さんっつーかまぁ俺のおばあちゃんね、あと近い人ぐらいしか覚えてなくてさ、まぁ大体ボケってそうらしいんだけど、俺のことを「誰だよ?この人は?」なんて言うわけ。これを言われた時は凄くショックだったな。でもショックだと言ってもね、人間の意志というのはlainでも語られているように、例えば歴史の積み重ねだとか実存的な記憶とかで担保されているのであって、何かの普遍的な物質とか思念体みたいなものではないんだよね。


そういう意味だとドライな脳科学的視点というか、茂木さんだかのクオリアみたいなのはおいておいても、やっぱりこういうときは脳の諸作用が意志を規定しているというのを凄く感じるよね。意志といってもそれは脳なのであって、脳機能が低下すれば記憶も無くなってっつーかまぁアルツハイマーとかだとね、俺の記憶とかも無くなっちゃうんだよね。奥さんとか息子とかっていう近い存在についてはその人の実存に深く関わる人たちということで、あくまで脳が心臓を動かすだのなんだのっていうような、意志を介在しないような身体的機能を維持し続けるように、そういった近い存在達もまた、脳にとっては心臓や内蔵だのといった、脳とかかわり合いがありすぎるために忘れようが無いというような、身体的存在なのかもしれない。ようは体の一部ということだね。いや、そこでマッチョに父権的なことを言ってるわけじゃないんだよ。それはおじいちゃんにとってのおばあちゃんではなく、同じようにおばあちゃんにとってのおじいちゃんということなので、例えば性的なドミネ−ションだとか、飯を作ってくれる存在みたいな、そういう意味での近しい存在ということではないし、そういう意味で身体的なんじゃないよ。ただ俺みたいな存在はおじいちゃんの90年以上の歴史の中での本当に最後のほうに現れた存在なわけで、そりゃープライオリティで言えば自分の息子だとか奥さんを覚えているほうが当たり前だよね。俺はおじいちゃんの身体的存在になれるほどおじいちゃんにとって大きい存在ではなかったんだよね。いや、それは悲しんでいるわけではなく、まぁおじいちゃん子とかはともかくとしてまぁ孫と祖父なんてそのぐらいのもんなんじゃないかな?それは自分と自分の親との関係のほうが、祖父や祖母との関係より近いというような自明のことと同じなんだけどね。


で、俺という存在の記憶を忘れたおじいちゃんというのは死ぬ前に自分のことをどの辺まで覚えていたんだろう?って思うとね、記憶力が無くなると、それまで積み重ねてきた人生の「意味」なんてのが立ち上がらなくなっちゃうんだよね。もちろん死ぬ前にボケたから人生意味無しっていうことなんじゃないんだけど、それは突然死とかでもそうだけど、自分が死ぬということを予期してそれまでの事柄を走馬灯のように見直して意味を見つけるだとか、死ぬ間際に再定義するだとかね、そんなことを許さないのが死だとかアクシデントなわけだけど、ハイデガーじゃないけど、まぁ人間はそんな死に常に向かっている存在なわけだよね。ただ俺がこないだ死というのが実存的超越だと書いたのはね、そういった意志すらも介在しないような、人間という枠組みを離れてしまうことで得られる身体的・精神的、もしくは主観的呪縛から逃れられる方法なんだよね。だから俺が自殺を否定しないのはね、少なくともその人の実存レベルでその絶望に耐えられないのであったら、それは自殺というのは合理的だということね。


キルケゴールを出すまでもなく絶望ってのは死に至る病なんだよ。俺に言わせれば不安とかもそうだね。脳はそういったものに耐えられないらしいからね。そのぐらい過酷な環境だと、ある意味では自己防衛という本能で死を選ぶのかもしれないよね。だからそこで主観を変えろだとか、生きていれば良いことがあるだとかみたいな処置が大嫌いなのはね、少なくとも俺にとっては糞食らえだと思うのは、昨日のマイノリティの話とちょっと似ているけど、「自殺」は悪いことだ、と一方的に社会で道徳的な観点から決めつけるのではなくて、その自殺に至るきっかけはなんだったのか?ということを考察することが重要なんだよね。それはかなり物理的なものだと思うんだよね。単純に経済的なことだとかさ、職がないとかさ、そういうのは社会がちゃんと機能してないからだよね。で、俺に言わせれば若者のアノミーも、マイノリティ達の括弧付きの「異常」な犯罪も、それが表出してきてしまったということは少なくともその主体もさることながら、その主体をそうさせてしまった社会的というか環境的なことも込みで考えなきゃいけないわけだよね。で、こんだけ自殺者がしかも一定以上にある社会なんて健全なわけないよね。まぁ自殺の話はいいか。でもね、ちょっと補足になるけど、構造的なディスファンクションから来る自殺があるように、例えばなんらかのそのコミットした主体が確実に悪いと思えるようなことでも、その行動に至る経緯というか、どういうような構造的力学が働いて主体をそういった行動に至らしめたのか?というのが凄まじく重要ってことね。


で、まぁ意志の話に戻るけどね、基本的に今、こうやって考えられて人生だのなんだのの意味を考えられるのもそこに俺という主体を知覚している自分がいるから出来るわけで、それが無くなってしまったらそれこそもう動物的存在になってしまうよね。まぁもっとも攻殻機動隊2のキムみたいな言い方になると、そこに認識という果実を貪らない純粋な意志というのが超越的だということになればね、動物や認識を持たない意志を持った人形は超越的だと言うわけだけど、ただポイントはlainはこういったようなパラダイムを全然先取りしてたんだよね。いや、分からん。イノセンスの原作のほうが早かったのか分からないけど、まぁ前後関係は分からないからいいや。lainはナビのソフトウェアという存在で、現実世界もまたワイアードとの差が無いか、もしくはワイアードの中にある現実世界なのかもしれない・・・・というような枠組みの中で考えると、このソフトウェアという存在自体がナビというパラダイムに存在するということはすなわち、そのパラダイムの一部か、そのパラダイムを規定するような意志と肉体を持った存在が存在するということになり、それは物語でも何回も示唆的なシーンが出てくるように、それは神的存在かもしれないんだよね。現実世界がワイアードの一部か、もしくは現実世界がワイアードの一部なのだとしたら、lainという神的思念体は至る所に偏在することになり、それは極めてスピノザ的な汎神論的世界のパラダイムになるわけだよね。


そういった意味だとハルヒ的物語のパラダイムというのも別にハルヒがオリジナルではないんだということが分かるよね。いや、まぁlain以前にももっと文学とか映画でそんな話は散々あったのかもしれないけど、まぁそれはともかくとして、仮にそういった世界だったら?という仮定で見た時の、そこに生きる何も知らない人たちの意志を規定するものは何か?ということなんだよね。現実世界はワイアードかもしれない、もしくはワイアードが現実世界なのかもしれない・・・みたいなトートロジーになっているような世界観で、ではそこに生きる、もしくは在る主体というのは何なのか?ここで重要なのが物語のはじめから示唆されているように、人間は基本的に「繋がっている」か、本能的に「繋がる」ということを求める動物なのではないか?ということね。そういった本来的な枠組みを創造者たる英利政美は元に戻しただけだと語るんだけど、そこには超人的な思考に立脚した「英」雄気取りなやつの「利」己的な「政」治の「美」学が垣間みれるんだけど、人間が他者と繋がるということを本能的に求めるというのはつまり、自分というその主体が明日にはもう失われるかもしれない曖昧で脆弱な存在を「他者」に反映させることで、その自分の「存在」を知らしめるというような、自分の実存の根底に関わるレベルの本能かもしれないということなんだよね。


だからネガティヴな例で恐縮だけど、ポストモダニズムの殉教者達が、他者とのかかわり合いが無かったり、形成が出来なかったり、もしくは自分の不能によりそれが成熟しないということを「殺人」という行為によって「他者」にその存在を知らしめるという意味でね、こういった行為もまたlain的な意味では本能的行動かもしれないということで、そういった意味だと暴論になるけど、暴力や殺人や逸脱行為によって自分の存在を他者に知らしめるということは人間的には割とノーマルだということになるよね。一部をのぞいては少なくとも我々が思うほど得体の知れない異常なものではない。むしろ問題はそういった方法でしか自分と他人とが繋がることができない、もしくは自分の存在を確認したり伝えたりすることとが出来ないという状況なんであってね、そこに表象する殺人というアイデアなり結果的に出てしまった殺人という行為は少なくともその人間の実存レベルでは本能的で当たり前のことで、むしろ異常なのはそういった行動が社会的コンテキストの中で表出してきてしまったという構造的なことなんだよね。それは自殺でもなんでもそうだけど、遺書も自分の存在というのを他者に伝えるための方法であるし、目立つところで死ぬだとか、何らかを現世に残すということはつまりは死を選んだ主体であっても、死の直前まで他者とのつながりを本質的には渇望し続けているということだよね。


自殺者の死も殺人者による殺人もアルツハイマーを煩った老いた主体もそれ自体の存在は究極的に言えば無いんだけど、それらを「他者」が認識していることで、その存在なり行為は担保されているということなんだよね。俺のじいちゃんは死ぬ前は何も分からなかったかもしれないけど、それを分かってくれている家族なり親戚というのはいるわけで、本人の意思はともかくとして、本人の実存や生きてきたという意味も他者の主観レベルにおいて保持されているわけだよね。そこにlain的な主体無き主体というのが見えてくるわけ。ちょっとラカン臭いか。だからこそ人間が本人レベルで他人との繋がりで自分の存在を投影させると同時に、そこで自己投影によっても自分を確認して、他者との「繋がり」という行為においても自分の実存を確認できるわけだ。で、ネガティヴな例になるけど、人間の欲望の一つに名誉欲みたいな、自己顕示欲があるというのは極めてリーズナブルなんだよね。それは食う・寝る・排出する・セックスをするといった人間の根底的な欲望と同じぐらい基礎的なレベルで存在しているわけだよ。そういった意味でホッブズの言うところのまぁ人間は他人との比較というか、相対的な優越感への欲望よって動機づけられるといったようなことは極めて示唆的なわけだけど、そこに自然状態のカオスを想定するホッブズも、生来的レベルで政治的なものが人間に備わっていると想定するアリストテレスも、性善説に立った社会的ユートピアを想定するプラトンやルソーも含めて、人間というのは他者との関わり合いの中でしか生きていけないというのを直接的ではないかもしれないけど、まぁそんなことを言ってるわけよね。そういった意味で人間の生は繋がっている世界、すなわち「ワイアード」でしか成立しないということになる。ということは他人と繋がるということが自分の生に関わることになり、究極的に言えば、さっきの俺のおじいちゃんにおける身体的実存レベルにいた俺の親父とかおばあちゃんといった他者との関係の重要性は、おじいちゃんという主体にとっては極めて本質的なものであったわけだし、ではそれはどうやって担保されていたのか?というとそれは彼らとの「繋がり」だよね。こういった個体同士の繋がりで人間の生が成立している以上、その「繋がっている」という関係性を保持できる枠組みを、まるで自分の身体の一部のように守ろうとしたり維持しようとしたり良い状態なりを得ようとするのは、それらが個々の実存、つまり生において不可欠なものだからなんだよね。そういった意味で他者との繋がりというのが本能レベルの概念になる。


そういった本能の集合体がワイアード、つまりは社会なわけだけど、しかしながらlainはそのワイアードという中に存在する構成要素の一つだったわけだね。構成要素である以上、そこに存在は無いのだが、そこに意志や肉体が存在する限りにおいて、そのワイアードを掌握する可能性も秘めた神的存在にもなりうる。そうか・・・・自分という体や肉体もあくまで他者や社会との関係性の中で生まれているものであって、そこ主体は無いんだ。と気がついた人はその実存的超越である死を自ら選び、その肉体の崩壊によってワイアードという思念体の塊をメタレベルでたゆたう存在になる。そういった意味だと最初に自殺した女の子は思念レベルではまだワイアードに存在しているので、だから友人にメールを送ったりすることが出来たわけだ。これを我々の現実世界で考えると、強い意志を持った思念体、つまりゴーストが現実世界に物理的レベルで干渉してくるということになるんだけど、現世というのはその現世を行き来する肉体といった媒体を持ったものにしか存在を許されないのにも関わらず、そこに意志レベルで現実に存在するものがゴーストなのであれば、肉体を持った人間の意志そのものもゴーストになりうるのではないか?むしろ肉体を失った結果、それがゴーストになって社会という名のワイアードをたゆたうのであれば、肉体を持った思念もワイアードに肉体を持たない存在として存在することができるのではないか?その意志のバイブレーションが地球が常に発しているバイブレーションと共鳴を起こした時に何かが起こるのではないか?そのピュアな意志のバイブレーションを発する存在、つまり子供を集めてその思念のあるパワーのみを吸い取り増幅させる装置を作ったのがあの博士なんだけど、そういったある種の意志というのが他者との繋がりや記憶といった相対的なものの産物だと喝破しながらも、意志そのものの存在というのがあるのではないか?というのがlainに流れているテーマでもあるんだけど、その究極的なRepresentation(s)がlainなんだよね。


そういった意味でlainは元々が人間ではなくワイアードを構成する一部であったわけだけど、逆説的にシステムの一部にはないはずの意志や肉体が与えられているわけだけど、なぜ逆説的なのかというと、我々人間は逆にワイアード社会を構成するコンポーネントの一つなのであるのにも関わらず、ワイアードへのコミットの重要性に気がついていない・・・・というのはlainが純粋なワイアードの構成要素の一つなのであるのに対して、我々は純粋なワイアードを生きる主体なのにも関わらず、そこに社会的なコミットが生きるということで自動的に存在しているというのは、lainがソフトウェアなのにも関わらず肉体を持っていることで、人間的な諸行動、例えば食べるだとか排泄するだとか寝るだとかといったものを半ば強制的に肉体というものによって与えられているのと同じように、普通に生きる人間達もまたワイアードにおける構成要素の一つなんだということが自動的に与えられているのにも関わらずそれに気がついていない。ということで創造者が介在してきてそのワイアードの機能を元に戻したというわけだけど、そこにワイアードにコミットするということの主体性の重要さや、逆にワイアードが与えられていることが過剰になりすぎて飽和した状態におけるワイアード自体の機能低下、つまりありがちな言い方になるけど、ワイアードという極めて便利な社会的情報媒体があることによって、現実に存在するワイアードではなく、ワイアードに存在する現実、と考えてしまうような主体の考え方がワイアードの機能そのものを担保している他者との繋がりというのを弱めている可能性があるというパラドキシカルな現象があるわけで、ワイアードという社会の過剰が社会そのものの機能を低下させているかもしれないというのはね、かなり警告的だし本質をついていると思うんだよね。


だからといって肉体同士のマッチョな関係が良いと言うのではなくて、そこに人間であったら肉体が介在する相互的な主体同士のコミュニケーションが無いと、その機能不全は深刻なものになるっていうね、コミュニケーションの主体はあくまで生きる人間達でワイアードでも社会でもありませんよと。しかしながら我々はその社会やワイアードとの相互的な関係の中で成立し存在しているわけで、その根源的なものを担保している他者との「繋がり」を軽視するとそれは全体の機能低下、つまり政治的動物である人間の身体の延長である社会そのものの衰退を招きかねないよということでね、そういった意味で人間が社会にコミットするというのは「生」に関わることだし、当然社会に関わる様々な諸要素は自分の一部なわけで、つまりは政治も・・・・というよりかは政治というのは極めて我々の生活を規定している要素なんだよってことでね、だから俺にとって政治的なものとか社会的なことって重要だし、それは自分が実存的で主観的なレベルで音楽や映画なんかを自分の中の重要なものと捉えているように、社会や政治もまた俺にとっての実存レベルに関わることなわけで放任はできないんだよね。だから俺はlainに物凄い政治的なものを感じるんだよね。


だから例えば自分の大事な要素の一つを害するようなことをする政治家だとかがいたらそりゃ放任しちゃいけないんだよ。そういった自分のヴァーチューを守ることが俺はナショナリズムだと思っているし、政治的なもの、公的なものだと思っているわけ。だから他者への共感や様々なものに関する包容性みたいものはある意味で当たり前のことだし(自分に関係のある社会に関わる重要なことなので)、俺はそういった個々の心にあるヴァーチューが無ければ社会は衰退して解体していくだけだと思うんだよね。で、やっと戻って来れた。ジェネラルになるけど、そこで俺がいつも出す中間団体主義としてのアナーキズムサバルタンによるヘゲモニーの確立が出てくるわけね。


いや、別にlainを見て世直しを考えるべし!なんてアジるつもりはないよ。ただ話が割と抽象的な分、様々な解釈が可能な作品だと思うし、何よりいろいろなことを考える良い材料になると思うんだよね。攻殻機動隊2は主体性の曖昧さをほじくる認識論的な哲学作品なんだとしたら、その草薙素子と似たような超越した主体ならぬ思念の存在が主人公のlainは極めて社会的で政治的な作品に思えるね。lainの「繋がる」というテーマが当時はパラレルにマルチに様々な媒体で相互的に関係しながら進行していったっていうのは、そのテーマから見ても非常に示唆的ね。本当に良く出来てると思う。ってなわけで今回はSerial experiments lainについてでした。それにしてもまぁー思ったより長くなったなー。最近すげーな。書く量が。最近気分が病んでるから内面に向かうインナーなパワーがすげーな。


PS


書き忘れ。ネタバレなんだけど、最後はlainとアリスとの「繋がり」により世界の存在が担保されるっつーのはハルヒのね、超越的というか神的存在ハルヒと、その汎神論的世界観に住まう一存在にしか過ぎない主人公との「愛」により世界が救われるっつー話と似てるかもしれない。まぁ両方ともいいアニメだよね。凄く。