これが変人の生きる道。

mimisemi2008-10-08

http://kids.gakken.co.jp/campus/jiritu/medical/backnumber/02_07/top.html


なのだと信じたい。何かしらのスキルなのだ。これは。俺の手足の異常発汗も狩猟民族のDNA故にだろう。手足の異常発汗とか言うと靴が常に湿ってて臭そうなイメージがあるけど、実際は違うんだよね。手足の多汗症を持っている人はオブセッシヴに手足の清潔さを保つと思うんで、逆に奇麗なんだよね。恐らく。手足の異常発汗、まぁ正式には手掌多汗症とかって言うんだけど、ホント、子供の頃からなんだよね。ADHD的な症状も鳩胸なんかも両親が世間体を気にしない家だったんで、全然特別なものとして見られてなかったんだよね。で、俺がこんな歳になって色々なリサーチの元で自己分析をしてみたりするとジーズ!アイマクレイジーメーン!なわけよ。だからさ、あれなんだよね、両親もそういうのが早くから分かって、そういう才能っつーか特性を伸ばせるような場所で育てるようにすれば凄い人間になったかもとかって言うんだけど、まぁ結構手遅れなところもあるけど、まぁまだ俺は学生やれてるわけだし、自己開発できるわけだよね。だからそういう意味でも俺は天才のブランチにはいるんだけど、あくまで凡人レベルなんだよね。それが前に書いた超低級レベルの天才肌ってことね。でも一応天才のブランチにはいるわけだから、それをギフテッドなのだと過大解釈してポジティブに生きていくしかないよね。


ADD的症状がある。

サバン的兆候もある。

分裂病である。

鬱病である。

パニック発作を持っている。

好きなことにしか集中できない。しかしながらその好きなことに対する集中力は半端ではない。

頭がオーバーヒートするぐらい常にいろんな情報によりオキュパイドされている(これが精神病の原因の一つでもある)


・・・・などなど、書き連ねるとただの狂人だけど、天才と狂人の境はなんとやらの条件は満たしているわけだよね。だからここで下手に普通になろう頑張るのではなくて、この狂人力みたいなのを生かすしかないなっていう、そういうことなわけよね。自己肯定ですよ。究極的な。「俺は天才なのだ!」なんて思えればハッピーだけど、俺の場合、「苦しいけど、これは天才の部類にいるからしょうがないことなんだ」って思うことで、その苦しみを和らげつつ、その生きる動機をもっと社会的なものに投影していくっていうね、これが変人の生きる道だと思うんだよな。


天才ってのは人と違うからそう呼ばれるだけであって、人からそう呼ばれなければただの変人というのまいつも書いていることだけど、肯定的に見れば人と違うということは、それだけでもうすでにそれが才能ってことなんだよ。それを伸ばすか殺すかは自分次第ってところでしょ。だから俺はもうね、あまりに日々の生活での気分の浮き沈みとかが酷いんで、もう自分は狂人型の天才の部類に属している人間なんだって思うことにします。そうじゃないと生きていけないからね。マジで。


ADHDの子供は3パーセントから5パーセントいるってことだけど、これって凄いことだよね。「あーマニアックで厄介な貧乏くじ引いちゃったなぁー」って解釈するのも「すげーじゃん!めっちゃレアじゃん!」って解釈するのも自分次第だよね。で、ADHDはやっぱりADDになるもんだと思いますよ。それは社会的な振る舞いを身につけたりして、Hのハイパーの部分が無くなるんだけど、ADDは残ってるわけですよ。でもこういうのを持っている人は自分をautonomyしながら普通に振る舞っているわけです。でも俺はそんな必要はないんじゃないか?と思うわけね。自分がレアな人材なら、それを活かせばいいじゃないかと。むしろそれを活かせる道を模索するべきじゃないかと思うわけですね。非常に。


そんなことも最近本当につくづくと思ったりするので、だからフーコーのバイオ・ポリティクスとかを出してきて、マイノリティについて書いたりしているわけね。「普通という感覚を疑え!」ってのは本当に今後ともずーっっとアジり続けていきたいと思います。ってことで世界ツアーの音源です。


http://mushroom.cage.to/mp3/Lomonosov_Moscow_State_University_Moscow.mp3


天才なんだと思うことで自惚れるのと、天才だと思うことで自己肯定するのとでは全然質が違うわけね。恐らく前者はインテリというか秀才に多くて、後者はダメ人間に多いと思うわけね。で、ポテンシャルで言えば後者の勝ちね。後者は前者では絶対得られない何かを持っている可能性が非常に高いので。それは前者がいくらあがこうとも得られないものだからね。そんなものを俺は持っているんだから、そんなに絶望しなくてもいいじゃないかと自分に言い聞かせているわけね。


あー忘れてた!ちょっと書きたいことがあったんだった。あー本を読もうと思ってたのにぃ。まぁいいや。手短に行くか。


あのね、スピーチのクラスなんだけど、あれから俺は良い意味でも悪い意味でも反省して、先生にごまをするというと変だけど、先生に徹底的に従うことにしたのね。それがたとえ理不尽なことであっても、先生がこうやりなさい!と言ったらそれに徹底的に従う。で、例のスピーチのアウトラインだけど、あれからまた書き直しを渡したら色々文句を言われたんだけど、まだ俺に何かを見つけてくれているのか、他の生徒には全然与えてないようなチャンスをくれたんだよね。もう二回も書き直してるのにまだ書き直しを許してくれたわけ。今までの普段の反抗モードでは「ざけんな!」だったけど、今の服従モードだと「もちろん!やってきます!明日までには出すので待っていてください!」なんてね、自分でも呆れるぐらいモードのスイッチを変えちゃってさ、で、先生が元にしろと言っていたアウトラインのサンプルを、クリエイティビティとか自分らしさなんてのを徹底的に捨ててフォーマルに書いたのを今日出したら「まぁー素晴らしいじゃない!これなら私は理解できるわ!満点をあげるわね!」なんて態度を豹変してたんだよね。まぁ彼女からすれば面倒を見てあげようとしていたのに、いきなり反抗的になった俺に不信感を抱いていたんだろうけど、いきなり俺が「良い生徒」になったんで、あっちの態度も変わったんだろう。それにしてもまぁ不気味な態度の変わりようだけど、それは俺も人のことは言えないな。


でもね、思うにまぁ俺も極左として言うんだけどさ、基本的に反抗するだとか抵抗するだとかね、それ自体が目的になってしまっては本末転倒なんだよね。目的のための抵抗なり反抗があるわけで、それ自体が目的になってしまうと、それはただの社会的逸脱であったりするわけで、何の徳にもならない。徳ってことで言うと、俺は自分のヴァーチューに従って、くだらないテストとか宿題になるべく時間をかけないで、自分の好きな本ばっか読むということをするわけだけど、この抵抗というか学校への反抗も実らなければ意味がないんだよね。つまりこういうことを続けていたら俺の知識は増えるかもしれないけど、それと反比例して学校のグレードは下がるわけだよね。学校なんていうシステマティックなものに迎合してたまるかよ!なんて思っているのもいいんだけど、それが将来的に悪い方向に行ってしまうような原因を作ってしまってはやっぱりアウトなんだよね。


だから俺はちょっとパラダイムチェンジをしたんだよね。もうどんだけ学校でやっていることがくだらなくて非建設的なものであったとしても、「良い生徒」としてグレードを稼ぐためにそれこそふつーの生徒のように振る舞おうと思ったわけね。先生とコンフリクトを作っても何の役にも立たないどころか、それが原因で俺も嫌な思いをするぐらいなら服従した方がマシなんだよね。で、服従することで良いグレードが得られるなら、もうそれはしょうがない。


これが学校における生徒と教師の間での権力の力学なんだよね。教師は生徒のグレードという生徒にとって由々しきファクターを規定するものを牛耳っているので、それを元に生徒に服従を強いることが出来る。生徒はそこで「やってられっかよ!」と俺みたいにストるかもしれないけど、それをしてしまうとその生徒は良いグレードを取れなくなってしまって、んで最悪退学になったり、将来の道を閉ざしてしまうわけだよね。GPAだの学歴だのっていうのが学校に行く目的になってしまっているのが今の大学の現状なんだから(明らかな退廃ではあるけど)それはもう現実として捉えるしかない。そこでの抵抗も実らないし、そこで自分のヴァーチューに従うことで損をしていてはしょうがないわけだ。


プレゼンも自分の好きなようにやってまたみんなを楽しませるのもいいかもしれない。でもグレードという重要なファクターが先生によって握られている以上、俺はやはり俺のヴァーチューより先生の態度を気にしなきゃいけない。だから先生が気に入るようなプレゼンをやって、めっちゃベタなやり方とかをして良いグレードを得るしかないんだよね。


こういった権力的力学の構造こそが政治を規定するものなんだよ。まずはアルチュセールなりフーコーの学校が権力のイデオロギー装置として機能しているという説についてだけど、これは散々前に書いたけど、またあえて繰り返すとすると、特に俺が強調したいのは政治的なイデオロギーフーコー的なタームでのディシプリンを強要するイデオロギー装置というよりかは、人々に「こうあるべき」というような規範を植え付けるシステムとしての学校ということが言いたいんだけどって今書いてて思ったけど、これってフーコーと基本的にあんま変わらないな。


まぁそれはともかくまぁフーコーなんてどうでもいい。ミュージックコンクレートがシェフェールによって半世紀前に作られていようが、ソフトウェアのバグやエラーを使った音楽をミルプラトーとかメゴがやっていようが俺には関係ないことだ。俺は俺で発見したんだから、誰かとかぶっていようが関係ない。っていう前提で話を進めると、つまり例えば俺と今のスピーチクラスの先生との関係ってのはまだいいほうなんだよ。俺はその場しのぎとして、まぁある意味での処世術としてやっているわけで、本質的に俺の反骨精神が消えるわけではないからね。ただね、学校や社会っつーか教育全般というのは、これがこういうやり方なんですよ、とかこれが「良い」やり方ですとか、「良い」モデルですとかって生徒に一方的に教えることで、色々な分野において一元的な価値観を植え付けるわけだよね。だから仮にオーガナイズされていないようなエッセイでも、読んでみると面白かったり、意外と分かりやすくて良かったりするのに、例えばアメリカ式のベタベタなエッセイの書き方とか読み方なんてのが基本になっている人はルールから逸れたものを受け付けないんだよね。ここがこういう風に書かれていないから分かりづらいとか、そんな文句ばっかり。文体は独特かもしれないし、ある意味でカオティックかもしれないけど、まず理解するように努めたら?と俺は言いたい。フォームに沿っていないからという理由だけで排除するなんて最低の態度だと思うんだけど、でも思うにアメリカの教育ってのは、そんな価値観を一方的に生徒に押し付けているわけだよね。それは日本の学校もまた違った意味で同じね。「べき論」を生徒にインポーズするドクトリンシステムが学校なんだよね。


これは俺の勝手な想像だけど、アメリカ人の書く文章とかに面白みが無かったり独創性が無かったりするのは、やっぱりこのアメリカ式のエッセイの書き方にあると思うね。フォームが決まっているので逸脱が出来ない分、そこでその書き方というフォーム自体が書くことにおける遊びみたいなのを無くしちゃっているんだよね。だから分かりやすいんだけどつまらない平坦なものになってしまうことが多い、例えば今日、読み終わったDahlというアメリカ政治学のドンみたいな人のOn Political Equalityという本なんかまさしくそんな感じでさ、なんか新聞の記事読んでるような感じなんだよね。政治「科学」としては超一流だけど、そこに政治「思想」のエッセンスは皆無と言っても過言ではない。もちろん政治思想として書かれたものじゃないので、こういった本に思想を求めるのが間違っているのは分かるんだけど、この平坦で分かりやすい書き方とか話の進め方っつーのに俺はちょっと一種の異様さを感じるんだよね。Dahlのこの本はアメリカ的な書き方のお手本みたいなもんでさ、最初にチャプターの関するもののフックを書いておいて、んで中盤に具体的な話やらデータに基づく話なんかをズラズラと出してきて、自分の分析なり要点なりを様々なものでサポートしていくんだよね。で、最後は帰結としてSumming upをするわけ。これが永遠と続くだけなのね。良く書けているけど、俺はこんなのは読みたくないなと思った。だって本として何の面白みも無いんだもん。だから思ったね、俺はアカデミックな方向に行きたいとは思っているけど、結構大変な話だなと。アカデミックに行くんだったらDahlみたいな書き方をしなきゃいけないわけで、俺にはこんなのは無理だし、読もうとも思わないんだよね。いや、Dahl自体は大好きだよ。この人も俺がアブストラクトに考えていたことをクリアに出してくれた人の一人であるし、凄くフェイバリットではあるんだけど、やっぱりつまらないんだよな。


俺が日本人というのもあってか、やっぱり俺はジジェクだのなんだのっていうような、どんどん話が脇道に逸れていくような、そんな文が好きなんだよね。日本人って本当にそうなんだよね。だからアメリカ的な文章の書き方がイマイチ馴染まない。でも俺は日本的な書き方にもそれなりの良さがあると思うので、俺はあれはあれで全然いいと思うし、俺はああいう日本的な書き方のままでいたいと思うね。で、必要に応じて、服従モードでバリバリベタでつまらないものを書くスキルも学校のために学んでおくっていうね。


で、服従の話に戻るけど、アメリカの学校では恐らく「アメリカは最強の国です」なんてのを普通に教えているわけで、それが単一的なアメリカという括弧付きのナショナリティを、もちろん様々な移民がいるので、そういった多様性を統治するという意味でもまぁ学校という機構を使ってまとめをやっているわけだけど、これってのは物事のスタート地点を植え付けてしまっているので、そのパラダイムから抜け出すのって本当に大変なんだよね。日本人で言えば働くことが素晴らしいとか、無職はダサイとか、日本人が当たり前に信じていることの虚構性ね。そこをクリティカルな人なら打破したり自分なりにパラダイムシフトをしたりするんだけど、出来ない人は一生できないまま、学校やら家庭で教わった、その国特有の価値観なり物事の考え方のドクトリンを抱えたまま死ぬんだよね。聖書を片手にずーっと生きるようなもんだよ。これって。


だからアメリカにしてもイラク戦争は間違いだったなんて思うことが不可能なんて人がいっぱいいるわけだよ。あとあれね、コミュニズムとかアナーキズムへの軽蔑ね。これもアメリカの徹底的な反共的プロパガンダの賜物なんだよね。もうこれは常識なんだよね。日本で言えばオウム=悪ぐらい定着した図式なんだよ。だからちょっとラディカルな人ですらコミュニズムを嫌ったりするわけ。で、大抵の本質的な左翼は大陸的な哲学とか思想のバックグラウンドを持った一部のインテリだけでマイノリティなんだけど、でも影響力があるんだよね。でも最近思ったのは、やっぱり本質的にラディカルな人はマイノリティだなってことね。それはアメリカでも同じ。アメリカっつーか特にニューヨークにはラディカルな人が多いとかって勝手に思っていたけど、日本より酷いぐらい政治的にも生活的にも保守的な人たちばっかりで、一部のラディカルなんて本当に少数だし、かなり狭い世界だなと思ったね。普通の人は全く知らないような領域だから。そういう意味で別にパンピーレベルはどこも変わらないんだなって思ったよね。だからニューヨークへの過度な期待とかって無くなったね。もう。別にラディカルでもなんでもないわけよ。でもまぁ日本と比べたら凄く政治的な国だし、スピーチのクラスでも中間テストがね、オバマとマケインのディベートを見て、んでその要点を書いたり、二人の論調の違いだのなんだのってのを書いてくるっつーのをさ、これは今のスピーチの先生が作ったやつじゃなくて、全体のスピーチクラス共通の中間テストなんだけど、こういうところに政治が出てくるのがやっぱりアメリカは良いなって思えるね。その理解度がたいしたもんじゃなくても、生活レベルで政治があるのが凄くいいし感心できる。馬鹿そうな生徒も「今夜のディベート見るでしょ?!」なんて話してたりするんだよね。そのぐらいみんな大統領選だとかに注目をしているっていう意味で政治的には無知かもしれないけど、政治的なモチベーションはあるってことで、やっぱり市民社会の成熟度は高いなとは思うね。そういう意味では本質的などうしようもない馬鹿の巣窟の日本とは結構違ったりするね。


あくまでまぁ相対的な価値観なんだけど、まぁそういう意味でもやっぱり俺はこっちが好きだよね。こういう面倒だけど、こんなようなのがテストになる国っつーのはいいなと思うね。で、また話が逸れたんで服従の話に戻るとね、馬鹿にかかるとこの服従服従だと感じないんだよ。これは大問題。プロフェッサーの機嫌を伺って、プロフェッサーに気に入られるようなエッセイやスピーチをすることが「良い」ことであると勘違いしてしまうというのが本当にヤバいんだよね。これは前にも書いた、本質的には服従したり抑圧されているということを気がつかないということの危険性の現れでもあるわけだよ。この辺は別なタームでチョムスキーがいつも繰り返し言ってるようなことと似ているけどね。いや、それは「良い」ことなんではなくて、システム的なものとの付き合いにおいて自分に有利に働くといった理由で生徒としての自分にとって「良い」ことなんであって、それが本当に「良い」ことなのかなんて全然また別問題なんだよ。そこでベタなエッセイを書いて点数をもらうのもいいけど、そんなのは学校のペーパーワークの一環なだけで、それは仕事をこなしただけなんだよ。それが個人の実存的レベルにおいて「良かった」ものかなんてのは全然違うわけだけど、でもそういったことが「良い」ことだとインポーズされてきた結果が大量の無知な学校のことだけはちゃんとよくやるような「良い生徒」を生み出すわけだよね。これは意味することは社会にとっても凄まじく従順で何一つ文句を言わないような下僕を教育機関が大量に生産しているということなんだよ。だから俺があえてする「良い生徒」のコミットメントと、「良い生徒」であるということが「良い」と宗教的とも言えるぐらいのドグマのレベルで信じている生徒のコミットメントは全然違うんだよね。


これが何が「良い」ことなのか?ってのをインポーズする教育機関の怖いところなんだよ、で、これが生政治的に個々の生活すらも規定するわけで、例えば良い会社に入って良い給料をもらって良い生活をするっていうようなね、今、書いた三つの「良い」っつーのもほぼ既存のねつ造された概念においての「良い」なんであって、そこに主体性は無いよね。「良い」ことなんてのは個々で違うはずなのに、そういったことを考える余地すらも与えないのが教育なんだよ。逆を言えばそういったことを考えるチャンスを与えるのが本来の教育なはずなんだけどね。


だからここで逆説的なことが出てきてしまうんだよね。本質的に勉強したい人は物凄く質の高い学校に行くか、自分で勉強するかっていう選択肢しか無くなってしまうんだよね。ふつーの学校でやらされることなんて大抵がユーズレスなものばかりだし、自律している人なら、自分の学習プランに沿ってやった方が建設的っていうことになって、学校そのものが無駄になっちゃうんだよね。ただ学校は学歴っつー専売特許みたいなのがついてるからさ、まぁそのためにみんな頑張るんだけど、本当に本末転倒もいいところだよね。学問と学校が完全に解離しちゃってる。


先生の言うことを聞いて、言われた通りにいろいろなことをやって学歴をもらうってのが学校なんだとすれば、もうこれは従順さを育てる機関としかいいようがないよね。で、会社なりなんなりも学校を卒業してるってことは、それなりに服従できるやつだろうってことで学歴を見て人間を判断できるわけ。学校に出たから物知りっつーか技術を持っているだろうってことじゃなくて、そのぐらいの大学を出たんだったら、まじめに出社してくる人間だろうしまじめで従順なやつだろうっていうね、そういうところを見るわけだよね。企業は。だからアウトサイダーは学校を卒業できないし会社にも入れない。で、そういうやつが凄い才能を持っていると、それが一気に天才扱いされて、企業から引っ張りだこになったり、売れっ子になったりするわけ。


俺がさっき書いた秀才が勘違いする天才というのは、学校なんかで上手くやっているやつが、その成績なり自分の学業の結果なんかによって、自分のアウトスタンディングな頭の良さにホレボレして自惚れるというタイプね。こんなの天才でもなんでもなくて、ただ頭が良くて、学校での立ち回りが上手いだけなんだよ。俺がさっき書いた後者の天才っていうのはアウトサイダータイプでね、一般的には完全にダメっていうレッテルを貼られているけど、実は凄まじいポテンシャルを秘めているという人たちね。でも残念ながらこういう人たちはちょっと人と変わっていたり、学校なんていうバカバカしいものと付き合えないので学歴が無かったりして、社会に出るきっかけがなかったりする人が多いんだよね。そういった状況がアノミーを生んじゃって、自分は完全にダメなんだっていう負のスパイラルを作り上げちゃって、んで引き蘢りになったりしちゃう。いや、本当はダメじゃないんだけど、状況なり現状がダメというレッテルばりをしてくるんだよね。


そういう意味で俺は完全に後者だけど、今は社会に出る準備をしてるわけでねっつーか亡命を成功させるためには大学を出とかないと話にならないから、だから服従モードでやっていくしかないってことなのね。で、自分の狂人力開発は自分で行うと。まぁ逆を言えば俺は凄い天才ではないから、学校とか出ておかないとチャンスが無いようなレベルの人間なんだよね。だから無理にでも学校に行くんだよ。


あーあーやっぱり長くなっちゃったなぁー。まぁいいか。まぁとにかくね、最近俺が書いてる天才にもランクがあるっつーのは自分でも結構気に入っているんだよね。実際そうだと思うし。天才かそうじゃないか?なんていう二元論の話じゃないんだよね。天才にもいろんなレイヤーがあるってことね。


ってことで、んじゃあまたね。


Death - Pierce Me

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