天才論とカルヴィニズム。

mimisemi2008-10-09

昨日の耳蝉天才論を補強したいと思う。自分が自惚れている天才だと思われたら嫌なので。まぁどう思われようが関係ないことなんだけど、これって結構痛いんだよね。かなり。いや、もう前置き一切無しに一気に書くとね、基本的にこれはカルヴァンの予定説と似ていてね、まぁ厳密に言えば聖書に書かれていたことを正確に抽出したのがカルヴァンなんで、まぁ聖書的なドクトリンと言ってもいいんだけど、予定説ってのはメガテン2の最後みたいにね、っつーかすげーやっぱメガテンの制作スタッフってレベル高いよなって思ったんだけど、ファクトリーセクションの労働者とかさ、ディスコとかで踊ってたパンクっぽい兄ちゃんとかさ、敬虔なメシア教の人とかさ、無造作とも言えるような感じで選ばれしものが
箱船に乗るメンバーとして選ばれているんだけど、これこそがまさしく予定説の象徴なんだよ。つまり予定説によれば、最終審判によって天国だか楽園だかに行けるような救われる人たちというのは最初から神に決められているわけで、後天的に人間が善に向けて努力しようが関係ないと。最初からそんなのは超越的存在である神によって決められているんですよと。だから悪人が救われようと善にコミットしたって、救われようと思っている厭らしい心は神には見え見えだし、そもそもそんなことをしたって、最初から選ばれし者達は決められているんだから、はっきりいって努力とか関係ないんだよね。


で、プロテスタントの人たちは予定説を知ってから世界観が変わったっつーのも、自分ももしかしたら選ばれしものかもしれない!っつーささやかな可能性にかける世界観が築けたからなんだよね。自分が選ばれてたらどうしよう!マジやべー!いや、教会行かなきゃ!みたいなね、年末に宝くじで一時的なスリルを楽しんでいるパンピーと同じなんだよ。で、俺のナスティーな天才説も同じね。自分は自分の実存や現状を見る限りどうしようもないっつーのは昨日も書いたことだけど、はっきりいって障害者なんだよね。俺は。障害者がどうしようもないと言うつもりはないけど、俺も一障害者として言わせてもらえば、障害者としてはこの障害が何らかの因果関係によってもたらされた障害に見える必然なのでは?みたいに考えないとやってけねぇー!って話なわけよ。ダルマを悟ることでニルヴァーナに行き着くもよし、キリスト教の教義にしたがって、自分が選ばれしものだと思うのもよし。つまりこの障害をただの邪魔物として考えるのではなく、何かしらの結果を出すための原因の要素の一つになっているのではないか?ということね。恐らくあまりに酷い障害で自殺を試みたりする人が宗教的な世界観に救われて障害を神から授かった賜物だと考えるようになるのはこういうことなんだよ。障害があったから今の奥さんと出会えた。数々の困難はあったけど、障害があったから今の自分を持つことが出来た。という風なね、これぞまさしく究極の自己肯定なわけだけど、俺が普段から考える差異の素晴らしさと尊重の重要性もこういうところにあって、自分は普通じゃないのが分かっているんだったら、その差異をバリバリに持って生きていったっていいじゃないか。むしろその差異を武器にすることが出来たら、それは凄い能力に転化する可能性もあるんじゃないか?と考えるような前向きな世界観ね。今までの歴史は階級闘争の歴史であったじゃなくて、内面闘争の歴史だったわけだよ。それはいつも書いてることだからいいけど、普通にあわせようとするとホメオスタシスがダメになるんで、そんなの関係ないやっていうね、俺は俺でやろうっていうようなことなんだけど、いや、ちょっと待てよと。むしろ俺は俺なりにやったほうがよっぽど良いんじゃないか?って考えるような思考法から編み出されたのが、その差異によって規定される天才性みたいなものね。


秀才と天才が関係ないのは、秀才は頭がいいだけで、知識量や何やらでこの秀才を並びたいんだったら、パンピーも頑張って勉強すれば、その知識量で秀才と並ぶことが出来るかもしれない。ただ天才が普通と全然違うのはパンピーがどうあがいても得られないような、特殊な感性や感覚や感受性を元々持っているからなんだよね。だから究極的に言えば知性とはあまり関係が無い。もちろんそこに知性があることで、その天才性をより物凄いものへと開発できるかもしれない。でも別に知性の善し悪しで天才性が規定されるわけではない。ジミー大西が良い例で、これは清水圭が語っていたジミーちゃんのエピソードなんだけど、なんかジミーちゃんがね、すっかり画家として名声を得たんでね、清水圭が「お前凄いなぁー」とかいいつつ、「そこに花瓶があるからスケッチしてみよか?」なんて話になったらしいんだわ。ジミーちゃんが一時的に帰国してたときだったと思うんだけど。で、清水圭は普通に写生をしていてね、で、ジミーちゃんの絵を見てみると花瓶がモチーフとなった、何かしらの抽象画みたいになってたらしいんだわ。で、「お前、なんでそんな書き方するん?」って聞いたら、ジミーちゃんは「え?だってそういう風に見えません?」って答えたらしいんだけど、これこそまさに天才なんだよ。美術大学出たりして、どんだけ絵の訓練をしたところで、ジミーちゃんの感性はパンピーの名門大学出の秀才画家には一生どうあがいても得られないものなんだよ。ではその才能の不平等性は?というともうそれはジミーちゃんが選ばれし天才だからと言うぐらいしか説明がつかないんだよね。もしくは能力が偏った変人とかね。普段はただの馬鹿で面白いちょっと頭の足りなそうな兄ちゃんなんだけど、絵の才能に関してずば抜け過ぎているっつー、メガテンのパラメーターのArt値に能力を振り分けすぎたみたいなね、そんなアンバランスな結果の所産なのかもしれないとも言えるわけ。


で、もちろんジミーちゃんは天才の部類で言うと相当上のほうだろう。でも俺も悪いけど他人とは違う考え方をするとか感性を持っているという意味だと天才の分類には入っているわけだよ。凄いとか凄くないじゃなくて、その「違い」が天才を規定するわけだ。だから俺が言っているのは並外れたインテリジェンスとか才能というわけではなくて、並外れた差異なんだよね。その差異に俺は苦しんできたわけだけど、もう選ばれしものかもしれないんだから、それを磨くのに頑張ればいいじゃないっていうことで、カルヴァンのもしかしたら!っていう予定説と似ているというわけよ。それによって救われたり、ガンガンに宗教にコミットしていく人がいっぱいいたわけでね、プロテスタントとかね、で、彼らの人生観は相当変わったわけだし、何しろ凄まじい生きる活力が湧いてきたわけだよね。ここがやっぱポイントなんだよな。「かもしれない!」っていう一握りの希望が凄まじい活力を生み出すっていうね、俺はそれを勝手に自分で思い込んで実践しているって感じなんだよね。だからそれは自惚れとか「俺は天才だ!」というようなものではなくて「天才かもしれないぞ!よし頑張って生きよう!」というようなカルヴィニズムと似ているわけなんだよ。


良かった。これで誤解が解消できたかな。天才って言葉は誤謬があるからね。マジで。だから説明せずにはいられなかったわけよ。まぁ個人的な自律救済だね。まさしく。今始まったことじゃないけど、こっちに来ていろんな人に会うようになってからも他者との違いを感じずにはいられない俺としてはもうこういう結論に至るわけだね。変わり者が多いところでも変わり者なのだなと。いや、むしろ前に書いたようにニューヨークって場所は型にはまった括弧付きの変わり者に耐性があるだけで、本当の違いを持った変わり者にはそれは本質的な差異という意味で人間の本能的な感覚から言っても耐性がつきようがないっていうね、それがまぁ前に書いた差異についてのやつなんだけど、まぁそういうことだよ。いや、違うならそれでいいじゃん。違えば違うほどそれは選ばれものの可能性が高いわけで、違いって素晴らしい!って思うことなんだよね。それが俺が昨日書いた狂人力開発なのね。間違うと大変な道に行っちゃいそうって思うかもしれないけど、そもそもの道がもう大変だったわけで、今に始まったことじゃないんだから、この違う道を歩み続けようということなんだよね。下手に「普通」に迎合する必要は無い。


あースッキリした!そういうことなんですよ。だからね、俺が天才のブランチに入っているのにも関わらずたいしたことないのはその天才性みたいなのが並か並以下だから、そこで普通から見た時に変人というだけではなくて、秀才みたいなね、知識量だけは凄いみたいな、そういう社会的なサンクションが働くような素材を作らないと社会でやっていけないどころか、入って行けないなっていうところで、まぁ現実的な現実世界との対処法としての学問へのコミットを図ろうと思っているわけね。人との違いというのはそれだけで才能なんだよ。だから「こうあるべき!」なんて考えるのはもってのほかなわけだよ。そんなベッキーは個々の才能を潰すような社会的抑圧ですよ。マジで。ってことで差異万歳!ってことで今日はこの辺で。

Acousmatrix 5

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↑ただのモンド電子音楽。アカデミックでもなんでもない。