教師は評価師。

mimisemi2008-10-15

いやぁーヘコむね。何がヘコむって学校だよ。今セメスターは色んな意味でいろんなことが全滅と書いたけど本当に酷いんだよね。特に今日はヒドかったな。っつーかさ、原因不明の腹痛があるんだよね。いや、単純にカフェインの取り過ぎかもしれないんだけど、関係あるかどうかは別として、今朝さ、今朝っつーかまぁ夕方だけど、台所の水を出したら茶色い水が出てきたんだよね。「うげぇー!」って思ったのは言うまでもない。で、すぐに気がついたのが今の胃腸の調子の悪さ加減とこの水の関係性ね。普段は水道水を濾過するフィルターとタンクが一体になってるやつに入れて飲んでるんだけど、仮にこの茶色い水を飲んでいたとしたらさ、いくら濾過しててもマズいだろうっていうね。いや、まぁそんなことはどうでもいいんだ。恐らくカフェインだろうし、最近、生活のリズムがバラバラだからってのもあってね、いくら強靭な胃腸を持っててもこりゃー調子悪くなるよっていうような感じだからね、最近。だからまぁいいんだけどまぁそんなことより今日だよ。


この最悪のコンディションの中でさ、しかも寝不足でね、で、嫌々学校行ったらさ、例のうるさいババアのスピーチのクラスで「よく書けてるじゃない」と手のひらを返したように言われた書き直したアウトラインが赤ペンだらけになって戻ってきたんだよね。「あれ?これなら満点をあげるわ」って言ってなかったっけ?何だこれ?とか思いつつね、添削にばばあの念がこもってたんだよね。書いてあるのはアウトラインの書き方はあってるんだけど、まぁ細かいことを色々書くわけよ。こういう性格のばばあだからね。まぁそれは良いとして、俺の一見大成功した初回のスピーチへの強烈なダメ出しね。筆記体が読めないんで何を書いてあるか100パーセントは理解できなかったんだけど、特にヒドかったのがね、即興的でスポンテニアスなプレゼンなんてダメっつーダメ出しと準備してこいっつー言いがかりね。あんなに盛大な拍手をもらってさ、誰もが完璧なプレゼンだって思えるようなのをやったのにさ、結局、このばばあの原則によると俺はC-らしいんだわな。Dが最低点だからまぁ最低の一個上ね。やってられっかよ!って思っちゃった。ましてや寝不足で腹の調子が悪い時に、こんなダメだしペーパーをもらったらもう死にそうな気分になるよね。


改めて書くとさ、例えばね、イントロダクションではまぁアテンションステップだかでさ、聴衆の気を引くために何かを持ってくるんだよね。で、それがこのトピックに関する逸話であったり、聴衆に問いかけるような質問をしたりするんだけど、まぁ俺は変な動作とかさ、まぁ持ち前のね。あと前に書いたようなジョークとかね。ウケてるかウケてないかはともかくとして「なんだこれ?」っていうことでもう普段は生徒のプレゼンなんて聞いてないようなやつまでも俺に注目してたわけ。これってアテンションステップとしては大成功じゃない?芸人で言うと掴みはオッケーってやつでしょ?でもこのばばあの原則だとルールに則ったアテンションステップのやり方をしなきゃいけないので、俺のはそれに沿ってないんでダメだってことなんだよね。恐らく。でもさ、よく考えてみれば目的は注意を惹くためなわけで、別に法でも犯さない限り別になんだっていいじゃんね?例えるなら、すんげーオーソリティーの師匠クラスの芸人が若手に「掴みは自己紹介と決まっておる!:って怒鳴りつけてさ、それ以外のことをやったら「なにやっとるんだ!」って言うようなもんだよね。アンタッチャブルなんかは舞台袖から出てくる前からもう山崎がネタ始めてるみたいなボケから始まるんだけど、最初からウケてるんだよね。で、柴田が「おいおい!まだ始まってねぇーよ!ちゃんとこっち来てからやれよ!」なんて突っ込むんだけど、掴みとしてはバッチリだよね。でもそこで才能が無いただの芸歴だけでモノを言わせてきたようなつまらない師匠クラスの芸人に言わせれば「なんやねん!それ!」ってことになるわけよね。これも本当に本末転倒なことなんだよ。掴みの目的は客の気を引くためなわけでさ、それが出来ればいいわけだよね。なのに評価の基準が客の芸人に対する注目じゃなくて、「はいどうもー!アンタッチャブルでーす!今日は名前だけでも覚えて行ってもらえれば幸いでぇーす!」ってステップを踏んだかどうかで決めるなんておかしなことだよね。方法なんてどうだっていいんだよ。目的さえ果たせれば。そこの方法に何か後の漫才なりプレゼンなりに効果的に響く何かを設置しておくという意味での事前に布石を置いておくためのイントロダクションとかね、方法の中にも目的遂行のために貢献するような何かがあるから方法が重要なんだというなら分かるんだよ。それはまぁ言うまでもなく結果的に結果が良くなる可能性がある方法なんで、それはやったほうがいいかもしれない。でも単純に目的が客の気を引くということだったらそれ以下でもそれ以上でもないわけで、方法はともかくそれが出来ればいいんだよ。いやね、仮に俺が変な掴みをして、ずーっと変な調子でプレゼンしてたら大問題だよ。それは突飛な始め方をして「なんだ?」って思わせといて、んでネタ自体が全て突飛なことをやるだけで終わるみたいなさ、そんな芸人と同じだからそりゃーダメなんだけど、俺はプレゼン自体はまぁばばあのご希望に沿ってなかったかもしれないけど、ちゃんとやってるし出来ていたわけだよ。その結果があの拍手でしょう。俺も凄い手応えを感じたしね。


でもばばあ曰くC-らしいんだわな。それは俺のただ単に根拠の無いジョークかもしれない「プレゼンの緊張をほぐすためには準備が良いんです。とはいっても僕は全然準備をしてこなかったんですけどねぇー」っていう一言から「あいつは準備していなかった」と決めつけてグレードを下げるなんて信じられないね。これは前にも書いたけど、仮に準備をしていなくてもプレゼンの内容を聴衆に理解してもらえればいいわけじゃない?そこは前に書いたジャズの話と一緒で、演奏の善し悪しは準備に依存しているわけじゃないんだよ。仮にそれがただのジャムだったとしてもね、その演奏が凄く良かったらそれは「良い」演奏なんだよ。まぁ自惚れるわけじゃないけど、俺のプレゼンは大半がたいしたことない他の生徒のプレゼント比べれば良い方だったんだよ。もちろん完璧じゃないし、ずば抜けていたとは言えないよ。でも悪くはなかったんだよ。みんなは理解してくれたみたいだし。


でね、サルトルのReflected ConsciousnessとUnreflectedの話があったじゃない?で、これもダメだしペーパーに書いてあったんだけど、どうやらこのサルトルの話とプレゼンが全然繋がっていないように見えたらしくね、「途中から違うトピックのプレゼンになっていた」なんて書いてあるわけ。おいおいちょっと待てよと。俺は凄まじく詳しくサルトルのこの概念を説明した後、明らかに凄まじく明快に、プレゼンに緊張している主体は、そこに緊張している自分という主体を認識しているReflected Consciousnessの状態にいるわけで、プレゼンなんつっても誰もてめぇーのことを気にしてないんだから、普段のようにunreflectedなconsciousnessで挑めよっていうようなね、そんな説明を最後にしたわけでしょ?なんでそれが違うプレゼンになるんだ!!ぐわぁぁぁー!!!耐えられない!!!腹痛てぇぇぇぇぇぇぇ!!!!これはプレゼンの中にある従属したトピックなんであって、トピックが変わったわけじゃないんだよ。それにばばあは散々、議論をサポートするための従属レベルでの枝分かれした主題に対する説明が必要なんて散々言ってたじゃないか!ちょっと長過ぎたかもしれないけど、俺は完璧にこれをやっていたわけだよ。もう本当に何が悪かったのか全然分からない。分かることはばばあが気に入るようなフォームでやってなかったからってことなんだろうけど、プレゼンの善し悪しよりも、その方法なり下準備をしたか否か?なんてのを重要視する評価基準になんて俺はついていけないわけよ。ここで適応性のある人っつーか世渡りの上手い人は、まぁ変だなと思いつつも、ばばあが気に入るようなプレゼンを仕方なくやるんだろう。でも俺には無理なんだよね。ナンセンスに耐えられないんだよ。本当に。だからまぁ俺は社会不適応者なんだけどね。


あとはやっぱり評価だよね。C-ってもう当てつけとしか言いようがないよ。全く準備してないようなプレゼンをダラダラとやっちゃってんでこの点数なら分かるけど、結構上手くちゃんとやったのにこれだもんな。で、前にも書いたような俺が気にするのはGPAなんだよ。つまり仮に四年制大学に入るのだとすれば、必要な平均GPAというのがあって、例えば並以下の成績だったら転入できないかもしれないんだよね。だからね、こんなばばあの独裁的な判断でさ、俺のグレードが下げられちゃたまったもんじゃないんだよ。でもそれっていうのは前にも書いたように、ばばあが俺のグレードを握っている以上、それがどんなにナンセンスであったとしても従わないといけないんだよね。ここに生徒が教師に媚を売るというような、会社の上司に媚を売るみたいな、構造的な力学が働いてるんだよね。そこで世渡りの上手いやつは従属しつつ媚を売って自分の得点を得ようとする。ただ俺にとってはこんなことは仮に一時的なものであっても
魂を売るようなことなんだよ。いや、ちょっとは魂を売ったよ。「あのばばあどうしようもねぇーな」って態度でばばあに接するんじゃなくて、「一応尊敬してますよ」という風に見えるような態度で接するようにはしてる。俺の態度を剥き出しにすることでばばあに目を付けられていたらそれがそれで俺が損するだけだからね、そこはまぁいいんだけど、でも中身までは売れないよね。魂を。


いやーショックだわ。マジで。ちょっとぐらい点数が低いのなら分かるけど、ほぼ最低とはね!んじゃあ次は英語のクラスね。これはまぁしょうがなかった。48時間、嵐によってどこかに避難しなければいけなくなった。で、その避難所に何を持っていくかを書けっつーエッセイの内容なんだけど、なんかね、5パラグラフ必要だったらしくてね、俺は最低2ページとしか聞いてなかったから、2ページだけ書いて出したんだよね。そしたら「これはエッセイじゃなくてただの一つのパラグラフだ」なんて言われちゃってさ、言われちゃってっつーか、俺のエッセイの添削に書かれてたんだけどね、これもまぁショックだったよね。「こんなものはエッセイではない」なんて書かれてるんだもん。割と結構な量を書いたのにも関わらず、パラグラフになってないっつーんで、これはもうエッセイじゃないらしいんだよね。つまりFirst of allだのSecondだのFinallyだのっていうようなのが各パラグラフに書かれた、読者にこれでもかという分かりやすいディレクションを与えたような文章じゃないとエッセイとは見なされないんだよね。こういうのって本当にアメリカ人の厚かましい性格が出ていると思う。まぁ言語的な要素もあるんだろうけど、どっちかというと例えば日本語とかドイツ語とかフランス語みたいな、英語みたいな単純な言語とは違う、その単語の意味がコンテキストなり、読者や作者の意識によって変わるような言語ではね、そういうのを駆使した文章ってのは上手い文章になるんだよね。もちろん凄まじく抽象的に書いて分かりづらいポストモダンみたいな晦渋な文章を書くことがいいわけじゃないんだけど、ただ読者の解釈に委ねられるような単語とかね、書き方とかね、そういうのを察するというか読み解くのが読書というか読解なわけじゃない?そういうことをしてたから思想というのは発展してきたわけだよ。なのにも関わらず、こういうアメリカンウェイなことばかりを言う連中は、読者に優しくない文章じゃないともうそれはダメみたいなね、安易なソーカリズムみたいなのがコモンセンスなんだよね。もちろんソーカルの指摘自体はあっていたんだと思う。ただ北田アキヒロ(変換でない)が言ってたような、2ちゃんの思想系のスレッドに書き込みをしているような低レベルな連中がソーカルを持ち上げていた理由っていうのは、低レベルな連中がポストモダン系みたいな晦渋な文章で書かれたものを理解できないということに完璧なエクスキューズを与えてくれたのがソーカルってことで、そんな理由で持ち上げられていたらしいんだけど、アメリカってのは一般的にこの低能2ちゃんねらーみたいな風潮がコモンセンスなんだよ。つまり自分がそれを読んでいて「?」と思うようなものは、それは読み手に「?」と思わせるような書き方をしている書き手が悪いという判断をするんだよね。そこで恐らく近代哲学を研究して育んできた国々の人々というのは、そんなものは分かっているけど、その晦渋な文章の先に重要なことがあるんで、その解読に苦心してきたわけよね。それを「分からん。なんて悪文なんだ!」と分からないという理由から拒否するのではなく、様々な研究や読解によって多角的な読み方をすることで読み解いてきたわけじゃない?いや、ポストモダン系は
よく言われるように、例えばドイツ観念論だのもっと昔で言えば古代ギリシャの哲学なんかが取り組んできた問題を、様々なレトリックや衒学的な書き方をして飾ることで何か凄いことを言っているように見える晦渋ながらもかっこいい新しい思想みたいに見えるようにペダンティックに振る舞ってきたってのはあると思うよ。でもね、「こんなのヘーゲルが言ってたことの焼き増しじゃないか」と批判するのにもその晦渋なポストモダン系の思想の読解が必要なんだよ。そこで「読みづらい。分からん」って放り投げてしまったら批判も出来ないでしょ?そういった意味でさっき書いた北田アキヒロみたいな人はソーカルを支持しつつも安易なソーカリズムを批判してたと思うんだけどね。


で、アメリカってのは繰り返しになるけど、何々に沿ってないからダメとかね、分かりづらいからダメとかね、自分の努力も試みも何にも無しで、単純に自分が理解できない理由だのなんだのってのを相手の責任にしようとするんだよね。「お前が悪いんだ!俺は悪くない!」というような訴訟が乱用されているアメリカ的な考え方ね。そんなのが読書にもあるわけ。だから良い書き物というのは、こないだ書いたようなDahlみたいな凄まじく分かりやすい書き方をしているようなものじゃないと良いとは言えなくなるわけ。だからアメリカってのは大陸系の哲学の研究がお粗末だったり理解が稚拙だったりするわけ。その背後には絶対「何が書いてあるか分からん」っつってその分からないということを書き手のせいにして放り投げているような態度があると思うのね。アメリカで大陸系の哲学とか思想を研究してるところなんて大抵が大陸からの留学生なり移民なりなんなりだったりするんじゃないのかな?所謂、星条旗を背負ったアメリカンは分かりやすいものしか好まないから思考力と読解力を必要とするような晦渋なものは好まないんだろうね。その現れが目先の快楽ばかりを追求するような、分かりやすいアメリカンカルチャーね。ファーストフードに分かりやすいハリウッド映画。俺はこのイージーさが好きであったけど、最近はもう嫌気が指している。というのも彼らはそれを当然ながらone of themとして捉えているのではなく、それが全てだと勘違いしているからなんだよね。で、下手なやつになるとそれが一番だったりすると思っている。それがアメリカはナンバーワンだみたいな全く根拠のないアホで間抜けなアメリカ人の根底を支えている勘違いなんだと思うんだよね。俺はそれがイージーなカルチャーの一つだと思っているので、様々な文化がある中から、好きなものの一つとして捉えているけど、これがスタンダードっつーか全てだったらこれほど馬鹿なものはないよ。むしろ俺のアメリカンカルチャーの捉え方はニヒリズムから来ているんだよね。それは
サイモン・クリッチリーが語るような受動的ニヒリストの典型で、受動的ニヒリストというのは、あえて先進的なことをせずに、ヨガをやったり畑を耕したりガーデニングをしたりっていうね、もう全部がダメなんだから自然に帰るしかないよねとかね、東洋の神秘だよねというようなね、諦めから来ている生活モデルなんだよね。こういうのは。で、俺の場合も大枠は一緒で諦めてはいないけど、現実は絶望的なことしかないんで、だからアメリカの馬鹿でイージーなカルチャーや人々の中にいることが少しは辛い現実を霞ませてくれるような要素だと捉えているんだよね。だからアメリカの馬鹿な店員とかルードな店員とか適当なサービスとかにしても、そこにそんなプアなサービスを受けている俺ということよりも、こんな適当なことが許されているダルンダルンな社会っていうところが絶望的な世の中にある一握りの遊びなんだと思うことで気が楽になるというか、そういう適当さが今の俺にはちょうどいいんだよね。でも最近感じるのは彼らは根っこからのそういう性質なんで、それ故に酷い無知をさらけ出したり、ゴミカレの生徒や教師どもみたいな、最低の烏合の衆をどんどん量産しているとも言えなくもなくて、結構これはヤバいなと思うようになってしまったんだよね。


その典型みたいな教師のクラスを受けなきゃいけない俺としてはもう本当にこういうのが嫌になる。馬鹿さ加減に呆れ果てるというかね、去年とかの俺の言い方って「アメリカは民度が高い。日本は低い」みたいな感じだったけど、まぁアヴェレージはアメリカの方が断然高いとしても、やっぱり馬鹿は多いよ。だから確信に変わったのは「日本は馬鹿が多い」っていうのは誤りだったんだなということね。恐らく世界のどの国にいっても大半を占めるのが馬鹿な連中で、本当に優れている人や頭のいい人は一握りなんだよね。そういうものの結果が今の世の中よ。どーしょーもない。だから俺は政治エリートの存在を渇望するわけね。もう人々は無理。アホ過ぎる。いや、そんな馬鹿馬鹿って言うけど、んじゃあ俺もその人々の中の一人だっていうのか?なんて思うのは大間違いで、考えてもみてほしいのが、例えばバイト先とか勤め先とかでもいいんだけど、「あ、こいつは頭がいいし話せるやつだな」って思える人って凄く少ないでしょ?逆にそういう人が多かったらもっとみんな幸せなんだよ。でも現実はそうじゃない。どーしょーもないやつと力関係の中で付き合って行かなきゃいけないとかっていうような、大半の人間関係はそんな妥協しか無いんだよね。だから妥協で付き合わない人間というのは相対的に少なくなるわけよ。


あ、んでね、全部書き終えてるんだけど、長さが尋常じゃないんで三回ぐらいに分けますね。ってことで今日はこの辺で。

神々の気這(けは)い―磐座聖地巡拝

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